14.




辛うじて握られていた手が、するり、と落ちた。
ぱしゃん、と小さな水音を伴って。

もう二度と目覚めることのない少女の髪をそっと掻き揚げ、ルルーシュはその額にひとつ口づけを落とした。


「…ありがとう、シャーリー。だから俺は、」

謝罪の言葉は、口にしない。


片膝を付いた部分が、じっとりと濡れている。
彼女が大量に流した血が、染み込んだのだろう。
ゆっくりと立ち上がると、離れた場所で微動だにしなかった気配が揺れた。
「ルルーシュ様、」
続くであろう言葉を、止める。

「お前が謝罪すべきことも懺悔すべきことも、何一つない。
悔やむなら、己の内だけで悔やめ」

だから責めるな。
決して憎むな。
お前が見た真実を。

ジノはただ、その言葉に肯定を示すことしか出来ない。
(…知っていた。この方の持つ"慈愛"が、この世のどんな残虐非道よりも残酷なことを)
やさしさはざんこくだ、と誰かの謳った詩を思い出した。
「ジノ。お前の見たままを話せ」
「…はい」
ジノには、少女の両手を組ませるルルーシュの背しか見えない。
ただとても、それはとても穏やかな笑みを彼は浮かべているのだろうと思った。

「貴方が上ったルートとは別のルートであったらしく、私は敵対者と会っていません。
ちょうどこの階に到達したとき、話し声がしました」

ルルーシュが念のためにと仕掛けていた煙幕装置。
そのおかげですべての人間がテロだと勘違いし、警察と軍はすべての民間人を避難させた。
にも関わらず聞こえた話し声に、ジノは気配を消してこのホールの様子を窺ったのだ。

『ねえ、ロロ。ロロは、ルルーシュが好き?』

1人はつい数十分前に挨拶を交わした、シャーリー。
(おそらくシャーリーは、スザクが避難させたはずだ。なのに彼女は戻って来た…)
彼女の強い意志を含んだ声音に対していた気配は、鋭い緊張を以てして応えた。

『好きだよ。たった1人の兄さんだもの』

アッシュフォード学園に居るはずの、ロロだ。
ルルーシュの身の安全を考えて、駆けつけて来たのだろう。
だが、問題はその後だ。
その後シャーリーは、ジノには訳の分からないことを言っていた。
印象に残っているのは、彼女の声がひと際大きくなった部分だ。


『ルルに取り戻させてあげたいの! ナナちゃんを!』


気付けばロロは消えて、在ったのは血塗れで倒れたシャーリーの姿。
一瞬で済むはずの無い出来事が、一瞬で起きていた。
途切れたジノの言葉を合図に、ルルーシュは漸く立ち上がる。

「潮時…か。お前にも、教えるべき時かもしれない」

何を、と問おうとした声は、外の喧噪に呑み込まれる。
「戻ってから、話す」
それだけ言ってまた屋上へと駆け出した主を、ジノは追うことしか出来なかった。





(ああ、やってしまった)

もう殺すなと言われていたのに。





棺の前で泣き崩れる母親。
棺に納められた少女を知っている者は、誰もが涙を流した。

ただ1人を除いて。

非難する気など無かったが、リヴァルは気付けば尋ねていた。
「…ルルーシュ。お前、なんで泣かないんだよ…?」
彼の隣で涙を浮かべていたミレイも、ちらりとルルーシュを窺う。
小声で尋ねられたルルーシュは、十字架の刻まれた棺を見つめて静かに答える。

「最後に泣いたのは、9年前だ。…母が、目の前で殺された日。
あの日以来、俺には『泣く』という行為が分からない」

思わぬ告白に、リヴァルもミレイも喉を詰まらせた。
「ルルちゃん…あなた…!」
何事か続けようとした彼女を、浮かべた笑みで黙らせる。
(本当はお前も知っているはずだ、ミレイ。お前はその名前だけで関わりがある)
だが、今の彼女は記憶改竄を受けている。
そしてアッシュフォード学園に関わりがある者も、数年前の段階からすべて。



ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
落ちて来た雫を払いのけ、ロロは喪服の者たちが集まった墓地の一角をそっと覗く。
(…シャーリー・フェネット)
後悔など、露程も無い。
思い出しただけで怒りが込み上げ、ロロはその波を拳を握ることで堪える。

「…何の御用ですか? ジノ・ヴァインベルグ」

騒ぎ立てては気付かれる。
どうやら公務から抜け出して来たらしく、マントが無いだけでラウンズの姿だ。
「…その様子だと、後悔はしてないって感じだな」
ジノの白い騎士服に、雨粒が薄く染みを作る。
今度こそ、ロロは殺気を隠さず視線に込めた。

「あの女は、ボクを否定した」

自分はちゃんと言ったのだ、『ルルーシュ』を『兄』だと。
けれどシャーリーは、それを無視した。
"ロロ・ランペルージ"という存在を無視して。
「だから、殺したのか」
どこか呆れを含んだジノの言葉に、ロロは嘲笑を返す。

「日向しか歩いていない貴方には、分からないですよ。
ボクは兄さんに出会うまで、『ロロ』という個人の存在を認められたことが無かった」

"ギアス"の力を発現してからずっと、暗殺者として生きて来た。
ターゲットの家庭に入り込み、自分が子供であることさえも利用して。
(そう。真っ当な生き方なんて、欠片も知らない)
その点でジノは、ロロと真逆の世界を歩いている。

『ルルーシュ』という存在が無ければ、出会う可能性すら無かった。

不意にひたり、と首筋に冷たい感触がした。
小さくはない驚きを持って視線を向けると、そこには小型ナイフを構えたロロが居る。
ジノは視線を墓地に戻し、静かに息を吐いた。

「それが、お前の"ギアス"か」
「ええ。ボクのギアスは"人の体感時間を止めること"です。
直接確かめろ、と兄さんに言われたんでしょう?」

どう考えても、ジノに勝ち目は無い。
ロロはゆっくりとナイフを仕舞う。

「ちなみに、"ギアス"という力が1つではないと知っていますか?」
「…話だけは聞いた」
「ボクが産まれた場所が、その本拠です。兄さんは嚮団と呼ばれるその場所を、襲撃すると言っていた」
「なぜ?」
「嚮団の嚮主は、現ブリタニア皇帝と深い関わりがある。ボクが知っているのはそこまで」

学園へ戻るのだろう。
ジノに背を向けたロロは、何か思い出したのか足を止めて振り返る。

「安心して下さい。ボクの"ギアス"が貴方に効くのは、たぶん今日が最後です」

意味が分からない。
眉を顰めたジノに対して、ロロは肩を竦めた。
「会っていないから試してないけど、おそらく黎星刻には効かなくなってる」
ますます分からない。
「どういう意味だ?」
問えば、歓喜と嫉妬が等しく入り交じった笑みを向けられる。
「兄さんの"ギアス"は知ってますよね?」
ルルーシュが、中華連邦から帰って来る前の話だ。
彼は本人の同意を得た上で、星刻に"ギアス"を掛けたと言っていた。

「『他のギアスには掛かるな』と命じたそうです。効いたかどうかは、試さないと分かりませんが」

羨ましいと呟いたロロに、今回だけは共感した。
何事も、"最初"というのは特別なのだ。





墓地へ背を向け、ジノは政庁へと歩き出す。
(貴方はすべてを赦されてしまう。それが、どんな意味を持つのか知った上で)
ルルーシュ様、と音には出さず名を呼んだ。

その優しさは、どこから来るのだろう。
その残酷さは、どこから現れるのだろう。

そんな素晴らしい主の、騎士。

きっと誰もが、ジノのことを狂っていると言うだろう。
容易に想像出来るそれは、いつか来(きた)るべき日。
それがあまりにリアルであまりに滑稽で、ジノはくつりと喉の奥で笑った。

(何があろうと、私には無関係だ)
哀歓へ捧ぐ

片方は死者を悼み、片方は。

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08.9.1