06.
この状態になったフリーセルを、見たことはあった。
(2回くらい…?)
オルペウス・リングを発動した後、その力は脳が限界を訴えるまで止まらない。
思考の加速は止まらず、脳は思考を早めるために他へ力を注がなくなる。
よって、理性と感情が吹っ飛ぶ。
「あの子の心は、もう壊れてる…」
自分より1歩手前で痛々しげに呟かれた言葉に、は盤上を見下ろした。
もう、ゲームは終わっているのだ。
盤上のカイトもギャモンも、今目の前にいるノノハやアナ、キュービックも。
誰もが視線を奪われている隙を突き、審判であるホイストへ視線を投げる。
聡い彼は、微かに頷きを返してきた。
それを確認して足を出口へ向ける。
「ゲームは終わったんだろ? なら俺は帰るよ」
ノノハたちがハッと弾かれたようにこちらを見た。
(あと10秒)
急いでいると見せないように。
けれど、見失ってもおかしくはない位置まで。
「√学園の皆様は、ご退場願います」
ガコン、と照明が一斉に落とされた。
視界が一瞬にして奪われ、自分の位置さえも見失う。
しかし小さな足元灯が、カイトたちが居た側にだけぽつりぽつりと灯った。
「おいカイト! 行くぞ!」
階段へ向かいながら、ギャモンはカイトを急かす。
「あ、ああ…」
見えなくなってしまった姿が、今も泣いているような気がした。
(けど、今のオレじゃ…)
カイトは踵を返し、ギャモンの後を追い掛ける。
「…?」
暗闇の中で、誰かと擦れ違ったような気がした。
ダイニングフロアを出ると皆が自分を待っていたが、1人足りない。
「あ、れ? は?」
ノノハが首を傾げた。
「うん…先に行っちゃったみたい」
彼女が指差したエレベーターフロアを見れば、1基だけ階数ランプが下へと動いている。
「そうか…」
カイトは後ろを振り返り、フリーセルのことを思った。
人の視覚は、明度を瞬間的に変えられると対応に時を要する。
明るさが暗闇へ変わる場合の対処は、あらかじめ目を閉じておくことだ。
カイトと擦れ違った後、上階を見ればピノクルたちもまだ視野を回復していないようだった。
ダウトは元から他者に(同じメンバーと云えど)関わらないので、動いた気配もない。
そんな盤上の暗闇で、きょろきょろと頭を動かす人影を見つける。
「フリーセル」
名を呼べば、見えずとも彼はこちらを振り向いた。
未だ赤を宿す左眼に、苦笑する。
は両手を伸ばし、その頬を包み込んだ。
「もうゲームは終わりだよ、セル」
きょとりと目を瞬いたフリーセルに、これでは戻らないかと嘆息を飲み込む。
(仕方ないヤツだな…)
ぐいと顔を寄せ、無防備な彼へ口付ける。
戯れではなく欲望を直接刺激するように、深く。
(リングの支配を解く方法は3つ。その内、他者の介入が可能なのは1つ)
動物的本能を呼び起こすこと。
「…っ、ん」
片の手首をパシリと掴まれ、人為的にオッドアイに変わっていた両目がきゅっと閉じられる。
唇を離せば、漏れた吐息は甘い熱を含んでいた。
「…」
青の色彩が戻る。
呼ばれた名前に含まれた意味を悟らないわけではないが、それでは本末転倒だ。
代わりに、耳元で囁いてやる。
「続きはお前が次に起きてから」
だから、オヤスミ。
ずるりと倒れこんできた身体を抱えて、声を投げた。
「ホイスト、明かり」
「畏まりました」
2秒後にパッと明かりが付き、眩しさに目を細める。
「フリーセル!」
上からピノクルが駆け下りてきた。
はダウトを見遣り、抱えたフリーセルを示す。
「頼めるか?」
案の定、彼は溜め息を隠さなかった。
「まったく…。仕方あるまい」
意識を手放したフリーセルを背負い、ダウトはリンク・スライダーを出る。
ミゼルカとメランコリィは、階段を降りたところで足を止めていた。
「あ、あの…」
ミゼルカの後ろに隠れながら、帽子を取ったメランコリィはおずおずとへ切り出す。
気づきこちらを見下ろした彼の眼は、いつものように美しい色だった。
「…ごめんなさい、」
彼が憎しみさえ抱える名を、使ったこと。
じっとこちらを見た彼がつと手を伸ばしたので、メランコリィはぎゅっと目を瞑った。
だが覚えた恐怖に反して、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「…え?」
頬を張られても仕方がないと、本気で思っていたのに。
戸惑い見上げてきた彼女へ、は肩を竦めてみせる。
「開口一番、謝ったから許してやるよ」
ただし、2度目はない。
そう告げた彼の瞳は、ただ冷たさしか読み取れなかった。
「貴方はどうするの?」
問うたミゼルカに、眠ってしまったフリーセルを見て考える。
「今日はお前らのとこに泊まるよ。けど、今から疑われるわけにはいかない」
朝には戻るから、頼んだ。
視線を向けられたピノクルは、当然だと鼻をならす。
何事か続けようとした彼を、は人差し指を己の唇に当てることで黙らせた。
「恨み言は後で聞いてやる」
エレベーターの扉が閉じ動き出したことを確認して、自分と同じくフロアに残ったホイストを見返した。
「どうなると思う?」
「どう、とは?」
「あいつらの処遇」
の単刀直入な物言いは、非常に好感が持てるものだ。
また立場的にも、彼はホイストの立ち位置の方が他のメンバーに比べて近かった。
「…何らかの処分は免れないかと」
正直に告げれば、答えはとうに予想済みらしく大した反応はなかった。
「お前、いつ戻る?」
本部へ戻るのはいつか、という問いだ。
「明日の昼に」
「ふぅん…」
呟いただけで、はそれ以上口を開くことはなかった。
ホイストと別れ、呼び出してもらったタクシーでホテルへ向かう。
携帯電話を確認してみれば、ノノハからメールが届いていた。
(タフだなあ、あいつらも)
どうやら一度学園へ戻ったらしく、彼らはそのまま一夜を明かすことにしたらしい。
まあ、すでに時刻は丑三つ時。
選択肢はどれを取っても変わらないだろう。
了解した旨を返信し、さて、と電話帳を捲った。
昨日までの雨が嘘のように、蒼天が広がった。
天井から床までの一枚硝子は、眼前に広い街を映す。
解析されたデータを手に、ホイストはオルペウス・オーダー首領への報告を終えた。
報告を受けたクロンダイクは、興味深い、と膝の上で指を組む。
「敗北した彼らの処分は如何様に…?」
やや控えめに尋ねたホイストに、相手は初めて笑みを浮かべた。
「どうもしないさ。今回は」
「え?」
意外な言を聞き思わず顔を上げたホイストへ、クロンダイクは意味有りげに口の端を吊り上げる。
「"彼"にごねられてしまってね」
それでピンときた。
「様、ですか」
いや、他に誰がいるというのか。
クロンダイクに対し直接のコンタクトが可能で、かつ、その意見を変えさせる力を持つ者が。
ふあ、と隠しきれなかった欠伸が溢れる。
「無理しなくても良かったのに」
こちらを振り返ったカイトこそ、ほぼ徹夜のはずだ。
「お前らが来てるのに、俺だけいないのも妙だろ」
やや呆れを含んだ笑みを向けて、は頬杖を付き外を眺めた。
(今回の俺のワガママは確実に通るから、しばらくはこっちで楽しむかな)
クロンダイクにとって、フリーセルたちはただの『駒』。
しかしは違った。
(だからこそ俺は好き勝手やるし、クロンダイクも文句は言わない)
外を眺める彼の横顔を見ながら、カイトは常々感じていたものを口にする。
「昨日の今日だってのに、やっぱりお前は楽しそうだな…」
些か感慨混じりの声に、は笑みを変えた。
「昨日のゲームはあれだったけど、俺は楽しかったよ。それに、カイトたちと居ると飽きない」
彼の笑みを間近にして、カイトが赤くなってしまったのも無理はない。
それは目撃した誰もが息を詰めるくらい、明美な微笑だった。
Bell of closure is not fixed.
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12.6.9
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