結狂夢ノ零銀
五.伍辻
* * *
朝。
エレンが目を覚ますと、目覚まし時計の鳴る5分前。
少しだけ布団の名残を惜しんで、伸びをすると起き上がる。
今日も良い天気だ。
エレンの部屋の窓の外、目の前には銀杏の大樹がある。
ひと通り身体を解したエレンは窓を開け放ち、窓の外へと飛び降りた。
飛び降りたそこには彼の行動を予測したように草鞋が置いてあり、これが置かれ始めたのはいつだったか。
草鞋を履いたエレンは銀杏の根元へ近づくなり足を掛け、ぐっと自分の身体を持ち上げる。
「よっ、と」
毎日エレンが登るので、銀杏の幹にはそれらしい跡がある。
それを辿りながら、エレンは銀杏の葉がこんもりと茂る中へいつもの枝まで登っていく。
ちょうど東の空が葉の合間から見えて、とびっきり美しい朝焼け。
まだ薄い蒼天に、白い雲が細くたなびいて太陽を迎える。
ほう、と空に魅入って何分経ったか。
「エレン、朝飯だ」
足元から声が聴こえて、我に返ったエレンは足元を覗き込む。
「おはよう、リヴァイさん」
「ああ。おはよう、エレン」
銀杏の根元からエレンを呼んだのは、エレンの学校の担任教師であり、保護者でもあるリヴァイだった。
リヴァイは銀杏の葉の中からひょこりと顔を出しているエレンへ、ほら、と両手を広げてみせる。
エレンはそれを見るなりパッと笑顔になり、随分と高い位置にある枝の上からリヴァイ目掛けて飛び降りた。
ぼすっという音で、その身体は危なげなく受け止められる。
「俺、少しは重くなりました?」
「あ? 重いわけねえだろうが」
「えー。筋トレ量増やしたのに…」
「アホか。ミカサと比べんじゃねえよ」
「だって」
ぶつぶつと筋量が増えないことに不満を漏らす口を、リヴァイは己の唇を合わせることで塞ぐ。
「んっ…」
唇から小さく漏れた甘い声は、耳に心地良い。
抱いていたエレンの身体を下ろしてやるときに、額へもうひとつ口付けを。
「ほら、行くぞ」
「はーい」
手を引かれ、スウェット姿のままで庭を望む和室へ上がる。
「今日の朝ごはんは?」
「味噌汁と目刺しだ」
「小説にあったやつだ!」
クスクスと笑いながら、2人で食卓についた。
エレンがリヴァイの養子であることは周知の事実で、それをとやかく言われる筋合いは無い。
それでも何やかんやとやっかみはあるもので、エレンは気に食わなかった。
「別に、俺のこと悪く言われるのは良いんだよ。どうでも良いし。…でも」
エレンをネタにしてリヴァイを悪く言われること。
それだけは許せない。
「大丈夫。エレンを侮辱する輩には、私が制裁を加える」
「お前はやり過ぎだろ」
二ノ鳥居で待っていたミカサとアルミンに合流し、3人で学校へ向かう。
「エレン、何かあったの?」
「おう。昨日、職員室のリヴァイさんの机、誰かが勝手に書類とか触ったらしい」
アルミンは笑おうとして失敗した。
「それは…勇気あるね」
「だよな。リヴァイさんが言うには、他にも勝手に物動かされた先生たちが居るって」
「ふぅん。本命は1つで後はカモフラージュ、ってこともありそうだね」
「目的の先生が誰か分からないように?」
「そう。用意周到だよね」
エレンたちがまだ学校へ向かい始めたばかりの頃。
学校では朝の職員会議が開かれていた。
「くっそ。誰だ、このようなことをするのは…!」
2年生の現代社会の教科担当をしているキッツが、怒りに震えながら校長と教頭へ1枚の書類を突き出す。
そこには若い女性と腕を組み歩くキッツを写した写真が貼ってあった。
ご丁寧に『浮気現場を激写☆』と丸文字でタイプされている。
ギリギリと歯軋りするキッツに、教頭が髪を撫で付けながら問い掛けた。
「念のために聞いておくが、この女性に心当たりは?」
「…大学時代の後輩です。腕を組んでいるように見えますが、見えるだけでしょう?!」
「うむ、確かにそのとおりだ」
彼女にも家族があるんだあり得ない! と叫ぶキッツを宥め、他には? と教頭が教師たちへ問い掛ける。
するとリヴァイを含めた3名が机の物の配置を変えられ、数名が何かが減っている気がすると答えた。
人間の記憶なんて曖昧なものだ。
何が減っているかなんて、『それ』を使う機会がなければ気づかないだろう。
「…ふむ。今後、職員室への立ち入りは厳格にしよう」
それから、と教頭が話題を転じる。
「不審者の情報が警察より入っている。場所は×××の×丁目にある公園と、そこに近い土手。
担任を持っている者は、クラスで注意を促すように」
近道というものは、大体が人通りが少ない。
エレンの帰り道には、時折そういう脇道がある。
ーーーにゃーん。
鳴き声に足を止めると、通りの脇の塀からぴょんとオフホワイトの猫が降りてきた。
「あれ? お前こっちの方にも来るのか」
返事のようににゃーんと鳴いた白猫は、エレンの後ろをとことこと歩く。
エレンの隣でアルミンが笑った。
「まるで騎士(ナイト)だよね」
「猫だぞ?」
「それでも、だよ。前も言ったけど、いっぱい助けられてるんだから」
「…そんなにあったか?」
首を傾げるエレンに内緒で、アルミンは白猫と目を合わせると人差し指を唇に当てる。
(そう、内緒)
白猫も心得たとばかりににゃ、と短く一声。
「不審者の話をリヴァイ先生もしていたし、味方は多い方が良いよ」
* * *
夕日が沈みかけた部活の帰り道、ミカサは大通りの信号で猫の声を聴いた。
ーーーにゃーお。
足元を見下ろすと、そこにはあの白猫。
「…どうしたの? 私に近づくなんて、珍しい」
信号が青になる。
白猫は歩き始めたミカサの隣をすてすてと歩く。
ーーーにゃーあ。
「……そう。他の人も知っているの?」
ーーーにゃーん。
信号を渡り終える。
「分かった。こちらも気にしておこう。あの人には伝えた?」
ーーーにゃー。
「…ありがとう。あなたも気をつけて、アニ」
足を進めたミカサを追わず、アニと呼ばれた白猫は見送るに留めた。
ジジ、と歩行者用信号の真上にある蛍光灯が点滅する。
パッ
照らされた白猫の影は横断歩道にゆらりと伸び、二叉に分かれた長い尾を揺らした。
パッ
次の点滅で影は幻のように消え、白猫は足音も無く歩き出す。
途中で住宅の塀に身を移し、目的地へと足早に進む。
やがて見えてきた緑のフェンス、それを身軽に飛び越え砂地へ降り立った。
人気のない公園だ。
アニは、自分の体毛が夜に目立つことをよく知っている。
ゆえに念には念をと、公園の奥へ近づいたら手近な木に登って身を隠した。
人の声が聴こえてくる。
それから、争うような音が。
「うわああああっ!」
男の悲鳴だ。
ややするとレインコートらしきものを来た人間が足早に公園を出ていき、喚くような声だけが公園の奥から聴こえて来る。
アニは木から降りると、喚く声の方へと近づいていった。
まだ夜が深くなる前だというのに、悲鳴を聞きつけて人が来る気配はない。
公園の奥まった場所、公衆トイレの脇の草地。
そこに喚くような声の主は居た、仰臥した状態で。
「いてぇよお…だれか…」
声が随分と細くなった。
近づけばカサカサと草を踏む音が鳴って、力のない男の目がアニを見た。
血の匂いが濃い。
「なんだよ…ねこかよ…」
無論、猫では何の助けにもならない。
けれどアニにはどうでも良いことで、しかも男がこちらを見ているのは大変都合が良い。
暗闇で光を取り込むため、アニの青い眼は大きく瞳孔が開いている。
その瞳孔が、きゅぅ、と鋭く尖った。
ひく、と仰臥していた男の喉が異音を出し、合わなくなった目の焦点が裏返る。
そうしてカクンと落ちた首の様子を見れば、男が絶命したことは明白だ。
ぺろりと舌で口の辺りを舐めたアニは身を翻し、ととと、と来た道を引き返した。
『こっくりさん、こっくりさん。いらっしゃいましたら「はい」へお進みください』
『こっくりさん、あの教師にひと泡ふかせてやりたいんですけど、どうすればいいですか?』
『…良いこと聞いた。こっくりさん、どうぞお帰りください』
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2015.5.23(むすびきょうむのこぼれぎん)
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