28.  

サカサカ、カリカリ、ザカザカ。
「うーん。何か違うんだなー…」
キャンバスを前にして、走らせていた手を止める。
手にしていたクレパスを元あった場所に仕舞い、違う色を手に取る。
そよりと吹いた風に、アナは目を細めた。
「いい天気〜」
降ろされていたブラインドを少しだけ傾け、外を眺めた。
久々の快晴で、外は賑やかだ。
(本当は、この青空の下でもう1度見たいな…)
ベッドに日が当たってしまわぬよう、そっとブラインドを閉じる。
眠る人の横顔を静かに見つめ、またキャンバスの前に戻った。
「…さんは、もう太陽の下では飛ばないのかな」
手にしたクレパスは青色。
先程まで手にしていた色も、別の青色。
キャンバスに薄ぼんやりと描かれているのは、空想上の動物。

の翔ける軌跡に現れる、『龍』の姿。

一度で良いから描いておきたくて、何度も何度もクロッキー帳に描いた。
それでも足りない。
本当はもっともっと描かなければ、キャンバスになんて描けない。
(でも、今描かなきゃ。今、描かなくちゃ)
きっと後悔する。
描きかけの絵は、まだまだたくさんあるのだから。
もう一度クレパスをキャンパスに置きかけ、はたと思いついた。
「削ってぼかしたら上手くいくかも!」



控えめなノック音に、アナは倣って控えめに声を返す。
「どちら様〜?」
そっと扉が開き、低い位置に青い目と白衣が覗いた。
「やあ、アナ。やっぱり来てたね」
「うん。明るい方が描きやすいから」
キュービックは入り口脇に置いてあった丸椅子を手に、窓際へ移動する。
その途中で、アナの向かうキャンバスに目を奪われた。
「これ…さんの」
アナは立ち上がり、3歩後ろへ下がってキャンバスを見直す。
「うん。さんが飛ぶときに見える子だよ。本当はもっともっと格好良くて、綺麗で、力強い」
これがアナの限界かも、と彼女は苦笑した。
(確かに、ボクたちは実際に見ているからそうかもしれない)
でも、見たことのない人には十分だ。
もはや確信のように、キュービックは彼女の絵に思う。
「キュービックはどうしたの?」
問われ、キュービックは広くはない病室の中を見回した。
「暗視スコープを使って貰ったんだけど、データを見直したら調整が足りなかったみたいなんだ」
暗視スコープを組み込んだゴーグルは、いつものようにベッドの枕元に置かれている。
持ち込んだパソコンから伸ばしたケーブルを繋ぎ、キュービックは自ら追加した機能の調整を始めた。

が昼夜を逆転させてから、もう両手では足りぬ日が経つ。
初めはアナやキュービックも、寝ているを起こさぬよう静かに行動していた。
昼夜が逆転していると言っても、それは普通に寝ていることに変わりない。
だから、大きな物音を立てれば起こしてしまうと。

キュービックは機器調整の傍ら、の首筋に取り付けた生体データ採取装置のデータを読み込む。
医師の許可を得て使用しているそれは、カイトで散々実証済みの機器だ。
(…やっぱり。先週よりも睡眠レベルが深くなってる)
あるとき、アナが色鉛筆の束をぶちまけてしまったことがあった。
その日の彼女は色鉛筆を手にキャンバスへ向かっており、色数はそれなりのもので。
鉛筆が立てる甲高い木片の音は、ばらばらと響き渡った。
ちょうど居合わせていたキュービックとソウジが、しまったと額を抑える程度には。
(でも、さんは目を覚まさなかった。脳波を見たら、意識が覚醒した様子もなくて)
思わず3人顔を見合わせて、ソウジが帰りがけに医師にその話をすれば。
「……」
キーボードのタイプ音が不意に止まったことで、アナはキュービックの考えていることが分かった。
自分も同じく手を止めて、静かに尋ねる。
「…どう?」
何が、とは言わない。
キュービックはただ、首を振った。
「どうすれば、いいんだろう」
このままでは。

『…やはり、そうですか。もしやとは思っていたのですが』
『どういうことですか…?』
『あの少年は無意識下で、目覚めることを拒否しているのでしょう。
無意識というものは、自我や理性が眠ると覚醒時よりも顕著になるんです』

出来ることなんて、あるのだろうか。
「アナたちに出来ることは、殆ど無いのかもしれない」
ぽつりと零された声に、顔を上げる。
アナはキャンバスに向けていた視線をベッドへ移し、眠るを見つめた。
「…アナに出来ることは、絵を描くこと」
例え彼が目覚めなくても、今までに見てきたものがすべて、彼女にとっては大切な原型。
「だからアナは、絵を描く。そうすれば、残るから」
例え彼が、本来の世界へ帰ってしまっても。
「キュービックは、キュービックに出来ることをすれば良いんだよ」
微笑んだアナの言葉を、反芻する。
「ボクに出来ること…」
再びパソコン画面に視線を戻し、きゅっと唇を引き結んだ。
「ボクに出来るのは、」
暗視スコープの調整を終えたキュービックは、すぐに自分の研究室へ戻っていった。
珍しいと感じたアナだが、引き止めたりはしない。
(キュービックに出来ることを、するんだね)
キャンバスに踊る青の"龍"は、広い空を見上げている。



再び聞こえたノック音に顔を上げれば、ブラインドの向こうは赤紫に変わっていた。
「どうぞ〜」
返事だけを投げ、アナはキャンパスに布を掛け散らばるクレパスを箱へ仕舞う。
「よお、アナ。今から帰りか?」
入って来たのはカイト、その後ろからノノハ。
アナはキャンバスをイーゼルごと壁際へ寄せ、頷いた。
「うん。暗いと描きにくいから」
ノノハが布を掛けられたキャンバスへ近づく。
「ね、アナ。見てもいい?」
再度頷いた彼女に、ノノハは嬉々としてキャンバスを覆う布を上げた。
「…!」
感嘆の言葉を、何とか飲み込む。
後ろで同じく目を見開いていたカイトは、ふっと口元に笑みを乗せた。
「…良い絵だな」
碧空を見上げ翔ぶ、『龍』。
浮かべられた笑みが翳るのは、きっと仕方のないことで。
「また、青空の下で見られたら良いな」
言い知れぬ寂しさが潜むのは、彼の心だけではない。
ノノハはそっと、布を元のようにキャンバスへ掛けた。



アナを見送り、カイトは窓辺のブラインドを上げる。
宵の明星が輝く向こうで、日が今しも沈もうとしていた。
さんって、いつも19時くらいに起きてるんだっけ?」
膝の上に参考書を置いて課題をしていたノノハは、そういえばと問い掛ける。
とうに課題を終えているカイトは、目線だけで彼女を振り返った。
「いつもなら、な」
伊達にカイトの幼馴染を名乗ってはいない。
ノノハは即座に、カイトがまたも暗闇に囚われかけていることを悟った。
「…今は、違うの?」
開いていた参考書と、ノートを閉じる。
カイトは再び眠るへ視線を投じた。
「オレたちがここに居る間に起きるか、分からねえ」
「え…?」
ノノハに見えるのは、ベッドに向けて座るカイトの背だけ。
(そういえば、全然見ないんだ…)
いつからカイトは、笑わなくなったのだろう?
「担当のドクターにも確認した。の睡眠レベルが、日に日に深くなってること」
19時、遅くとも20時までに彼は起きて、活動していた。
外へ飛びに行ったり、病室で本や参考書を読んだり。
それが徐々に、ずれていった。
初めは自身も気づいておらず、単に寝過ぎたと思っていた程度。
けれどある日、カイトが帰ろうとしていたところへ目を覚ましたことで、彼は自覚した。

『起きたそこが、自分の家だったら良かった』

目覚めて落胆することに、疲れたんだ。
はカイトへそう告げた。
(いっそのこと、ずっと眠っていてくれたら)
そうすればこれ以上彼の精神が蝕まれることはなく、あの美しい彩が翳ることもない。
…けれど。
「オレさ、がこのまま眠っていてくれればって思ってる」
ぽつりと落とされた言葉に、ノノハは改めて顔を上げた。
「けど…」
カイトは両手を強く握り締めた。
余りにも情けなくて、もう顔さえ上げられない。

「解ってるのに。なのにオレは、起きてくれって願っちまう…!」

話したい。
触れたい。
ねえ、こっちを見て?
(カイト…)
の存在は、カイトにとってルーク以上に特別だった。
それはノノハから見れば一目瞭然で。
さんが居なかったら、カイトはどうなってたんだろう…)
『愚者の塔』での出来事も。
彼の両親の真実も。
ギャモンが裏切った事実も。
彼が居なければ、カイトはとうに崩れてしまっていた。
俯いてしまったカイトを、ノノハは後ろからそっと抱き締める。
「…カイトだけじゃ、ないよ。私も、他の皆も」
もっと話したい。
もっともっと、あの『龍』と共に空を飛ぶ姿が見たい。

夜じゃない、明るい青空の下で。



その日、カイトとノノハがいる間に彼は目覚めなかった。
代わりに2人が出会ったのは、姫川エレナ。
「招待状をお持ちしました。逆之上ギャモンより大門カイトへの」
"愚者のパズル"への招待状と共に。
Please teach me, How solve the contradiction?


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12.5.31

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