26.
視界から、人が消える。
ノイズの掛かったモノクロの世界は、無声映画のようだった。
(まるで、世界にオレだけしか居ないみたいに)
「カイトの脳は、今人間の限界を越えて活動してるんだ。
"オルペウスの腕輪"によってね」
蓄積してきたカイトの生体データを元に、キュービックは分析結果を示してみせる。
…腕輪が妙な光を放つようになったのは、ここ数日のことだ。
正確に言えば、ギャモンと勝負をしたあの日から。
「限界を越えて活動って、それってどうなるの…?」
ノノハの問い掛けに、キュービックは首を横に振る。
「分からない…。こればっかりは本当に分からないよ」
ただ、と彼は続けた。
「"オルペウスの腕輪"が脳の活動を加速させる。
カイトの場合は、パズルを解くための思考力の加速に」
眼差しをカイトへ真っ直ぐに向けたキュービックは、問う。
「…カイト。最近、周囲を認識出来なくなったことはない?」
軽く目を見開いたカイトに、彼は続けた。
「パズルを解くために必要な情報。それだけに集中するため、他のすべてが排除される。
"オルペウスの腕輪"はそれを可能にするんだ。…恐ろしいことにね」
解を得るために必要なもの以外が、すべて失せてしまう。
(じゃあ、あれは…)
荒廃し切った、あの世界は?
「カイト」
強い声に、ハッと意識を戻す。
「もう、パズルを解かない方が良い」
今度こそ、目を見開いた。
「人間の脳が限界値を超えたとき、何が起こるのか予想も付かない。
何より、カイトは感情領域までパズルを解くことに使ってしまう」
もしも。
もしも"オルペウスの腕輪"が、常に発動した状態になってしまったら?
「カイトが、カイトじゃなくなっちゃう…?」
ノノハの震える声は、現実味を帯びた。
キュービックの解析結果から目を離し、ソウジは呆然とするカイトを見つめる。
(でも、カイト君がパズルを解くことを辞めたら…)
それはパズルを捨てるということで、何よりも。
「忠告は感謝する。けどオレは、パズルを捨てない」
ただそれだけを残し、カイトは部屋を出て行った。
「ちょっとカイト! カイト!」
ノノハが彼の後を追いかけ、部屋にはキュービックとソウジが残される。
小さなため息と共に視線を落とし、キュービックはディスプレイ画面をオフにした。
「…だよね。カイト」
ああ、やはり彼も分かっていたのか。
「今のカイト君は、自分のために闘っていない」
多少はあるだろうが、割合はとても小さいだろう。
ソウジの言葉に頷き、キュービックは別のCD-ROMをパソコンへ読み込ませた。
「うん。さんを助けるには、"神のパズル"が必要だから」
だからせめて、"神のパズル"の正体を暴けたなら。
キュービックは改めてソウジを見上げた。
「軸川先輩。お願いがあるんです」
ノノハは階段を1段飛ばしで降り、1階の西口でようやく足を止めたカイトへ追いついた。
振り向かない彼に、ただ言い募る。
「カイト…ねえ! キューちゃんの話、ちゃんと聞いてたよね?!」
西日が、彼の姿を影にしてしまう。
「何が起こるか分からないんだよ? カイトがカイトじゃなくなっちゃうんだよ…!」
零れそうな涙を抑え、叫んだ。
「そんなの、誰も喜ばない…っ!!」
人気のない廊下に、ノノハの声は溶けた。
ただ正面を見つめていたカイトは、視線を足元の西日へ移す。
「…ノノハ、いつもありがとうな。本当に」
「!」
息を呑む。
(何よ、そんな…らしくない言葉)
ノノハの驚愕を余所に、カイトの声は続く。
「父さんと母さんが死んだときも含めて、ずっと。
お前が居なかったらどうなってたんだってくらい、ほんと助けて貰ってた」
ようやくこちらを振り向いた彼の表情は、ノノハには逆光でよく見えない。
けれど。
「けど、オレはパズルを捨てない。走り続けることを辞めたりしない」
パズルが負ではないと、証明するために。
(を、守るためにも)
カイトの向けてきた笑みが眩しかったのか、それとも西日で目が眩んだのか。
(この、パズルバカ…っ!)
ノノハの視界は、滲んだ。
沈む太陽が、ちらちらと建物に隠れる。
ふと前方に立ちはだかった影に、カイトは顔を上げた。
「お迎えに上がりました。ソルヴァー・大門カイト」
見覚えはなかったが、言い様で分かる。
「…POGか」
フンガと名乗った男は背後の車を示した。
「ルーク様よりのご招待です。お受け頂けますね?」
確認されるまでもなく受けるが、カイトは少し考えた。
「それ、2時間後でも良いか?」
「は?」
思わぬ問い返しに、フンガはカイトの意図を掴めない。
「毎度、あんたらの唐突な招待受けてんだ。たまにはこっちの時間に合わせてくれても良いと思うんだけど」
続けたカイトに、相手はふむ、と考える様子を見せた。
「構いませんが…理由をお聞きしても?」
慇懃無礼なやつだな、という感想がカイトの脳裏に浮かんだ。
「"空を飛ぶ少年"」
ただ1人を形容する単語に、相手の表情がぴくりと動く。
「あんたら、確かそう呼んでたよな。のこと。
あいつ、今生活が昼夜逆転してんだ。起きるまで…あと1時間くらい」
どうしても、話しておきたいことがあった。
ルークなら許可すると思うけど、と最後に続けてやれば、容易く想像出来たようで効果覿面だった。
フンガは軽い辞儀を寄越す。
「では2時間後、こちらでお待ちしております」
「分かった」
カイトの足は、√学園大学付属病院へと向かった。
ーーー夜であれば、声も視線も届かない。
己の精神状態からの結論として、昼の活動を止めた。
頼りなげな気配がちょうど部屋の前で立ち止まり、1拍置いて扉から光が差し込む。
「カイト…?」
見慣れたシルエットの主が目を丸くした。
「? 起きてたのか?」
部屋へ足を踏み入れ脇の壁に手を伸ばして、カイトは動作を止める。
「…明かり、いるか?」
は首を横に振る。
「いや、俺はいらない」
「そっか」
カイトは微笑んだが、明らかに力がない。
ベッド横の椅子へ腰掛けた彼に、は手を伸ばす。
「…何があった?」
そっと頬を撫ぜれば、存在を確かめるようにその手を握られた。
幾度と無く逡巡を挟み、ようやくカイトは言葉を紡ぐ。
「夕方にキュービックに会って、」
「うん」
「…言われたんだ」
このままパズルを解き続ければ、周囲を認識できなくなると。
「どういう意味だ?」
眉を寄せたに、今朝体験したばかりの恐怖を告げた。
「隣に居たノノハが…他にも歩いてたはずの奴らが、オレの視界から消えたんだ。
声も聞こえなくなって、景色がモノクロの…ノイズがかった光景になって」
あのとき、カイトの目の前から誰も居なくなってしまった。
「さっき、POGがオレを迎えに来た。ルークの招待だと」
パズルを解けば解く程、思考すればする程、"オルペウスの腕輪"は力を増していく。
頭の中で勝手に思考が回って、酷い頭痛に襲われることもあった。
(…これからパズルを解きに行って、)
戻って、来れるのだろうか。
こちらを見つめるこの綺麗な彩を、また見られるのだろうか。
「!」
認識した瞬間、氷を呑んだ冷たさが滑り落ちた。
喉から臓腑へと落ちたそれは、感情を支配し得る恐怖。
微かに見開かれた目が視るのは、未来への怯え。
カイト本人にしか理解し得ぬそれを、は掬い上げることが出来ない。
(カイトたちが、俺の抱える"恐怖"を想像できないように)
彼の頬を両手で包み、もう1度己に意識を向けさせる。
「大丈夫」
告げれば、え、と小さな驚きが漏れた。
ようやく『未来』から意識を帰したカイトに、は微笑を返す。
「見えなくても、聴こえなくても、俺はここにいるよ。カイトの傍に」
落ちそうになったなら、ちゃんとその手を掴むから。
Trifle noise
<< 前
/
次 >>
12.3.17
閉じる