08.  

相変わらず、無駄に広い敷地だ。
車窓からの景色、随分と遠目にその屋敷は見えた。
(今何時だろ…)
すでに日は沈んでしまい、星が瞬いている。

車庫から繋がる扉を潜り屋敷へ入れば、久々に感じる、あの家毎に違う独特の空気。
(ここに来たの、1年ぶりくらいか?)
先を歩くこの屋敷の執事に付いて階段を登ると、顔見知りが出迎えた。
「お帰りなさいませ、様」
ホイストは変わらぬ柔和な笑みで執事へ頷き、心得た執事は廊下向こうと下がる。
「ただいまってほど、ここに居たことねえけど」
「今はここが、フリーセル様たちの『家』ですから」
クスリと笑みを寄越し、ホイストは上階を示した。
今度はホイストの後を付いて、は2階へと階段を登る。
「…で、何でわざわざ俺を忍ばせてるわけ?」
本来ならば、送迎車は正面玄関に停まる。
それを地下の駐車場まで入れ、その上の辿っているルートはメインでは使われていない。
2階から、さらに3階へと登る。

「クロンダイク様より、『貴方の存在を知らせるな』との命を受けておりますので」

3階の廊下へ出て、左へ。
ホイストは並ぶ5つの扉の内、2つ目の扉を指し示した。
「2番目の部屋をお使いください。もっとも、他の部屋も空いてはいますが」
「OK。他のヤツらの部屋は?」
「皆様、2階に居られます」
荷物を置きに行こうとしたは、足を止める。
そのまま数秒考えて、思い当たった。
「セルの部屋は?」
思った通り、ホイストは反対側…階段を上がって右…を示す。
「3番目の部屋になります」
はもう一度考えた。
「…そんなに荒れてる?」
「どうやらそのようで」
ホイストの視線は、フリーセルに割り当てられた部屋からへと返る。

「POUNTER HORSE JAPANの一件の後、貴方が居なかったことも起因するようですね」

軽い溜め息が出た。
「恨み言なら、宛先が違うっての。で? 俺はこの階から出ない方が良いのか?」
案の定、ホイストは頷いた。
「ええ。3日ほどご辛抱を」
「分かった」
執事もメイドも、よく躾けられている屋敷だ。
階下へ降りずとも、不自由はしないだろう。



「…さて」

一度箍の外れたフリーセルに対する処置は、誰もがもう手慣れたものだ。
…冷静さを取り戻すまで、彼と外界との接触を断つ。
ただし、屋敷の中で閉じ込めるようなことはしない。
コンコン、と部屋の扉をノックをしてみたが、返事はなかった。
(もう寝たのか?)
フリーセルの部屋の鍵は細工を施され、掛からないようになっている。
はそっと扉を開け、薄暗い部屋に足を踏み入れた。
「……」
後ろ手に扉を閉め、細工の方法は分かっているので、鍵も閉めておく。
視界の悪い部屋の中を見回し、酷いものだと嘆息した。
サングラスは邪魔なので、飾り暖炉の上に置いておく。

引き裂かれたカーテン、蹴倒された椅子とナイトテーブル。
散乱した、硝子やら陶器やらの破片。
ぐしゃぐしゃと床へ放り出された、掛け布団とクッション。
部屋の主は、ベッドの隅でシーツに包まっていた。

ゆっくりとベッドへ近づき、反対側へ腰掛ける。
窓側を向いているので顔は見えないが、あちこち跳ねた髪の毛が猫のような雰囲気を助長していた。
手を伸ばし、その頭を撫でる。
「相当荒れたなあ、お前も」
笑みを含む声音に、ピクリと反応があった。
ゆるりとこちらを向いた青い目が、の姿を捉える。

「…?」

寝てはいずとも、うつらうつらしていたのだろう。
突然の訪問者を映した瞳を、目蓋が2、3度上下する。
こちらへ身体を向き直したフリーセルの右手が、へ伸びた。
「わっ?!」
前振りもなく襟元を引っ張られ、は倒れ込みそうになった身体を慌てて支える。
それでも相手の企みには十分だったと見え、唇が重ねられた。
「!」
突然のことでの反応が遅れることを謀らい、無遠慮に舌が割り入ってくる。
(こいつ、ハメやがった!)
箍が外れている分、普段よりも行動が極端であることを失念していた。
仕方なく好きにさせてやれば、耳に響く水音を最後に唇が離れる。
「…っ、いきなり何?」
やや上がった息で睨めば、フリーセルは不機嫌な顔を隠しもしない。
「"続きは次に起きたら"って言ったのに、君は居なかった」
POUNTER HORSE JAPANのときの話だ。
はホイストへ返した言葉をもう一度繰り返す。
「だから、恨み言の宛先は俺じゃねえよ」
まさか、翌日の内に彼らがここへ移動してしまうとは思ってもいなかったのだ。
しかもその連絡は、夜になってホイストから受けた電話。
あまり納得していないような顔のまま、フリーセルは片眉を上げる。
「いつまで居るの?」
√学園で出した届けには、確か。
「とりあえず1週間」
襟元を掴んでいた腕が、首筋へ回された。
「じゃあ、続き」
ああ面倒なヤツだと思いながらも、の口元から笑みは消えない。
「お前、下で良いの?」
「ん…」
まあ、偶になら我侭に付き合ってやっても良いかと考える。
あくまで、『偶になら』だ。
「俺、我侭聞いてもらうのは得意だけど、聞くのは苦手だからな」
人を沼地へ攫う深緑と深蒼のオッドアイを見上げて、フリーセルは薄く笑った。
「よく知ってるよ」





皆様、11時に1階東の書斎へお集まりください。
朝食の席でそんな連絡事項を寄越され、何だろうかとピノクルたちは顔を見合わせる。
「…新しい指令か?」
「そう考えるのが、一番妥当ね」
呟いたダウトに、ミゼルカが答える。
ホイストは伝えるなり食堂を出ていってしまい、確認もできない。
スクランブルエッグをスプーンに掬って、メランコリィは軽く肩を竦めた。
「何だって良いですわ。この退屈が紛れるなら」
同感だ。
「フリーセルには僕が伝えるよ。まだ寝てるだろうけど」
ピノクルは時計を見上げ、未だ完全に回復しない幼馴染を思う。



3階にあるフリーセルの部屋からは、何の音も聴こえてこない。
(やっぱり、まだ寝てるか?)
念のためノックをしてみると、驚いたことに返事があった。
くぐもっているので聞き取り難いが、勝手に入ってとか何とか言っている。
しかしピノクルが手を掛けたドアノブは、1mmも動かなかった。
「なっ、鍵が掛かってる…?」
この部屋の鍵は、掛からないようになっていたはずだ。
一向に入ってくる気配のないピノクルに痺れを切らしたか、声が扉のすぐ向こうから聞こえた。
「あれ? 何で鍵掛かってるの?」
カチャリと開けられたドアの向こうで、フリーセルがきょとんと首を傾げていた。
その前髪から、ぽたりぽたりと雫が落ちている。
頭に被ったままの白いバスタオルを見れば、シャワーを浴びていたのかと容易に想像がついた。
彼はしばらく首を傾げていたが、顔を上げるとピノクルへ視線をやる。

「おはよう、ピノクル。何か用?」

おや? とピノクルは内心で疑問符を上げた。
(治ってる…?)
昨日までの荒れた彼が、嘘のようだ。
焦点の合わせられることのなかった目も、意識も、ちゃんとこちらに向いている。
…青い目に宿る光が、戻っていた。
「ピノクル?」
呆気に取られて見つめてくるピノクルに、フリーセルは再度問い掛ける。
ハッと我に返り、ピノクルはホイストの伝言を伝えた。
「11時に、1階東の書斎へ来いってさ」
たちまち、フリーセルの眉根が寄せられた。
「…なんで」
治りきってはいないが、それほど時間は掛からないだろう。
ピノクルはそんな印象を持った。
「何でかは僕らも聞いてないんだ。じゃあ、遅れないようにな」
「…分かった」
彼の機嫌がさらに傾く前に、ピノクルは踵を返した。
完治するまで待つことが、己に出来ることなのだから。

扉を閉め、フリーセルは改めて鍵を見下ろした。
「ねえ、。鍵締めたのだよね?」
目元に落ちてくる雫をタオルで救い上げ、ベッドを振り返る。
シーツに隠れて見えなかった深緑と深蒼が、気怠げにこちらを視界に入れた。
「お前が1人だから必要な処置だろ。俺がいるから締めた」
まだ眠いと無言で訴えてくるオッドアイを、急かすつもりはない。
「11時に集まれって言われた。何だろ?」
「さあ…。今何時?」
「10時過ぎ」
視線がフリーセルを外れ、天井を彷徨った。
「じゃあ、そのときメイド呼べよ。清掃入ってもらえ」
「そうだね。は?」
「部屋に戻って寝る」
そう、と返したときには、すでには目を閉じて寝直したところだった。
部屋を出る前に起こそうと決めて、フリーセルは口元を緩める。
「おやすみ」
とてもそんな時間帯ではないのだが、彼にとっては彼自身がルールなのだから仕方がない。
我侭を聞いてもらった返礼には、まだまだ安い。
Noctilucent Cloud


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12.7.16

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