結狂夢ノ零銀
四.※之鳥居
* * *
遥か遠く昔、此の地を創った父母より任された1人、彼女の称を天照大御神(あまてらすおおみかみ)と云う。
彼女が寿げばそこに神が産まれ、彼女が涙すればそれは神に変わった。
父母と彼女が生み育んだ地は、その地に生きるものすべてが彼女の子である。
遍く等しい天輪たる彼女はすべてを愛し、ゆえに地に下りた己が兄弟神やその子たちを天より見守った。
神の系譜に連なるものも、地より産まれし生き物たちも、皆を平等に包み込む。
ゆえに彼女は唯一を持たず、皆の母であり皆の伴侶であり、遍く命の居場所であった。
天照大御神の双子神に、称を月読尊(つくよみのみこと)というのが在る。
彼女は遍く夜を照らす月であったが、皆を平等には扱わぬ。
満ち欠ける化身は海を動かし、地より産まれし生き物たちの本能を揺らし、時には無の闇で恐怖を与える。
彼女が居るからこそ天照大御神は崇められ、同様に夜を連れる月読尊もまた崇められた。
月読とは、『憑黄泉』である。
天照が『生』であるなら月読は『死』。
遍く命の理(ことわり)、すべての一(はじめ)と了(おわり)。
彼女らの兄弟神は地へ下り人間という種族を新たに生み出したそうだが、彼女らには何ら関係のないこと。
すべての命は天照から始まり、月読に還るのだから。
唯一を持たぬ天照大御神と違い、月読尊は還る前の命に優劣を付けた。
彼女は地に下りた兄弟神をよく思っておらず、彼が生み出した人間という種族を殊の外厭った。
「あなたは何とも思わないの」
月読尊は天照大御神へ問う。
「何、とは」
天照大御神は月読尊へ問い返す。
双子神は共に人間とは違う、絵にも描けぬ麗しき容貌をしていた。
それを知る人間など居はせぬが、月読尊は天照大御神を鋭く見据える。
「人間は地がすべてに等しく在るものと憶えること無く、他の命をあまりに蔑ろにする」
「人間は、独り立ちまでに長く時を要します。他の生き物ほどの子を産むことは出来ません」
「他の棲まう地を一瞬で焼き払い多くの他の命を一瞬で奪う者たちに、そのようなことは関係ない」
「他の種族を慈しむのは人間だけでしょう」
月読尊は自身の後ろに在った『現世(うつしよ)の鏡』をこちらに向け、哀れを眼(まなこ)に宿して天照と正対した。
「幾百の齢を重ねた産土神が、人間に殺された」
鏡には、真っ黒としか形容しようのない広い大地が、鳥の目により映されている。
「元は狐であった産土神と、元は狼であった産土神。彼らは違う種族でありながら互いを敬い、そして愛した。
ゆえに彼らの棲まう地の生き物たちは、例え喰い喰われる間柄であろうと相手を敬った」
ここからさらに千の齢を重ねれば、彼らが高天原を訪れることも叶ったろう。
鏡の『眼』が大地に降り、黒い煤と炭で覆われた砂地が続く。
「他の種族を慈しむのは人間だけ? 笑わせないで。あなたには見えないのよ。
遍く命を等しく愛するあなたは、個々を視ることなどしないのだから」
ねえ? クリスタ。
称は天照、名はクリスタ。
神の御名はそれだけで大いなる力を持ち、言霊となる。
為に他がその名を知ることは無い。
鏡には『何か』であったろう躯がふたつ、映っていた。
長きの日照りに乾き、もはや骨しか遺っておらぬが。
折り重なるような2つ分の獣の骨が、墓標のように皓い姿を晒している。
「何をする気なの? ヒストリア」
称は月読、名はヒストリア。
彼女は天照と違い、命に優劣を付ける。
その優劣は双子神の元へ還った命の、『次』の道筋を変じるもの。
「理不尽に奪われた、徳高き者の命。其れこそ、良く良く遇されるに相応しい」
ヒストリアの白き指の先。
2つの命が、新たな円環に投じられた。
「もちろん、人間の中にもそういう者が居れば、同じように扱うわ」
傲慢とも思える物言いを、止める術はクリスタにも無い。
なぜなら、天照大御神と月読尊は正しく同じ。
互いに持たぬものを持つ2つは、等しく己自身であるのだから。
∞
「危ないっ!!」
それはエレンに対してではなく。
エレンの歩く道の1つ先、信号のある十字路からのものだった。
キキキィイイーッ ドンッ!
何度か聞き覚えのある音。
人の叫ぶ声、怒鳴る声、慌ただしい足音に、渋滞していく車。
(もうこの道、通れねえな)
エレンはくるりと来た道を引き返し、ひとつ手前の十字路を曲がった。
どれだけ都市化の開発が進んでも、過去の時代から景観を変えぬ場所というものが存在する。
建物、墓、池や湖、そして山。
エレンの自宅もまた、そんな山の中にある。
学校から徒歩15分。
秋には国内外から多くの観光客が訪れる名勝、名もそのまま紅葉山。
中腹にある本殿は国の重要文化財とされ、祀られている神は狐の姿をして現れると云う話だ。
四方が住宅地に囲まれているが、山の北方ほんの2km先に別の山々が連なっている。
山へ繋がる国道には大きな鳥居…一ノ鳥居…が存在感を醸し、国道から伸びる参道には控えめではあるが土産物屋が立ち並ぶ。
店はみなこじんまりとして、何百年も前の『紅葉山の御触れ』を守っているのだと言っていた。
エレンは国道から1本住宅街に入った道を通り抜け、参道の入り口にある二ノ鳥居を潜る。
すると空気がすぅ、と変わるのだが、分かってくれる人はあまり居ない。
「エレンくん、おかえり!」
「今日はひとりかい?」
ここはエレンが行き帰りに通る道だ。
どの店の人も顔見知りで、そんなご近所さんと挨拶を交わしながら山へと歩く。
今日は煎餅を売ってる土産物屋のおじいさんが、割れおかきをお裾分けしてくれた。
「ありがとな、じいちゃん!」
「みんなと仲良く分けるんだよ」
「はーい」
おじいさんに手を振り、エレンは商店街の途切れる箇所にある三ノ鳥居を潜る。
するとざあっ、と建物の姿が遠退いた。
他の人はそうではないらしいので、エレンだけが違うらしい。
ほんの数秒間を濃い霧に覆われ、そして霧が晴れると山頂へ繋がる石段が目前に現れる。
石段手前の鳥居は大理石で造られたもので、真っ白だ。
大理石の四ノ鳥居を潜って、ようやく帰り着いたという実感が湧く。
「ただいま」
そう口にすれば、応えるように梢がさらさらと鳴り、見えぬが鳥の声が降ってくる。
石段を登っていくと、また途中でふっと霧が視界を遮る。
気にせず階段を登り切ったエレンは、何度か霧を抜けたために髪に含まれた水滴をふるふると払った。
「おー、おかえり」
声に顔を上げると、装束姿の男が木桶に水を汲んでいた。
「ん、ただいま」
エレンを振り返った男は、しかしあからさまに眉根を寄せる。
「おいこら、エレン! てめぇ、また1人で帰ってきやがったのか?!」
「煩いな! ミカサもアルミンも居なかったんだから仕方ねーだろ!」
「だ・か・ら! 少なくとも誰かと一緒に帰って来いっつってんだ」
「大丈夫だったんだから良いだろ?!」
ギャーギャー!
擬音が目に見えそうな大声の言い争いは、山の中だけで響く。
不意にぐわっと大きな影が頭上に躍り込み、ぎょっとした2人は慌てて飛び退いた。
わんっ!
それは素晴らしく良い体格をした犬で、エレンと言い争いの相手にもう一度吠えた。
「ちっくしょ…。脅かすんじゃねぇよ、ライナー」
「ジャンが俺の服破きそうだったから止めてくれたんだよ」
なー? とライナーと呼ばれた犬と目を合わせて笑うエレンに、装束姿の男…ジャンはがりがりと頭を掻く。
「んなわけあるかよ、ったく。…あっ、てめえのせいで水ぶち撒けちまったじゃねえか!」
ぶちぶちと文句を垂れながら、彼は木桶を井戸に戻し釣瓶を落とす。
文句の最後はエレンに対してだ。
「お前は変わんねーなあ、ほんと」
ずっと神主やってる俺の身にもなれやコラ、と凄まれても、エレンには知ったことじゃあない。
「お前で何代目だっけ? ご先祖様も心配だろうな」
「心配する隙なんざねえっての! …エレン?」
ふと言葉の返しを途切れさせたエレンに、ジャンは訝しげに名を呼んだ。
「なあ、ジャン」
「あ?」
「『こっくりさん』って本当に出来るもんなのか?」
思わず真面目に見返してしまったのも、無理はない。
「…なんだ、お前。『こっくりさん』でお願いしたいことでもあんのか?」
「ねえけど」
即答だ。
ジャンは安堵と一緒に脱力して、止めてしまった釣瓶を引く手をまた動かす。
「妙なこと訊くんじゃねえよ。驚くじゃねーか」
茶化すように言ってみても、エレンの眼差しは変わらない。
ジャンは誤魔化すことを早々に諦めた。
「…はあ。お前、俺が『境内に水撒いてこい』っつったらどうする?」
「何で俺が」
「…違うって。どうしてもやれって言われたら、何か要求したくならねえか?」
エレンはいつだかの昼休みを思い出す。
「……あ、アルミンが同じこと言ってた」
「へえ、何て言ってた?」
「『タダで願いを叶えてくれるなんてあり得ない』って」
「なら、何で"こっくりさんで願いを叶えてもらった"っつう話が途切れないか、分かるか?」
「…その人がお供え物したとか?」
「当たらずとも遠からずってとこか」
「? 意味分かんねえ」
ジャンは一度口を閉じた。
(分からなくて当然だろ)
自分の願いを他人に任せることを知らないエレンは。
こっそりと溜め息を吐き、追い払うようにひらひらと手を振ってやる。
「ほら、さっさと家入れ。あの人帰ってきちまうぞ」
「うわっ、やべ! じゃーな、ジャン!」
エレンは慌てて鞄を担ぎ直し、さらに奥の石段を駆け上がっていった。
その後ろをライナーが追い掛けていく。
釣瓶から木桶へザパンと水を移し、ジャンはふと肩を震わせて笑った。
「代替わりなんてしてねえっつったら、どんな顔すんだろうな」
まあ、そんなことより。
(願いが叶ってんなら、『別の何か』を奪われてんだよ)
エレンの自宅は、紅葉山の本殿とされる社とジャンの住む社務所よりさらに登った先。
ひと昔もふた昔も前の、紅葉山本殿のように重要文化財とされてもおかしくない屋敷だ。
現代の住宅地と同じ場所に建っていれば、騒音や目隠しの観点で住みにくくなっていたかもしれない。
けれどここは山の中、住んでいるのはエレンとエレンの保護者だけだし、ご近所はジャンや遊びに来るミカサたちのみ。
俗世から切り離された、とでも言おうか。
観光客が登ってくるとしても下の本殿までなので、何の気兼ねも気遣いもいらず過ごしやすい。
石段の始まりの朱塗りの鳥居を抜け、駆け上がる途中の白い大理石の鳥居、そして黒い御影石の鳥居を潜る。
最後にもう一度朱塗りの鳥居を抜ければ、景観を損ねないながらも存在感ある屋敷が。
屋敷の向こうには、大きな銀杏の樹が聳えている。
「ただいま!」
その銀杏に帰宅の挨拶を告げて、エレンは屋敷の中へ入っていった。
晩御飯の席にて。
エレンは遅くに帰ってきた保護者から、2年生の少女が事故で亡くなったという話を聞いた。
(昨日の帰り道で聞いた急ブレーキ…)
あれだろうか。
死んだのは、エレンが危ないなと何となく思った『魔の交差点』の少女であった。
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2015.5.23(むすびきょうむのこぼれぎん)
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