29.
奥の宮。
それは中華連邦皇帝たる『天子』が、婿(現天子は女性だ)を迎えたときに開かれる対の住まいだ。
天子の新参の側近である香凛は、宮への道筋さえ知らない。
けれど半年程前まで、その宮には賓客が居た。
決して名前が出されることはない、『奥の宮の賓客』とのみ呼称される存在が。
(天子様と星刻様だけではなかった。天子様の世話役である、女官たちも)
彼女たちも、知っている。
『奥の宮の賓客』と呼ばれる存在を。
香凛と共に奥の宮へ入り、天子はきっちりと錠を閉めた。
洪古(ホン・グ)には、下で出迎えるよう指示している。
心が、弾んだ。
(もうすぐ、お逢いできる…!)
そうしたら、今日学んだことをお話ししよう。
(お話しして、次に何を学ぶのがよいか、じょげんをいただこう)
この部屋は、"彼"が出て行った当時のまま残っている。
天子は"彼"に何かを学ぶときに使っていた丸テーブルへ近づき、同じ丸椅子に腰掛けた。
「あの、天子様…」
戸惑うような香凛の声に、何だろうと顔を上げる。
香凛は入ってきた扉を見遣った後に、問い掛けた。
「なぜ扉に鍵をお掛けに? 上客は、こちらから入るのではないのですか?」
だとすれば、残る出入り口は1つ。
天子は頷いた。
「あの方は、あまり人に出会いたくないとおっしゃっていた。だからいつも、あちらから出入りされる」
彼女が視線を向けた先には、非常時にのみ使用される扉があった。
中庭に降り立ったのは、神虎と2機の暁。
まず洪が不思議に思ったのは、神虎と暁がもう1機の暁を抱えていることだった。
満足に稼働出来ていない点を思えば、乗っているパイロットが負傷していると考えるのが妥当か。
「星刻、これはいったい…」
真っ先に神虎から降りてきた星刻へ問うが、どうやら彼の意識は暁へ注がれたままのようだった。
抱えられていた暁は神虎のすぐ隣に落ち着き、ややあってハッチが開く。
「きゃっ?!」
誰かの悲鳴が聞こえて、何事かと洪は慌ててそちらを見た。
(あれは確か、『ゼロ』と共に居た…)
ライトグリーンの髪をしたその少女は、いつも『ゼロ』の傍に居た存在だ。
どうやら、ハッチから出ようとして足を滑らせたらしい。
星刻が手を取り、降ろしてやっている。
「…?」
どうもその光景が、洪には不可解なものに見えた。
「ご、ごめんなさい! あの、ありがとう…ございます…」
ぺこりと星刻へ頭を下げる、少女の姿が。
(あのような性格ではなかった気がするが…)
だがその疑問も、少女が大事そうに抱えているものを認識した瞬間に吹き飛ぶ。
「星刻! それは…?!」
思わず叫んだ洪に、星刻はようやく意識を向けた。
「C.C.。お前は先にあの扉に入り、そこで待っていろ。すぐに我々も行く」
「は、はい」
少女は小走りで洪の後ろにあった扉へ駆け寄り、わずかな躊躇の後にくぐり抜けた。
すれ違う瞬間に彼女に会釈された洪は、ますます困惑するしかない。
「星刻、まさかこの暁には…」
着地はしたが、未だパイロットが降りて来る気配のないもう1機の暁。
予想に違わず星刻は頷いた。
洪は信じられない、と暁と星刻を交互に見遣るばかりだ。
星刻も改めて暁を見上げ、驚くばかりの洪を即す。
「他に見られるわけにはいかない。気付かれても、面倒なことになる」
だから蜃気楼にはロロが乗り斑鳩へ戻し、こちらは騎士団の汎用機である暁に乗っている。
全てではなくとも意味を悟った洪は、軽く瞠目した。
「…分かった。では私は、先に立った方が良いんだな?」
この暁に乗っているのは、『ゼロ』だ。
仮面は先程の少女が持っていた。
「仮面を付けられない、理由がある。それは天子様にお話しするときに」
返した星刻に頷くと、洪も少女と同じように先に扉を潜った。
彼の姿が見えなくなってから、ルルーシュはギリギリまで扉へ近づけた暁から少女を星刻へと抱き渡す。
次に自分が飛び降りて、また少女を抱え直した。
「さすが、歴戦の存在は察しが早い」
洪の行動にそんな高評価を出して、ルルーシュは星刻と共に朱禁城の脱出用通路へと足を踏み入れた。
斑鳩に、蜃気楼が着艦する。
しかし降りてきたのは『ゼロ』ではなく、零番隊の隊員。
「ロ、ロロ?! ゼロはどうしたんだ?」
副隊長である木下が、慌てて掛けてくる。
その向こうに四聖剣の朝比奈の姿を見つけ、ロロは面倒だと眉を寄せた。
整備の責任者にエナジーフィラーの交換だけを告げて、彼は艦内へと歩き出す。
「ロロ!」
なおも呼ぶ木下の声に、ようやっと足を止めた。
「…何ですか?」
「何って、ゼロはどうしたんだ? なぜお前が蜃気楼に…」
どれだけ自分で考える頭がないのか、こいつらは。
ただ、苛つきのみが募る。
「なぜって、中華連邦へ事の次第を報告に行ったに決まっているでしょう?」
星刻が居るとはいえ、指揮を執っていたのは『ゼロ』だ。
責任者が釈明に行くのは当たり前だろう。
「蜃気楼で行けば、『ゼロ』が居ると宣伝するようなもの。それじゃあ極秘行動が台無しだ。
あの研究所は、明るみに出て良い存在じゃない」
「…その極秘任務って、どういう任務だったの?」
懸念した通りの横槍が入り、ロロは露骨に舌打ちをしなかった自分を褒めた。
(本当に、壊したい)
連発の効かない"ギアス"とはいえ、60分…いや、30分以内に斑鳩の人間を殺し尽くすことは可能だろう。
(さっさと見限ってしまえば良いのに、こんな組織)
ルルーシュさえ許可してくれれば、すぐにでも潰すのに。
いつだって騎士団の幹部連中…特に四聖剣は、『ゼロ』を疑って掛かる。
『ゼロ』が居なければ、生きてさえもいないくせに。
ロロにはそれが許せなかった。
「言ったら極秘任務の意味がない。それでも聞きたいなら、木下に聞けば良い。
『ゼロ』の指示に背いてたくさんの子供を虐殺したって、そういう話が聞けるから」
聞かずとも、暁には簡易レコーダーが搭載されている。
それを聞けば、すべての顛末が分かるはずだ。
絶句した朝比奈と青くなった木下に背を向け、ロロは斑鳩の一角にある開発研究室へ向かった。
軽いノック音の後、宮の奥にある扉から入って来たのは洪だった。
香凛が目線で問い掛けると彼は軽く首を振り、彼女と同じように天子の斜め後ろへ立つ。
「洪、客というのは…?」
「…いや。私もまだ、見ていないのだ」
どういう意味だと問い返す前に、星刻が入って来た。
扉の脇に控えた彼は、扉の向こうにいる誰かへ頷く。
それに答えてかおずおずと入って来たのは、騎士団で何度か見掛けたライトグリーン。
確か、C.C.と呼ばれていた少女だ。
はたしてこのような態度を取る人物だったかと首を傾げるが、彼女が腕に抱えるものに目を見張る。
「まさか…?!」
それは、『ゼロ』の仮面。
香凛は問うように星刻を見るが、彼は答えない。
「他の客人は?」
扉の向こうから突然聞こえた声に、意図せず息を呑む。
間違えようもない、『ゼロ』の声。
「天子様と香凛、洪だ。他に来るとしても、あの2人の女官だろう」
返した星刻が言った"女官"はおそらく、『奥の宮の賓客』を知っている天子の世話係のことだろう。
「…そうか。ならば口外されることもなさそうだな」
そう言ってゆっくりと扉を潜って来た、1人の人物。
香凛と洪は我が目を疑った。
紛うことなく、纏われているのは『ゼロ』の衣装。
声も同じだが、しかし。
「貴殿が、『ゼロ』なのか…?」
思わず問うた洪の反応は、誰が対したとしても同様だろう。
そんな確信さえ、あった。
(…馬鹿な)
美しい顔をした、少年。
けれど『ゼロ』であるには、彼はあまりにも若すぎた。
紅蓮弐式のパイロットも、まだ学生の年齢であると聞く。
ブリタニアのラウンズの中にも、同様に若い騎士が存在しているらしい。
しかし、これは同等に並べて良い問題ではなかった。
見るからにブリタニア人だと分かることも、主義者が居るのだからどうだって良い。
(…そんな、馬鹿な)
渦中の『彼』は1人の少女を抱きかかえたまま、半信半疑尋ねた洪に笑った。
それは優しく、それは美しく。
「そう。始めから等しく、私が『ゼロ』だ」
美しさは罪だと、昔誰かが言った。
"傾国"という言葉の意味が、今ならば分かるような気がした。
(…そうか。星刻様は、)
香凛は悟った。
かつて天子が、側近になってくれと望んでくれたときの言葉の意味を。
ーーー星刻は"あの方"の『きし』なのだから、"あの方"のそばにいなければ。
彼女が言った"あの方"は、『奥の宮の賓客』のことだったのだ。
この、『ゼロ』だという少年のことなのだ。
彼は慣れた足取りで奥にあるベッドへ腰掛け、抱いていた少女を降ろしてやる。
「ルルーシュさま、その子は…?」
香凛と洪が惚けている間に天子は丸椅子からぴょんと降りて、ルルーシュへと駆け寄った。
少女はそれに怯えたのかルルーシュにしがみつき、気付いた天子はベッドのすぐ傍で足を止める。
「ああ、この子は…」
怯える少女の頭をそっと撫でて、ルルーシュは大丈夫だと穏やかに諭す。
「大丈夫だ。ロロももうすぐ戻るし、ここにお前に危害を加える者は居ない」
少女はルルーシュを見上げ、天子を見つめ、香凛と洪を見遣り、星刻を見た。
そうしてまたルルーシュを見上げて、彼が頷いたことを確認してからおずおずと再度天子を見つめる。
どうすれば良いのかと迷う天子に、ルルーシュは別の意味で頷いた。
その意味を何となく悟った彼女はよし、と気合いを入れて、少女へ声を掛ける。
「あの、わらわは天子と言います。あなたは…?」
しかしそこで初めて、ルルーシュが首を横に振った。
「天子、それは違うだろう?」
『天子』とは、日本における『天皇』、ブリタニアにおける『皇帝』と同意。
それは個を示す名ではなく、国を表す固有名詞。
違うと言われ戸惑う天子に、ルルーシュは同じ微笑で問う。
「俺がなぜ、今までずっと『天子』と呼び続けて来たか。分かるか?」
分からない。
ふるりと首を振って、天子はハッと気付く。
(そうだ。ルルーシュさまは、わらわの名前を知っているのに)
なのにいつも、彼は『天子』と呼ぶ。
だから彼女も、『天子』という呼び掛けに反応を返していた。
迷いの色を濃くした彼女の目は、答えを探し求めるように香凛へ向けられる。
今までは真っ先に星刻へと向けられていた、それ。
(ああ…天子様は、だから)
香凛はなおも悟る。
天子の星刻へ向ける視線の意味が、クーデターの後に変化していたことを。
きっとこれは、天子にとっても星刻にとっても、喜ばしい変化なのだろう。
だが今回は、香凛も答えが分からない。
天子が"ルルーシュ"と呼ぶ、『ゼロ』の問いの答えが。
香凛の目に同じ戸惑いの色が浮かんだことを見つけた天子は、ルルーシュへ視線を戻す。
ルルーシュは、答えをはぐらかすような真似はしなかった。
「俺が今まで『天子』と呼び続けて来たのは、お前に『天子』である自覚がなかったからだよ。
"麗華(リーファ)"」
名を呼ばれたのは、本当に初めてだった。
「ルルーシュ、さま…?」
大きく目を見開く彼女に、ルルーシュは苦笑を浮かべる。
「だって、そうだろう? 少なくとも半年前のお前は、『天子』という名の意味も知らなかった」
呼ばれることが当たり前だった。
だから、本来の名が呼ばれないことも当たり前だった。
なぜ『天子』と呼ばれるのか、考えたことさえもなかった。
「けれど今のお前なら、答えることが出来るはずだ」
彼女はルルーシュに、目線だけで問われる。
『天子』とは、なにか。
「…『天子』は、中華をすべる皇帝の名です。中華の民をまもり、中華という国をまもる、存在です。
中華のためを第一に考えて、中華の民をまもることが、『天子』の"しめい"です」
幼い少女の身には、ただ重すぎる名前だった。
けれどそれが自覚出来ているからこそ、彼女の表情は暗くなる。
『天子』が己であると理解出来ていなければ、名前の重みで苦しみはしないだろう。
ルルーシュは、その成長ぶりに目を細める。
「…その通りだ。だからこの子に名乗るには違う、と言ったんだ」
えっ、と天子はルルーシュを見返した。
だってそうだろう? と再び笑った彼は、幼い頃に亡くした母のような人だといつも思う。
やっと彼の言葉の意味を理解出来た天子は、改めて少女に向き直る。
名前に似合う、花のような笑みで。
「わらわは麗華、蒋麗華(チャン・リーファ)と言います。あなたは?」
天咲く花に、名を
新たな『天子』の、歴史を
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09.3.22