34.  

今日の天気は、夕方からにわか雨。
ゆえにまだ部活動の時間に余裕があっても、早めに切り上げる生徒が多かった。
まだ17時にもならないこの時刻に、√学園高等部の図書室は誰の影も無い。

「POGの目的は、『神のパズル』を解放し、その"財"を得ること」
図書室の一角、ルークの言にカイトは頷く。
「"財"ってのは、この世のあらゆる知識のことだって軸川先輩が言ってたけど…」
カイトの反復に、ルークもまた頷きを返す。
「そう。かつての賢人・ピタゴラスが記したという、この世の真理だ」
真理ねえ、と胡散臭さを共に眉を寄せたカイトは、斜め上の視界に目的のものを見つけた。
「お、あったあった」
本棚の一列から取り出したのは、世界各地の遺跡を写真付きで紹介した図録だ。
「ほら、ここ」
閲覧スペースの長机に図録を開き、カイトは目的のページでルークの立つ反対側へ本を向ける。
開かれたページに写るのは、見覚えのあり過ぎる景色だった。
「グレートヘンジ遺跡だね」
懐かしい、と口元を緩めたルークに、同じく懐かしむ。
「こっちに来たばっかの頃、ずっとこの写真見てたんだよ」
日本でいう義務教育期間のほとんどを、カイトはイギリスで過ごした。
言葉の問題は無かったとはいえ、こちらに馴染むには少なくない時間を必要とした。
「√学園もパズル巧いやつ多いけどさ、やっぱりクロスフィールド学園に比べるとレベル低いんだよな」
ましてやルークのパズルに慣れてしまったカイトに、他のパズルは白黒写真のようだ。
そこで言葉を切り、カイトは写真を見ながら口を開く。
「なあ、ルーク」
ずっと疑問に思っていたことが、あった。

「『神のパズル』なんて、本当にあるのか?」

疑問だった、けれど口に出す訳にはいかなかった。
(あいつだって、可能性が低いことくらい解ってる。けど)
今のに訊かせる勇気など、無い。
ルークは椅子に腰掛け、微かな笑みを浮かべカイトを見つめた。
「『神のパズル』という言葉には、2つの意味があるんだ」
すいと立てられた2本の指。
「2つ?」
「そう。1つは『神のパズル』そのものを指した言葉。賢人ピタゴラスが記した書のこと」
立てられた指の1本が、折り曲げられる。
「…もう1つは、」
『神のパズル』を封じたパズルのこと。
「『神のパズル』を封じた、パズル?」
鸚鵡返しに呟いたカイトへ、ルークは首肯した。
「そう。ピタゴラス伯爵と真方ジンの闘いは、『神のパズルを封じたパズル』の方だ」
この闘いを制した者が、『神のパズル』を手にする。
真方ジンは、そこで心を失ってしまったと。
「ファイ・ブレイン同士の闘いの決着は着いた。そして…『神のパズル』は解放された」
ルークは羽織るジャケットの内ポケットを探り、取り出したものをカイトへと見せる。
くすんだ青色に、表面が年月でささくれた巻物のような。
「それは…?」
首を傾げたカイトに、ルークの笑みが変わる。
秘密をそっと打ち明ける、無邪気で皮肉な笑みの形に。

「『神のパズル』さ」

西日が窓の向こうを染める。
橙の光は、明日と未来を呼ぶと共に、得体の知れない怪物をも引き連れてきた。





ーーーどんなに悲惨な光景を目にしても、一度だって助けを求めたことなど無かった。
けれど、今は。
閉塞した空間に行き場の無い風が渦を巻き、苦しくて、気持ち悪くて、叫び出したくて堪らない。
目に映るのは血ではない。
裏切りの連鎖する潰し合いでもない。
なのにどうして。
どうしてこんなにも、内臓を掻き回されるような不快感が尽きないのだろう。

飛びたい
翔びたい

でも、
ーーー墜 ち る





オーブンレンジに生地を乗せたパットを入れ、時間を合わせる。
スタートボタンをぽちりと押せば、予熱で暖まった内部の温度がさらに上がる。
「よし。あとは焼き上がりまで待つだけね」
オーブンから1歩離れ、視線を斜め後ろへ向けた。
下げた視線の先のテーブルには、受け取られない着信を送り続ける携帯電話がある。
もう何度目のコールか、キャリア側の自動音声に切り替わった。
『…御用の際は、ピーッという音声の後に…ーー』
ノノハは電話を手に取り、通話を切る。
切った直後にまた、同じ電話番号へと発信した。
 TRRRR…TRRRR…
続いて着けていたエプロンを外し、ラッピング用の袋を戸棚から取り出す。
(1つで良いよね)
焼き上がりまで、あと15分。
ふと窓を見てみれば、鈍色の曇が夕日を遮っていた。
にわか雨だろうか?
『…御用の際は、ピーッという音声の後に…ーー』
無機質な音声が聴こえ、再び通話を切るとリダイヤルで発信する。
 TRRRR…TRRRR…
シンクに軽く背を預けたノノハは、考え込むように腕を組んだ。
(…おかしい。絶対何か企んでる)
つい10分前だろうか、カイトから電話があった。
電話はいつものことなので気にしないのだが、いつものことではなかったのは、その内容だ。

『なあ、今ノノハスイーツってあるか?』
『え? お菓子? …あー、余ってたやつ全部アナにあげちゃった』
『そか。んじゃちょっと作ってくんねえ?』
『別に良いけど…30分くらい掛かるよ?』
『…仕方ねーか。んじゃ、出来たら自然公園の北口の方に持ってきてくれよ』
『は? えっ、ちょっとカイト?!』

通話は一方的に切られ、掛け直しても繋がらなかった。
(キューちゃんにも連絡したけど、あの後折り返しないし…)
嫌な予感がしてキュービックに一報を入れれば、カイトの現在位置が√学園都市から出てしまったという。
けれどカイトは『自然公園』と言ったのだから、彼はこの街から出てはいない。
(キューちゃんのメカを外したってことよね。何を企んでるのか…)
何より、ひたすら扱き下ろしてきた菓子を"作ってくれ"なんて。

オーブンのタイマーが、残り5分を切る。
10回はとうに過ぎたリダイヤルをもう一度行い、ノノハは胸に巣食う靄(もや)と闘う。
(私に何も言わないのは、もう良いの)
それはもう良い、別に良い。
カイトにとっての"井藤ノノハ"は遠ざけて守るものだと、が言ったから。
『…御用の際は、ピーッという音声の後に…ーー』
自動音声を発し始めた携帯電話を手にして、ノノハは眼(まなこ)を伏せる。

「…カイト。さんには、言った?」

良くないのは、以前に感じた違和感だ。
カイトが今、何をしようとしているのかは判らない。
それを彼は、美しい龍を従えるあの人に伝えているのだろうか?
もしも伝えていないのなら…
「…駄目だよ、カイト。それだけは絶対に」
彼の判断がを想うがゆえであることは、痛いほど理解できる。
しかしノノハがカイトと違うのは、2人を隣で見てきたことだ。
(どうしよう。もう泣きたい)
またも自動音声に切り替わった発信に、自分の携帯電話をぎゅっと握り締めた。

リダイヤルで1画面以上を専有した番号。
それは昨日の夜に通じた、が持つ携帯電話の固有ナンバー。

ほんの少しの操作で、リダイヤル発信を再開する。
この動作にも慣れてしまった。
(駄目なんだよ、カイト。さんに何も言わないのは、絶対にダメ)
ノノハたちには自由にしか見えぬ空。
それがにとっては、牢獄に等しいと言う。
何が違うのか、空を飛べないノノハには判断が付かなかった。





『何でだろうな』
マンションから星空を見上げて、彼は力なく笑った。
『死人が出るわけでも、自分が怪我するわけでも、裏切られるわけでもないのにさ』
カイトは思い出の中のルークに裏切られていたけど、それだって随分と優しく見えた。
『この世界は、優しいよ。どろどろしたものの中心に居た俺には、水飴みたいに』
なのに、どうして駄目なんだろう。
途方に暮れたように呟くが、ノノハには酷く遠かった。
(カイトじゃないと、きっと掴めない)
伸ばせば届く距離の手を、取ることができない。
『たぶん俺は、あのどろどろした空気じゃないと息ができないんだ。
別世界に飛ばされて分かるってのも、救えない話ではあるけど』
感情の奥底を攫うスリル、それが暴風族(ストームライダー)の…『塔』に程近い者たちが纏う風。
ゆえに愛も憎悪も、人が持つ生々しい感情がそのままに曝け出され、ぶつかる。
『寂しいってのとは、ちょっと違う。あいつらには会いたいけど…そうじゃない』
あやふやな言葉に疑問を覚え彼を見つめれば、は少しだけ微笑んだ。
『カイトの目。あいつの目は、ちゃんと俺を捉える。
咢(アギト)やイッキみたいに、俺自身を追い掛けてくる』
だから寂しくはない。
微笑む彼の言葉はノノハの想像の範疇を超えており、しっくりとは馴染まない。
馴染まないが、彼の言っていることはアナやキュービックに通じるものだろうと思う。
自分一人で完結する世界にいた、彼らと。

1つの決意を胸に、ノノハは顔を上げた。
さん。さんの携帯電話、電源を入れっぱなしにしていて貰えませんか?』
『え?』
初めに見たときよりもくすんだように思えるオッドアイが、ノノハを映す。
深緑と深蒼の眼を、真っ直ぐに見つめ返した。
『このままだとカイトのやつ、本当にさんを置いていくかもしれない。
だから私が、出来る限りそうならないようにします』
もしも女の勘が囁いたなら、を呼びに行こう。

空を翔ける彼ならば、きっと追いつける。





チン、と軽い音でオーブンが止まる。
ミトンを嵌めてパットを取り出せば、香ばしい香りがキッチンに広がった。
脇に並べていた型残り部分のクッキーをぱくりと口にし、ノノハは1人頷く。
「うん、我ながら美味しいぞ!」
冷めるまで約5分。
リダイヤル中の携帯電話をテーブルに戻し、椅子に掛けていたパーカーを羽織る。
「うーん、ほんとに雨降りそうね…」
しかも風が出てきたようで、梢が大きく揺れている。
「『龍は嵐を呼ぶ』…か」
アナの比喩は、きっと正しい。
でも嵐を呼んだのが、龍の意思ではなかったとしたら?
冷えたであろうクッキーを袋詰めにしようと、キッチンへ戻る。
そろそろ、自動音声の内容が耳にタコを作りそうだ。
「リボン…いるかな」
とりあえずモールで袋の口を結んで、雨の有無を確かめるためにまた窓を見た。
西の空は夕焼けなのに、北東の空は真っ暗だ。
狐の嫁入りというよりも…
「逢魔が刻、って言うんだっけ」
持ち物はクッキーと携帯電話だけで良いだろうか。
携帯電話はコール音を鳴らし続け、惰性のようにリダイヤルへ指を動かす。

『…御用の際は、ピーッという音声の…ーーー』

プツンと途切れた自動音声に、ノノハは息を呑んだ。
Demon caught out at dusk


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13.1.6

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