結狂夢ノ零銀

八.参ノ札



*     *     *



はらはらと、紅く燃ゆる紅葉が舞い落ちる。
この國有数の秋の名勝の山、中腹に屋敷がひとつ建っていた。

ーーーいかに化生とて、この美しさには我を忘れるに違いない。

都の下々に至るまで、そう褒めちぎるような山であった。
名は廻り回って紅葉山。
その山に屋敷を構える主は、陰陽師であり公家に名を連ねる程の血筋である。
彼は、この屋敷の普請を宮大工の一座に依頼した。
曰く『神を祀れる程のものでなければ、この山に建てるに相応しくない』と。
彼の言を否定する者は無く、誰もが納得したことも知られた話だ。
そうして建てられた屋敷はこれまた美しく、それこそ神の宮としても相応しき佇まいであった。
屋敷の主が他者をこの屋敷へ招いたのは、施工が終わりお披露目を行ったただ一度きり。
他の公家のみならず帝からもその不満を告げられた屋敷の主は、こう云ったという。

『美しきものには、必ずや悪しきものが寄せられまする。
私がこの美しき地に美しき屋敷を構えたは、偏に都や帝の御身をお護りするため』

悪しきもの…特に、美醜を判じられる質の悪い異形の者。
彼らは美に集まる人々の生気を、魂を狙い厄を広める。
そのような輩が真っ先にこの地を狙えば、勝手知ったる山ゆえに退治しやすいと。
帝はその言に感じ入り、兵の数が必要な場合はいつでも申せとまで仰せられた。
公家の者たちはしばらくは疑いの目を向けていたが、飢饉で國が荒れた際、異国の魔物が入り込み目の当たりにした。

干魃を呼ぶギョウ。
暴風を起こしあらゆる建物を薙ぎ倒す大風(たいふう)。
禍を吐き散らす窮奇(きゅうき)。

いずれもが都を通り越し、この屋敷を狙った凶悪なる異国の魔。
かの3つの魔が通り過ぎただけで、都の半分もの民が失われた。
もしもあれらが都に取り憑いていたなら、この國は滅んでいたであろう。
いずれの魔の者も自我を以って國を滅ぼし、新たな奇禍を撒き散らしながらこれまでにも多くの都を滅ぼしたと云う。

戦いのさなか、美しき山の麓は酷い奇禍に見舞われた。
流行病で人が次々と死に、湖は毒沼と化し、作物は育たず、雨風はただ激しいだけで実りにはならず。
戦いが終われば美しき山の麓は、季節を2度繰り返した後に美しく戻った。
されど人は住めず、帝や公家たちは生き延びた者たちを都へ住まわせた後、触れを出す。

ーー此の山は悪しき魔を退治する狩場にて、許可無く近づくことならず。

屋敷の主たる陰陽師は、触れを出した帝へ頼み込んだ。
曰く、要らぬ被害を与えずに済むと。
これまたいたく感銘した帝は、必要な物はすぐに手配しようと繋ぎの『鴉』を屋敷の主に創らせた。
『鴉』を通して稀に招集される兵たちは、いずれもが人に非ざるものを目の当たりにしてくると云う。
その後には必ず屋敷の主の退治の手腕を褒めるので、陰陽師の名声は留まるところを知らなかった。


*     *     *


はらり、はらり。
屋敷の中庭、千の齢を持つという銀杏の樹を見上げる1人の少年。
彼はこの銀杏が随分とお気に入りのようで、気づけばいつも此処に居る。
その姿を愛おしげに見つめて、紅葉山の屋敷の主は廊下の影に向けて声を投げた。
「首尾はどうだ?」
障子の影がゆらりと揺れ、人型を為した。
【万事、整っております。帝の兵力、数にして3千。山へ分け入り、こちらの指示した通りの配置です】
屋敷の主は唇で笑みを象る。
「ここまでせっせと悪鬼退治をしていた甲斐があったな。日の入りに始めるぞ」
【承知しました】
影が元に戻る。
屋敷の主は石段の履物を履き、中庭へ出た。

「※※※」

名を呼ぶと、少年が銀杏からこちらへ顔を向けた。
「※※※!」
彼に近づいた屋敷の主へ、少年はぎゅっと抱き着く。
「もう終わったの?」
「ああ、準備は終わりだ。日が暮れたら始める」
「いつまで?」
「すぐに終わる」
戯れに口を吸い、頬や首筋にも唇を落とす。
くすぐったがってきゃらきゃらと笑い声を零す少年は、屋敷の主にとって命にも等しい存在だった。
「始まるときには、※※※と※※※もここへ寄越す。お前、ここを動くんじゃねえぞ」
この銀杏ならば、何かあっても守れるだけの力を蓄えている。
それだけの時間を生き、それだけの付き合いがあった。

屋敷の主は少年の後ろ首に手を回し、引き寄せると深く唇を合わせた。
「んっ、む…」
閉じ切られた唇を舌で啄けば薄っすらと開かれ、その隙間からぬるりと舌を入れ込み歯列をなぞる。
「は……ぅん、ん」
悩ましげな息遣いに、舌が口内を犯す水音。
名を呼ぼうとしてもその傍から接吻を深められ、声が音となることを許されない。
少年が屋敷の主の衣服を掴んでようやく離れた唇は、つぅと糸を引いていた。
「ここから離れるなよ」
念を押して告げられた言葉に、頬を上気させたまま少年はコクリと頷く。
屋敷の主はそれに満足気に笑うと、彼の頬をするりと撫ぜていった。
「良い子だ」

屋敷の主の要望により帝が派遣した兵力、約三千。
その大将を務める者が、大将直属の部下たちと共に正面で待っていた。
「※※※殿。兵の準備は万事、整っております」
儀式に用いる式服を纏った屋敷の主はひとつ頷き、口を開く。
「相分かった。お前たちが配置に着いたらすぐに始める」
「はっ! 都に害為す異形の者は、命に換えてもこの地で塞き止めまする!」
配置に着いたら『鴉』を飛ばせと札を渡し、騎馬が駆けていくのを見送った。
「※※※。今回の分でどれだけ保つと思う?」
正面玄関脇の松、その影がゆらりと人型を為し今度は色彩を持つ。
先の中庭の少年と変わらぬ年代の少年を型どった影は、何事かを指折りで数えた。
「そうですね。予定通りの陣となれば、五百年は保つかと」
「そうか」
ならばその間に、次の手を考えれば良い。
「では、僕は※※※と一緒に※※※の処へ」
「ああ。頼む」

海向こう、大陸より飛来した異形を倒したのは、この屋敷の主であった。
「祟るには良い能力だ」
干魃を呼ぶギョウ。
家屋を薙ぎ倒す大風。
厄を撒き散らす窮奇。

左手に巻かれた数珠をじゃらりと回し、屋敷の主は珠のひとつを指先で摘まむ。
ピシリ、とその珠にヒビが入ったかと思うと、藍色の珠は粉々に砕けた。
折しもバサリ、と札の『鴉』が空より降りる。
『鴉』は差し伸べられた腕にて込められた音を発し、役目を終えれば札に戻る。
「さて」
砕け散った数珠は白い炎に包まれて消え、屋敷の主の足元からぶわりと青黒い火が立ち昇った。
火は炎へ姿を変え八方へ伸び、さらに大きな円を描く。

空は黄昏を過ぎ、ゆるやかに闇へと転じる刻限。
円に燃える炎は微かな日の光を舐め、藍色の闇を揺らした。
刹那、屋敷の主の瞳が同じ闇色を宿す。
唇から発される言の葉は、言霊となり使命を果さんと駆けてゆく。

『 朱き刻より 鮮血ひとつ 』
武器を構え悪鬼退治の合図を待っていた兵の腕が唐突に裂け、血が噴き出した。
喉から迸った悲鳴は木々の向こうからも聞こえ、 他でも"何か"が襲ってきているのだと誰もが痛みを堪える。

『 黒き影より 角ふたつ 』
体力のある者が血塗れながらその場を離れようとしたとき、身体は1寸も動かなかった。
己の影が本体たる身体にピタリと貼り付き、呑み込もうとするが如くずるりずるりと身体を這い上がってくる。

『 結び糸より 針みっつ 』
身体の自由を奪われ、自らの意思で行えるのは痛みと恐怖に枯らす声ひとつ。
その悲鳴もまた細く巨大な針に貫かれ、喉の潰れる音だけが残る。
針の筵にされた兵の身体は、巨大な力でぶちりと上方へと引き千切られた。

山のあちらこちらで降る、赤い雨。
燃えるような紅葉の山にそれは目立たず、薄闇に溶け落ち。

『 結んで開いて 宵の檻 』

パキンと細工の折れる音は、鋭角の美しい黒の蓮を生んだ。
屋敷の主が数珠を持つ手をゆぅるりと握れば、山の中央を花芯とした蓮の法陣もゆるりと閉じゆく。
掌がぐっと握られる。
黒の蓮は今一度パキンと硝子細工の音を上げ、蕾となった。
三千の兵の姿は何処にも無く、散った鮮血さえ夜に薄れて。

三千の灯火はひとつの真っ赤な珠となり、ひとつ減った屋敷の主の数珠へ連なった。
元の数を連ねた数珠をじゃらりと鳴らして、屋敷の主は満足げに嗤う。
「これで当分、邪魔は入らねえ」
踵を返し、その足は屋敷の中庭へ。
しかし愛し子の姿は見つからず、視線を上げた。
ひらひらと舞い落ちる銀杏の葉は何かの実験台にされたか、様々な形に切り取られている。
「※※※」
齢を重ねた銀杏は、枝がひどく上方にある。
鳥の羽毛のようにたっぷりとした葉の中で、はしゃぐ声。
「※※※」
もう一度呼べばひょこりと葉の合間から少年の顔が覗き、破顔した。
「※※※、終わった?」
「ああ」
すると少年は何の躊躇もなく、高い銀杏の幹から屋敷の主目掛けて飛び降りた。
危なげもなく屋敷の主は少年を抱き止め、少年の後に降りてきた影の少年と、もうひとり、少女へ問うた。
「何も無かったか」
「はい」
「万事つつがなく」
「そうか」
後の始末を頼むと2人へ伝えて、屋敷の主は少年を抱えたまま屋敷の内へ戻る。
「みんなに合図を出そうか」
「私の方が速い。ので、私が出そう」
「じゃあ頼むよ、※※※」
「頼まれた」
頷いた少女は自分の髪の毛を一筋引き抜き、ふぅっと息を吹きかけた。
すると髪の毛が何羽もの雉鳩へ変じ、バサバサと飛び去ってゆく。
すべてが山の向こうへ飛び去るのを見届けて、少年と少女も屋敷の中へ身を移した。

一直線に翔んだ雉鳩は山の麓、さらに東に建つ都へ辿り着く。
さらに都の方方へ散った雉鳩の1羽が、帝の坐す宮の松に停まった鵲(カササギ)の元へ。
鵲の隣に停まってややすると、雉鳩はふっと燃え尽きたように姿を失う。
それを見届けた鵲は空を見上げて尾羽根を揺らし、カチカチカチッと鳴き出した。

カチカチカチッ
カチカチカチッ

「おお、もう夜も更けるというのに鵲が鳴いておるな」
「本日は紅葉山の悪鬼退治でしたな」
「なれば勝鬨よの」
「異国の悪鬼を退治した※※※殿だ。此の度も良き報告をお持ちだろうて」
「帝も首を長くしてお待ちだろう」

カチカチカチッ
カチカチカチッ

「ねえ、紅葉山の銀杏が素晴らしいそうですよ」
「異国の悪鬼を祓ってくださった霊木じゃ。容易く近づいてはならぬだろう」
「あら、悪鬼は陰陽師の公方が祓ったのでしょう?」
「そうであったか? ともかく、あの山は神聖なる地。人間風情が近づいてはならぬ」

カチカチカチッ
カチカチカチッ

「悪鬼退治に向こうた三千もの兵が、1人も戻らんかったそうじゃ」
「なんと…! 帝も胸をお痛めじゃろうて」
「せめて都の守護だけはと、紅葉山の麓に鳥居を寄進せよとの御下命で」
「明日にも早速、宮大工を呼び寄せねばならぬな」

カチカチカチッ
カチカチカチッ

「帝へ申し上げます。都の民や周辺の町々からの寄進、鳥居一千基となり候」
「うむ。ようよう御山の許しを得た後、宮を建立せよ」
「御意」

カチカチカチッ
カチカチカチッ

都の方方で一斉に鳴き出した鵲は鳴き続け、七日七晩。
たった七日の内に紅葉山は神域となり、祝詞の返礼があったときに限り人が山へ分け入れるのだとか。
「紅葉山には、それは見事な銀杏が聳えているそうな」
「山の中腹には、神様のお宮が建っているとか」
「こちらの神様は、狐の姿を借りていると聞きまする」
往来の人々の話を首をきょときょと回して聞きながら、1羽の鵲が松から飛び立った。

長い尾羽を揺らしながら翔んだ先は、紅葉山の中腹。
大きな銀杏の葉の間目掛けて飛び込んで、するりと幹を伝って降りてきたのは鵲ではなく1人の少女。
「※※※! ※※※ー! ※※※ー!」
居ますかー? と大きな声で屋敷へ呼ばえば、屋敷の影から人が生まれた。
「ご苦労様、※※※。どうだった?」
「へへん、バッチリです!」
パタパタと、屋敷の奥から音がする。
「※※※だ! 久しぶり!」
「お久しぶりです、※※※!」
引き戸の向こうから顔を見せた少年に、少女も満面の笑みを浮かべた。
「あのね、※※※が※※※の頑張ったご褒美だって、ご馳走用意してた!」
「ほんとですかっ?!」
やっほー! と浮かれた声を上げながら、少女は少年と連れ立って屋敷の中へ駆けてゆく。
その後姿を追って、影の少年はクスリと笑んだ。

(これで当分、邪魔は入らない)

さて、手にした時間は有益に。
屋敷の主と共に、次こそ、奪われぬ『世界』を創ろうか。



 ∞



きな臭い。
その一言に尽きた。
(何かを呼んだか呼ばれたか…)
ハンジは中庭で学校の上空を眺める。

いつもある黒い靄の渦巻き、あの靄は言うなれば『この学校にいるすべての人の負の感情』。
何らかの切っ掛けで降りてきて人に取り憑き、悪さをする。
あの渦巻きすべてが1人の人間に取り憑いた場合、取り憑かれた者は正気を失うだろう。
正気を失うだけでなく、その人物に親しい者から順に影響されていく。
そうして影響された者からさらに伝播し、広がる。
(『こっくりさん』も似たようなものか)
考えていると、黒い靄の一部が学校へ降りて行った。
ハンジは靄の行く先を追い掛ける。

昼休みの空き時間、校庭の隅に設置されているバスケットゴールを囲み、遊ぶ生徒たちが目に入った。
(あれは…リヴァイのクラスの)
少年が4人に少女が2人、3on3だろうか。
黒い靄が彼らに向かう。
「あっ…?」
ハンジは目を瞬いた。
(今、確かに…)
黒い靄が、何かに弾かれたような。
弾かれた靄は霧散したが、上空から再び降りてくる。
(!)
やはり見間違いではなかった。
今ハンジが見ている生徒たちの周りで、靄が弾かれている。
(結界だ…!)
あの生徒たちの中の誰かが、そのような心得があるということか?
しばし結界が靄を弾く様を観察し、ハンジは職員室へ引き返した。
(リヴァイのクラスの名簿は…)
出席簿を手にし、上から順に名前を見ていく。
(ああ、この6人か)
エレン、ミカサ、アルミン、マルコ、サシャ、コニー。
特に前者の3人は目を惹く、とクラスの授業へ潜り込んだときに感じていた。
群を抜いた容姿をしているのはミカサ、風貌が女子と間違われそうなアルミン。
それから、その2人が必ず傍にいるエレン。

昼休みに入り、ハンジは単刀直入に担任教師に訊いてみた。
「ねえねえリヴァイ。あなたのクラスの子について、ちょっと聞かせてよ」
「あぁ?」
弁当を広げている彼を、始めの内は珍しいなと思ったものだ。
綺麗好きの度が越えていると分かってからは、どこか納得した。
(自分で作ったものの方が、まあ安心だろうね)
ハンジはコンビニ弁当の封を開けながら、まったく乗り気でないリヴァイへ構わず話した。
「あなたのクラスってさ、特定のメンバーがかなり目立ってるよね」
「エレンたちのことか」
「そう」
まだハンジは全体朝礼を除いた学校行事を経験していない。
していないが、いかに人が集まったとしても彼らは目につくのだろうと思う。
だが彼女の予想に反し、リヴァイは苦々しい顔をした。
「ありゃあ悪目立ちっつーんだよ。特にエレンはな」
お前、暇ならしばらくエレンを観察してみろ。
それきり彼は昼ごはんに集中してしまい、ハンジは疑問符だらけの脳内で昼休みを過ごした。



階段、というのは学校における事故現場のベスト3ではないかと思う。
「エレンっ!!」
叫び声にハッと顔を上げると、駆け降りてくる生徒と、その生徒にぶつかられたのかバランスを崩した生徒の姿が。
間一髪、やや上の段にいた少女がバランスを崩した少年の腕を掴み、事なきを得る。
ハンジは自分の横を駆け抜けようとした、たった今階段を駆け降りてきた生徒の腕を掴んだ。
「待ちなよ。君、今ひと1人の人生滅茶苦茶にするところだったんだよ?」
一段低くなったハンジの声に、腕を掴まれた生徒はヒッと怯えの声を上げる。
それから彼女の視線を追い掛けるように階段を見上げ、少女の般若の形相を目撃してヒィッ! と震え上がった。
「すっ、すみませんでした先輩!!」
ガバッと頭を下げ、返事も待たずに後輩君は駆けていった。
あの分だと、今度は廊下で誰かとぶつかりそうだ。
ハンジは改めて階段を見上げた。
「大丈夫かい? 君…えーと、エレン君」
「ああ、はい」
いつものことですし、と続けられた言葉は、聞き捨てならない。
(いつも…?)
「あのガキ…私が然るべき報いを…」
「落ち着けよミカサ。ほら、行くぞ」
エレンに手を引っ張られ、般若の形相をしたミカサは元の表情に戻ると渋々と階段を登っていった。
アルミンがぺこりとハンジへ会釈し、彼らの後を追う。

次は放課後、運動部の活動が活発な校庭を眺めていたときだ。
「エレン! こっちですっ!」
「へ?!」
帰るために正門へ向かう列の中、別のクラスメイト…いつも物を食べている、サシャだったか…に、エレンが思い切り腕を引っ張られていた。
たたらを踏んだ彼が彼女へ倒れ込んだ直後、エレンが元から居た箇所にサッカーボールが凄い勢いで飛んできた。
窓枠に頬杖を付いていたハンジは、思わず頬杖を外して凝視してしまう。
大きくバウンドしたサッカーボールは、そのまま校庭へ戻っていった。

極めつけは、翌朝の登校時間のこと。
今日のハンジはいつもより5分早く家を出た。
学校の最寄り駅で停まった電車から降りて歩くのだが、学生や社会人が多く歩いているのはいつものことだ。
(ん…?)
丘陵を下るような直線道路は、車も自転車もスピードが出やすい。
途中には幾つもの交差点があり、徐行の標識通りにしなければ信号で止まれなくなる場合もある。
ハンジが歩いている道の先、反対側にエレンとミカサ、アルミンの姿が見えた。
彼らは信号を待っており、ハンジが近づく間に信号が切り替わる。
びゅっとハンジの横を駆け抜けていった自転車に嫌な予感がしたのは、『そういうこと』を経験しているからかもしれない。
ノンブレーキの自転車は、猛スピードで交差点に入っていく。
軽車両扱いの自転車は自動車と同じ扱いなので、本来ならば停まらなければならない。
しかも目の前の横断歩道には、渡っている学生たちがいる。

「危ないっ!!」

ハンジが咄嗟に叫んだ声は、自転車の急ブレーキの音に掻き消された。
(ぶつかる!!)
しかし人とぶつかる鈍い音ではなく、物がぶつかって壊れるガシャーンッ! という音が響いた。
驚く間も惜しく、ハンジは前方の交差点へ駆ける。
「大丈夫かい?!」
なぜかオフホワイトの猫を抱いているエレンが、ハンジの姿に大きな目をぱちりと瞬いた。
「え? あ、ハンジ先生?」
エレンが立っているのは歩道の手前、まだ横断歩道だった。
視線を彼から坂道の先へやれば、10mほど先に自転車が転がり、乗っていた人間も転がっている。
運転者の方はヘルメットを被っているので、まあ大事にはならないだろう。
(急ブレーキにハンドル取られて、止まれず咄嗟に横倒しにしたってところか)
状況分析はほどほどに、ハンジはエレンへ向き直り安堵の息を吐いた。
「良かったよ。ぶつかっちゃうかと思って」
ああ、と呟いたエレンが、抱いている猫を見せるようにハンジへ突き出した。
「そっちの家の塀から、こいつが飛び出してきたんです」
それでびっくりして足を止めたら、目の前の歩道を猛スピードで自転車が通ったんです。
「そう。まあともかく、君たちに怪我がなくて良かった」
あの自転車の主は私が何とかするから、とハンジは彼らを先に学校へ行かせた。
「……」
学校への道のりに戻った3人の後ろ姿を、しばし見つめる。
ーーーモヤリ、と。
黒い靄がエレンに近付き、バシンと何かに弾かれた。
一般人には決して見えぬ『ソレ』を見据えて、ハンジは靄の出処を探す。
しかし靄の出処は、砂時計の砂のような微量なものが集まる野次馬たちから満遍なく出ており、何とも言えない。
(学校で見たときより、エレンに近いところで弾かれてるな)
ということは、あの3人ではない誰かが結界を張っているということになる。
それに、と気になることは尽きない。
(人の負の感情が集まって、エレンを狙ってる…?)

救急車を見送ってからエルヴィンに連絡を取ってみると、ハンジの疑問はどうやら『よくあること』のようだった。
(人は必ず負の感情を持っていて、多くの人のソレが凝り固まって悪さをする)
学校の上空にある靄が良い例だ。
あれは『こっくりさん』を増やすのに一役買ってしまっている。
(人は自分にないものを持つ者を羨む。それはつまり、自分と正反対の存在を羨んでいるとも取れる)
負の感情だけが集まっているなら、それは正の存在へ惹き寄せられる。
さながら磁石のS極とN極のように。
世間一般に『良い人』と呼ばれる人が、若くして死んでしまうのも無関係ではない。
「…訊いてみるか」
ハンジは校長への報告を終えると、リヴァイの姿を探した。

彼を掴まえられたのは、放課後になってからだ。
声を掛けようと思ったが、彼はエレンと話していた。
「本当に怪我はないか?」
「ないよ。もう、ミカサとアルミンにも確認してただろ」
話中の2人はエレンを待っているようで、階段の入口でハンジに気づきこちらに会釈した。
「エレン待ちかい? 私はリヴァイ待ちなんだ」
ところで、と2人に尋ねてみる。
「なんかエレン、フランクにリヴァイと話してるけど。アイツ、そういうの許すタイプだっけ?」
「あ、いえ。エレンだけだと思いますよ」
「エレンはあのチビ…リヴァイ先生が、保護者だから」
リヴァイをチビと言い放ったミカサの胆力に脱帽しつつ、ハンジは聞き返す。
「保護者? じゃあエレンはご両親…」
「もう居ない」
「そっか」
深く聞くのは止めておいた。
タタッと足音が近付き、廊下からエレンの顔が覗いた。
「わりぃ、待たせた! あ、ハンジ先生」
よく会いますね、と言われてそれもそうだな、と思う。
「朝の件もあるけど、気をつけて帰りなね」
「もう耳タコですよ…。じゃあ先生、さよなら!」
階段を降りていく3人を見守ってから、ハンジはようやくリヴァイへ声を掛けた。
「前にあんたが言ってた『悪目立ち』って、何となく分かったよ」
「…そうか」
今朝は世話を掛けたな、と殊勝に言ってくるもので、思わず吹き出した。
「あんたみたいな強面に礼を言われると気味悪いね!」
「ほう? 殴られたいか」
「遠慮しとくよ痛そうだし!」
掛け合いが一段落したところで、ハンジはエレンの降りていった階段を見下ろす。

「エレンの『アレ』、ずっとなの?」
リヴァイが答えるまでに、間が空いた。
「…気づいたときには"そうなってた"な。アイツは外を駆け回るのが好きなんだが、うっかり外出もさせられねえ」
「こう聞くのもアレだけど、お祓いとかは?」
窓の外に向いていたリヴァイの視線が、ハンジへ戻る。

「てめぇは『アレ』が視えるか?」

そう言って彼が指さしたのは、学校の上空。
ぐるぐると渦を巻く黒雲が、時折下へと降りてくる。
あまりに予想外で目を丸くするハンジに聞かずとも回答を見て取り、リヴァイはまた視線を空へ戻した。
「人間ってのは厄介過ぎる。無意識に無関係の人間を殺そうとするんだからな」
極論だ、と反論する根拠を、ハンジは持ち合わせていない。
そうして死んでいく人や、巻き込まれる人々を数多く見てきた。
「ねえ、リヴァイは『こっくりさん』が流行ってるの知ってる?」
「あ? …ああ、夕方に教室に残ってる生徒がよくやってる」
夕方、黄昏時か。
「あなたは知ってそうだけど、アレ、遊び半分にやって良いもんじゃないよ」
どんな理由であれ、"術"を敷くなら"対価"が要る。
「止めろと言って、ガキどもが訊くと思うか?」
子どもの無邪気さと好奇心は長所であり、また欠点だ。
「そうなんだけど、無理矢理にでも止めさせないと取り返しの付かないことになるよ」
「人死にが起きるとでも?」
「極端な話、そうなる」
ふん、とリヴァイは興味が失せたかハンジから視線を外した。
「俺はエレンで手一杯だ。他のガキどもの『趣味』なんざ、関わってる余裕はねえ」
正論ゆえに、それ以上を返せない。
考えた末、ハンジは服の内ポケットから取り出したものをリヴァイへ押し付けた。
「これ、エレンに持たせてあげてよ」
「あ?」
唐突に差し出された紙きれに、リヴァイが訝しくハンジを見上げた。
消しゴムサイズに折り畳まれた紙を広げれば、中には黒と朱の墨で梵字が描かれている。
「おい」
「気休めにはなると思うよ!」
じゃーね! とハンジはリヴァイへ手を振り養護教室の方向へ去っていった。
帰り支度でもするのだろう。



リヴァイは渡された呪符…そう、これは呪符だ…を見つめた。
「人間には効くだろうがな」
呪符はリヴァイの手が触れる箇所から、徐々に燃えていく。
炎を上げることなくじわじわと黒く焼け、ついにはチリチリに焼け焦げほんのひと欠片の炭と化した。
リヴァイは掌の炭を払い落とすとハンジが去った方向を一瞥し、真っ赤に染まる空に背を向ける。

「隠れるのが下手なんだよ、陰陽師ども」

廊下に揺れた影は、人間にはあり得ぬ姿を写していた。




『こっくり様、こっくり様。禁を破ってしまい、申し訳ございません。どうぞお怒りをお鎮め下さい』
『私どもの一家は出てゆきます。二度とこっくり様のお手を煩わせは致しません』
『ほんの出来心なんです! "こっくりさん"なんて、無邪気で無知な子どもの遊びなんです!』
『ですからどうか命だけは、子どもたちの命だけはーーーっ?!!』

ザシュッ!
……ゴトン、ゴロゴロ
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2015.7.1(むすびきょうむのこぼれぎん)

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