結狂夢ノ零銀

九.オキツネサマノイウトオリ



*     *     *



ハンジが赴任してから2ヶ月が経った、ある真夜中。
しん、と静まり返った校舎は、昼間の騒々しさも相俟って別世界のようだ。
コツコツ、と足音だけが響き渡り、自身の位置を伝えてくる。
「!」
微かに声が聴こえた。
自分のものではない、他者の声だ。
声の聴こえた方向へ足を向け、急ぐ。
廊下をひとつ曲がると、微かに光の漏れている教室があった。
天井の電気ではない、それには暗すぎる。
足音を隠さず近づいても、動揺するようなざわめきすらない。

カツン。

扉の前で立ち止まり確認すれば、教室の扉も窓も閉め切られている。
(…! 鍵が)
扉に手を掛けても開かない。
上部の小窓から覗くと、僅かな明かりの理由が分かった。

スマートフォンだ。

机を2つ並べ、それぞれの辺にあたるヵ所に1人ずつ座っている。
机の四隅にスマホが置かれ、仄かに暗闇を照らしていた。
照らし出された机の上、4人の片腕は同じヵ所に向かって伸ばされている。
「ーーー」
微かな声は唱えていた。

『こっくりさん』と。

強硬突破しようと懐から札を取り出す。
しかしゾワリと背筋が粟立ち、ハンジは勢いよく廊下を振り返った。

「こんな時間に何してる?」

夜間警備でもあるまいし、と話しかけてくる声は、至って普通である。
無論、今この時刻は深夜2時でありいわゆる『丑の刻』、普通ではない。
浮かびそうになる冷や汗を気力で抑え、事も無げな様子を装った。
「前に言っただろ? 私はこの学校で流行ってる『こっくりさん』が気になるんだ」
人を呪うなら丑の刻。
「もしかしたらってこともあるから、警備の人に無理言って入れてもらったのさ」
数m先に立つ相手は、笑ったようだった。
「ほう? 警備員は正面玄関に居るが、お前の話は聞かなかったぞ」
「!」
失念していた。
ハンジは日が暮れた頃に他の職員に混ざって学校を出た後、深夜になってから裏口を潜ったのだ。
そもそも警備員は、安全のために暗示を掛けて家に帰している。
「ああ、後な、そいつらはダミーだ」
相手がパチン、と指を鳴らした。
「…は?」
言われた言葉が咄嗟に理解できず、間抜けな声を上げてしまう。
先ほど覗き込んだ教室を小窓から見れば、明るいスマートフォンはそのまま、座っていたはずの4人だけが消え失せていた。
「『御呼び出し』に電子機器は要らない。『媒介』と『伝搬』には必要だがな」
疑念は確信に変わり、ハンジはぎり、と歯を噛み締める。

「やっぱり…『こっくりさん』の始まりはあんただったんだね、リヴァイ」

昼間の出で立ちと変わらず、そこには古典担当教師のリヴァイが居た。
羽織られている白衣が、どこか暗闇に浮いていることを除いて。
「『こっくりさんをしている』と噂された生徒、全員に式神を付けていたんだ。可能な限りの学校卒業者にも」
「は、ご苦労なこったな」
嘲笑うような台詞を無視し、ハンジは油断なくリヴァイを見据えた。
「一度誰かを"本当に"呪った人間には、『痕』が付く。
一般人には何ら関係ないけど、私たちのような心得のある者には目印になる『痕』が」
隣接する地域も含めすべての人間の『痕』を追い、そして条件の篩(ふるい)にかけていった。
さすがに骨が折れる仕事だったが、その甲斐は目の前の成果として現れた。
"何を使って"呪ったかは判別できなくても、どこの誰と関わったかは訊けば分かる。
そうして篩いにかけて残った人々は、年代は様々で一見どこにも共通点がなかった。
「でも、何人かに1人はここの学校に関わりがあった」
「ほう?」
ハンジのスマホが、バイブ音を鳴らす。
電話を取ることなく、彼女は続けた。

「どんな年代の人に訊いても、必ず出た。『リヴァイ先生』の名前が」

白寿のお婆さんも、社会人になりたての青年も、3児の母である女性も、バリバリ働く男性も。
『ああ、あの先生。懐かしいわねえ』とか。
『リヴァイ先生? もしかしてまだあそこで先生やってる?』とか。
『黒板綺麗にするのめっちゃ大変だったよ…懐かしい』とか。
何年前の話でも、必ず同じ名前が出てきた。
ーーーリヴァイの名前が。
「ここ10年、学生が事故や犯罪に巻き込まれて亡くなる件数が多い。だから『呪術』的な関心が集まったんだ。
…場合によっては、あなたを『調伏』させてもらうよ」
今度こそリヴァイが嘲笑した。

「人間如きが、偉そうな口を利くもんだ」

パキン! と氷の割れるような音が響き、ハンジの目の前にいるリヴァイとその周りの景色がガラガラと崩れた。
「っ、幻覚か!」
だが、すでにこの学校にはかなり強力な『結界』が張ってある。
学校の敷地外には逃げられない。
(捕らえるなら、下からよりも上からだ!)
ハンジはスマホを取り出し目的の番号を呼び出すと、階段へと廊下を駆け出した。
ついでに無線インカムの設定を行う。
『ハンジか。首尾は?』
「上々、と言いたいとこだけど、これ結構ヤバイわ。上の上かも」
『…判った。ミケとナナバもそろそろ着くはずだ』
「りょーかい! さすがエルヴィン、手が早い…、ん?」
次の角を曲がれば階段、というところで、彼女は窓の向こうに人影を見た。

「エレン?!」

学校の裏門側、すでに敷地の中にいる3人の少年少女。
外の街灯が照らし出した顔は、リヴァイが担任をしているクラスの、エレン、ミカサ、アルミンだった。
エレンの足元には明るい毛色をした大型犬もいる。
(なんで?! 私たち以外は入れないし出られないはず…いや、)
そういう体質の者も居ないわけではない。
何より。
(リヴァイはエレンの保護者だ。理由はどうあれ、霊的なものが身近に居れば影響される)
ハンジは廊下の窓を開け、ひらりと外へ身を出す。
「エレン!」
呼ぶと、3人は酷く驚いた様子でハンジを見返してきた。
「ハンジ先生?!」
「こんな非常識な時間に、子どもだけで何やってるんだい?!」
非常識な時間というのはハンジだって同じだが、大人と子ども、教師と生徒という違いがある。
大声で叱られ、目を丸くしていたエレンが強く見返してきた。
「だって! リヴァイさ…リヴァイ先生が帰ってこないんです! 連絡もなくて…」
今までこんなことなかったのに!
眉を下げ俯くエレンは、スマホを握り締めている。
嘘のようには見受けられないし、彼が嘘を付くのが苦手なことは知っていた。
(帰れないのは、私たちの張った結界のせいだろう。でも連絡をしない理由は…?)
もしかしたら、とハンジの脳内で少しの打算が走る。
(エレンが居ると分かれば、矛先が弱まるんじゃ…?)
だめだ、それにしたって危険過ぎる。
ハンジは浮かんだ考えを頭を振ることで散らし、ジャケットの内ポケットから取り出した呪符を1枚、エレンへ押し付けた。
「それ、手放さないようにして早く帰るんだ。ここは危ない」
「でも…!」
「リヴァイなら私が捜しとく。大丈夫、職員室か仮眠室で寝こけてるだけだよ」
不意にエレンの足元にいた犬が、ハンジを睨み上げ唸り始めた。

ガウッ、ガウッ、バァウッ!!

天敵に対するように鋭い声で吠えかけられ、目の前の景色がガラガラと崩れる。
「?!」
景色が唐突に変移し、ハンジは急いで辺りを見回した。
(屋上?!)
この学校は、古くからあるためか敷地が非常に広い。
余所へ赴かずとも体育祭やすべての球技の部活動ができるし、倉庫用途の空き教室だってある。
ゆえに校舎と同じL字型の屋上もだだっ広く、見通しは良い。
またも背筋に悪寒が走り、そちらを振り向いた。
「サービスで運んでやった。感謝しろよ?」
少し離れた屋上の向こうで、リヴァイが笑っている。



わん!
ライナーの吠える声で、エレンはハッと我に返った。
「エレン、早く行こう」
急かすミカサに、当たり前だと返す。
「あそこから入るぞ!」
開いている窓を見つけ、走り出すエレンをミカサが追い掛ける。
それを目で追いつつ、アルミンはライナーへ告げた。
「ライナー、君は裏門側を頼むよ」
小声のそれはエレンに聴こえるわけもなく、ライナーは頷くような素振りを見せてその場から動かない。
「アルミン、早く!」
「今行くよ!」

エレンに手渡されたはずの呪符は、いつの間にか燃え尽き消えていた。


*     *     *


『ハンジさん、全員配置につきました!』
『エルヴィン室長とペトラは、いつもの場所からの援護です!』
インカムの声に是とひと言だけを返し、ハンジは油断なくリヴァイを見据える。
「リヴァイ。あなたは何のために『こっくりさん』を広めたんだい?」
簡単だ、と彼は表情を変えず答えた。
「大事なもんを守るためだ」
彼が大事にしているものについて、心当たりがあるのは1つだけ。
(エレン…?)
けれど守る相手がエレンだとしても、それと『こっくりさん』を繋ぐものが見当たらない。
ややして少し違うな、と呟かれ、ハンジは式札を挟む指先に力を込めた。
再び浮かべられた嘲笑が、塗り変わる。

「何度やっても人間が奪っていきやがるから、他の人間に肩代わりさせる為だ」

憎悪に塗り潰された、色に。
それは薄れて久しいと言われる人の本能を逆撫でし、恐怖ゆえの反抗心を沸き上げた。
「…っ!」
まともにそれを見たハンジはほぼ反射で指先の2枚の式札を飛ばし、素早く印を切る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前、鬼神招来!」
2枚の札が宙で重なり、巨大な何かがリヴァイ目掛けて振り下ろされた。
「ほう…地獄の鬼を喚べるか」
ひらりと躱しフェンスに降り立ったリヴァイは、感心したように喚び出された"モノ"を見上げた。
標的を見失った巨大な鉄棒は、ズゥンと地響きを立てて屋上の床を叩く。
…別の術式が張られているのか、校舎には傷ひとつない。
牛の頭をした人型の化け物は地獄の門番の片割れ、名は『牛頭(ごず)』。
体高5mの図体からは想像できない俊敏性を持っているのだが、繰り出される金棒はリヴァイに掠りもしない。
ハンジはインカムへ向けて指示を出す。
「エルド、オルオ! 1発で良い、当ててくれ!」
『イェッサー!』

指示を受けた2人が潜んでいるのは、学校にもっとも近いマンションの屋上だった。
それぞれ違う位置から、目の前に浮かぶ『鏡』に向けて術具の弓矢を構える。
鏡はペトラの持つ術具『雲外鏡(うんがいきょう)』であり、離れた位置のものを映し、また狙うことが出来る。
ハンジが事前に屋上へ設置していた媒体の鏡が、牛頭の攻撃を躱すリヴァイの姿を大きく映した。
彼の周囲には幾つもの炎が飛んでいる。
「あれは狐火ってやつか?」
「分からん。オルオ、お前は俺の3秒後に射つんだ」
「了解!」
矢のない弓にエルドが指をつがえると、光の筋で矢が現れた。
弓が限界まで引き絞られる。
「五月雨・五光!」
バシュッ! と放たれた矢が鏡の中へ消えた。
放たれたのが1回でも、射られた矢は1本ではない。

トン、とリヴァイが牛頭の頭頂に着地する。
「おい、てめぇ。人間なんぞに従っても、良いことなんて1つもねえぞ?」
だから早く帰れ。
ジャラッ! と珠の転がる音が鳴り、ハンジは牛頭とリヴァイを見上げた。
(数珠?)
黒…というよりは藍色に近い数珠が、じゃらりと牛頭の周囲を覆っている。
「『帰陣』」
リヴァイの一声で数珠が一斉に光り、牛頭の姿が一瞬で掻き消えた。
「なっ?!」
ハンジが『帰した』のではない、リヴァイによって『帰された』のだ。
本来在るべき場所へ。

パリィンッ!

硝子の砕ける音が響いた。
「あ?」
リヴァイが音の方向を見、ハンジもまたそちらへ目を凝らす。
(狐火が減った…?)

「時雨・五光!」
オルオが雲外鏡へ向けて光の矢を放つ。
それは鏡へ呑み込まれ、ハンジとリヴァイの居る屋上よりさらに上空に繋がった『鏡』から降り注ぐ。

パリィンッ!

(また!)
今度は2つ、リヴァイの周囲から狐火が消えた。
『駄目だ、当たってねえぞ!』
『ハンジさん、判りますか?!』
インカムを通してエルドとオルオが問い、ハンジはもう一度指示を出す。
「2人とも、出来る数を一度に射ってくれ!」
これは時間稼ぎだ。
(ミケがここに来るまで、何とか…!)
ゆえに彼女は、リヴァイが嗤ったことに気づけなかった。
彼の周囲で青白い狐火が再び灯る。

パリンッ、パリィンッ!

今度は3回、音が鳴った。
くつくつとした笑い声が上空から漏れ聴こえ、ハンジは堪らず怒鳴った。
「何がおかしいんだい?!」
リヴァイは手近なフェンスへ足を着き、ハンジを見返した。
「x田 x子。xx野 x和。橋x x美。鈴x x広。x山 x吉。高x xx子」
「は?」
彼の口から紡がれたのは、6人の誰かの名前。
愉快で堪らないとばかりに、リヴァイは告げる。


「たった今、てめぇらが 殺 し た 人間の名前だ」


言われた意味を、咄嗟に理解出来るわけがなかった。
「え? なに…?」
殺した? どういう意味だ?
学校全体に結界を張り、一般人は入れないようにした。
物的被害が出ないように、吸収の術も併せた。
裏門近くで出会ったエレンだって、ここには来ていない。
まったく理解出来ていない様子のハンジに、リヴァイは自身を取り巻く数珠を鳴らしてやる。

「この数珠はな、『こっくりさん』を行った人間の魂を掴むんだ。どういう意味か、てめぇらなら解るだろう?」

そういやさっき、『呪痕(じゅこん)』のある人間を追跡したっつってたなぁ?
その中に、今言った名前のヤツが居るよなぁ?

『翼の組織』が呪術用に使用する和室で、ペトラは噛まぬ歯の根を必死で止めようとしていた。
PCに表示させたリストが、無常にも真実を伝えてくる。
「い、います、エルヴィン室長…。今の6人、確かに…!!」
鳥瞰の術式でハンジたちの様子を見守っていたエルヴィンが、ぐっと歯を噛み締める。
「…いいや、これは予想していた範疇のはずだ。今までの鎮魂を、この先の新たな被害を生まない為にも!」
何より、リヴァイは『数珠』と言った。
「数珠ならば108だ。そして、すべての数珠に魂が掴まれているとは限らない」
エルヴィンの通信に、誰もがぐっと拳を握り締めた。
(そうだ。私たちは)
(そうやってこの組織で戦ってきたんだ)
(怨みなんて幾らでも受けてきた)
(全部背負うと決めている!)
エルドとオルオが再び矢をつがえ、ペトラは雲外鏡で再度リヴァイの姿を捉える。
結界の強度維持に努めているグンタもまた、仲間たちと思いは同じだった。
『ハンジ、もう一度だ!』
エルヴィンの声に心中で頷き、ハンジもまた新たな札を構える。
…そこへ。
「ああ、そうだ」
くぅるりと、リヴァイの右の指先が小さな円を描いた。
宙を切り取った円が瞬時に量産され、何事かと目を見開く。

「コイツを返すぞ」

聴こえた刹那。
「…っ?!!」
「が、はっ…!」
リヴァイに認識されていたハンジ、エルド、オルオ、そしてペトラの4人の喉を、光の矢が音もなく貫いた。

傷はない。
血の1滴さえ出ていない。
「ぐっ、う…!」
なのに喉が熱い。
灼けてしまう。
「ペトラ!」
仰向けに倒れ喉を抑えるペトラに、エルヴィンは素早く解呪の印を結ぶ。
「声が、出ないのか…?」
苦悶の表情で口を開閉させる彼女を見れば、解呪が効いていないことが分かる。
ペトラの意識が『鏡』から途切れたことで、雲外鏡は消えてしまった。
(呪いでも攻撃でもない。これはエルドとオルオの…!)
同じく苦しみのたうち回る2人が先ほど放った矢を、文字通り反(かえ)されたのだ。

膝をつき灼けつく喉を抑えるハンジを見下ろして、リヴァイは自身の視界に入ったものへ舌打ちを零した。
「チッ、出ちまったか」
彼の後ろにぶわりと広がる、白金に輝く何本もの長い尾。
頭部にも同じ美しい毛並みの尖った耳が生え、彼が人ではないことを如実に伝える。
尾は9本。

「白面金毛九尾ノ狐…!」

エルヴィンの口から、絞り出すようにその名が落ちる。

古来より、長きを生きる狐は方方へ名を遺してきた。
あるときは人を導く御使いとして、あるときは國を滅ぼす最上位の魔物として。
(國を滅ぼした傾国の美女、國を救った大陰陽師の母)
それらと同じ種類であり、かつ『神』として人間に祀られている『狐』。
リヴァイが顔を上げた。
「…新手か」
彼は特に結界を張っていない。
ゆえに他の介入は予想済みで、彼にとってはそれくらい大したことでもなかった。

「大物というより、一番遭いたくなかった種類じゃないか」
「すまん、遅れた」
慣れ親しんだ盟友の声に、ハンジはようやくホッと胸を撫で下ろした。
あらかじめ準備していた梵字の陣を展開し、ナナバが手持ちの小太刀で剣印を切る。
「水霊開放、四魂清浄、急々如律令」
喉を灼かれていたハンジたちに、ザバァッ! と水が浴びせられた。
途端、喉が息を吹き返す。
「ゲホッ、けほっ! 助かったよ、ナナバ」
「礼は後で良いよ。それよりアイツ、何もしてこないじゃないか」
フェンスの上に立ち、長い尾をふわふわさせてこちらをただ見ているだけ。
話は大体聴こえてたけど、とナナバは眉を寄せる。
「そんだけ余裕ってことか」
「…ならば、その間に捕らえれば良いだけだ」
ミケの構えた槍の先端に法陣が現れ、判を押すように彼の周囲に法陣が連なり円を描く。
円はさらにその円周を拡大し、リヴァイは興味深そうに眺めていた。

「オン・メイギャ・シャニエイ・ソワカ!」

高速の光が法陣を駆け抜け、気づけばリヴァイの目の前に水の竜頭があった。
瞬きの間に、巨大な顎がくわりと開かれる。
「ほう」
周囲の数珠ごとリヴァイを呑もうと、それは疾く閉じられた。

ガキィンッ!

牙と硬い壁のぶつかる音が鳴る。
「水神か。あまり位は高くないようだが」
そこは術者の腕次第か。
焦りの欠片さえ見せぬリヴァイの言動に、焦るのはハンジたちの方だ。
「あいつ…っ、ミケの水竜の攻撃で動きもしない?!」
同じフェンスの上から、1歩だって動いちゃいない。
「ミケ、援護する!」
ハンジが新たに札を取り出したときだった。

「リヴァイさん!!」

バァンッ! と大きな音を立てて、屋上の扉が開いたのは。


*     *     *


目の前の光景に、くらり、とエレンの視界が揺らいだ。

「エレン」

呼んでくれる優しい声は、いつものものだ。
なのに、おかしい。
「悪ぃな。こいつらのせいで帰れなかった」
水で出来た竜がパァンと弾け、飛散する。
「エレン! こっちに来ちゃ駄目だ!」
早く学校から出るんだ! とこちらへ叫んでいるのはハンジで。
知らない大人の人が2人いて。
男の人が槍を振り回す度に巨大な水竜が生まれ、リヴァイに向かって顎を開き襲い掛かっていく。
そのリヴァイが纏う炎と数珠、靡く9つの尾。

ーードクンッ

「エレン」
アルミンが呼んでいる。
心臓の音が大きく響く。

ーードクンッ

「エレン」
ミカサが呼んでいる。
激情が湧き上がり、身体が熱くなる。

ーードクンッ

知っている、この光景を。
すべてが壊される、その恐ろしいほどの虚しさを。
「あ、あ…」
両手で頭を抑える。
ズキズキと痛み、目が霞む。
(なんで、なんで…)
滲む視界の向こう、滝の竜が地響きのような水音と共に双頭へと変化した。
「ミケ!」
「ああ、分かってる!」
ナナバの術式援護を受けた槍が、三ツ又の穂先に形を変える。
ミケは三ツ又の槍を八艘に構え、呪言と共にリヴァイへ穂先を突き上げた。
「オン・メイギャ・シャニエイ・ソワカ!」
白刃が光る。
(なんで『また』?)
脳裏に言葉が閃いた瞬間。
脳に直接突き刺さった痛みに、エレンは絶叫した。


「ああぁぁああっ!!!」


薄雲だけが浮く夜空の下、稲光がすべての視界を奪う。
何もかもを埋める、白。


同じだけ瞬時に収縮し消え去った光、その方角。
そこには一振りの、青銅製であろう剣が虚空に存在した。
天に向かって真っ直ぐに直立し、異様な形の刀身を惜しむことなく晒している。
片刃に3つ、反対側に3つ、枝の如く小さな刃が出ており、まるで刃の先端が7つあるかのよう。
「な、」
「七支刀(ななつさやのたち)…?」
古の、神々へ奉納された神器、そのひとつ。
そして上空にて厳かに存在する剣の真下には、エレンが居た。
ミカサとアルミンは微動だにしない。
「……、し…やる…」
俯くエレンの発した言葉が、微かにハンジたちへ届く。
「エレン…?」
ゆっくりと顔を上げた彼の眼は、遠目に見ても呑まれるほどに輝いていた。
明確にハンジらを見据え、エレンが言の葉を生む。

「駆逐、してやる」

彼から竜巻が昇る。
(違う、竜巻じゃない…!)
あれは『何か』ではなく、彼の内側から迸る『力』の奔流。
「ハンジ! 彼は何者なの?!」
「ただの生徒のはずだよ! でも違うっていうのかい?!」
しかもこの『力』は。
(邪気じゃない、まさか『神気』?!)
エレンの周囲の景色が歪む。


「駆逐してやる! 人間は、一匹残らずーーー!!!」


七支刀が雷光を纏い、ぐるんと回転した。
「ナナバっ!」
間一髪、咄嗟の結界が落ちてきた稲妻を弾く。
しかしピッシャーンッ! と耳を劈く雷鳴が聴覚を奪い、感覚を鈍らせた。
トン、と地を蹴り、エレンが上空へと身を躍らせる。
「?!」
只人では成し得ぬ身のこなし、見上げた姿はすでに『人』ではなかった。

ーーオォーンッ!

狼の遠吠えが、聴こえる。



獲物を喰い千切るように振られた頭(こうべ)が七支刀を振り回し、突風と鎌鼬が襲い来る。
札も武器もズタズタに切り裂かれ(金属製でも!)、身体はフェンスを突き破る勢いで吹っ飛ばされた。
再び宙に直立した七支刀が、為す術の無いハンジたちへ容赦なく雷光を落とす。
「おっと」
『何か』が雷光を和らげ、黒焦げの事態は避けられた。
だが何とか開けた目の前に連なるものを見て、ハンジは目を剥く。
(さっきの数珠…!)
ふわり、と白金の尾が視界に下りた。

フェンスから屋上へ降り立ったリヴァイは、七支刀を掲げる狼へゆっくりと近づく。
…そう、『狼』だ。
月よりなお明るい金色の眼、『エレン』は狼だった。
その体躯は現存するタイリクオオカミ程で、光に艶やかな色を返す体毛は茶褐色。
「嗚呼、エレン。…エレン、大丈夫だ」
砂糖を溶かし込んだ甘い声で名を呼ぶと、リヴァイは凛々しい頭(こうべ)に両手を寄せた。
「二度と同じことはさせねえ。忘却する人間どもには、もう二度と」

人の形を辞めたリヴァイの姿は、美しい白狐となった。



「…あれが、紅葉山の『神』か」
「そうさ。そしてあんたの『翼の組織』、その前身が師と慕った陰陽師の建てた宮。それが紅葉山本殿」
薄っすらと笑みを敷き話すペトラに、エルヴィンはただ拳を握り彼女の雲外鏡を見つめていた。
「もう解るだろう? あの狼が何者か」
ペトラの背後、床の間横の書院には、オフホワイトの体に四肢の先と尻尾の先が焦げ茶の猫が座っている。
蝋燭に照らされ障子に映る猫の影には、尾が2本。
明らかに普段と様子の違うペトラは今、その『猫』の手足だ。

猫が言うとおり、七支刀を操る狼にエルヴィンは心当たりがあった。
(あれは、)
祀られた狼は、この国にはひとつしか存在しない。

「…大口真神(おおくちのまかみ)」

この国がまだ國であった頃。
北部の山脈と原生林を駆けていた食物連鎖の頂点、今は滅んだひとつの種族。
かつては人が、田畑の守り神と崇めた自然の象徴。
ペトラが猫の代わりにくつくつと嗤う。
「滑稽だね! 人間は因果応報を常に忘れる!」



じゃらり、と藍色の数珠が狐の周囲をくるくると回った。
ハンジたちの前には、数珠の代わりとばかりにゆったりと歩く2頭の狼がいる。
1頭は細身ながらがっちりとした体躯をして、真っ黒な眼をした真っ黒な狼だった。
もう1頭は小柄だが、色素が薄いのか薄茶色の毛に青い眼をしている。
(ミカサとアルミン…かな)
エレンが狼に姿を変え七支刀を掲げたとき、在ったはずの2人の姿は狼だった。
藍色の数珠がバラバラの珠になり、その内の1つがハンジとミケ、ナナバの頭上に留まる。

【まあ、向こう100年くらいは保つだろ】

狐が、嗤う。
藍色の珠は、大鴉に睨まれ身動きの取れないエルドとオルオの頭上にも、犬から虎のような姿に変じた獣に引き倒されているグンタの頭上にも現れた。
もちろんエルヴィンとペトラの頭上にも、彼らの縁(えにし)に繋がる者たちにも。
『エレン』が首を大きく逸し、吠えた。

ーーーウォオーーンッ!

応えか、遠い場所から犬ではない遠吠えが複数返った。

ーーーオォーーンッ!

天に切っ先を向けた七支刀が雷槌(いかずち)を帯び、上空には暗雲が瞬く間に広がっていく。
渦を巻き広がる黒雲は台風の目を剣の先に大きく夜空を映しながら、空を覆い尽くした。

そのとき落ちた雷の音は、まるで世の終わりだったと誰かは云う。
鳥瞰の術式を展開していたエルヴィンだけが、『それ』が術であると理解した。

街を…正確には紅葉山を中心に、雷は遠方へ同時に落ちた。
その箇所、10点。
五芒星の内と外を為す交点に落ちた稲妻は、巨大な『結界』の支点だ。
残念ながら、エルヴィンの意識はそこで途切れてしまったが。


*     *     *


役目を終えた七支刀が、すぅっとその姿を消す。
同時に狼の『エレン』も風に溶けるように姿を消して、人の姿となったエレンがぐらりと倒れる。
崩れ落ちる寸前の彼の身体を抱き上げ、人型に戻ったリヴァイは眠ってしまったエレンの額に口づけた。
「これで当分、お前にも人間どもの厄災は降らねえな」
エレンが人に変わると同じく人に戻ったミカサとアルミンは、ほっと息をつく。
「やっと海に行ける」
「うん。あまりにエレンが危険だから、しばらく行けなかった」
意識のないハンジたちの頭上に在る、藍色の数珠。
それはリヴァイが左手をゆぅるりと握れば、開いた蓮の花に姿を変えゆったりと花弁を閉じていった。

パキン!

閉じきった藍色の蓮は硝子細工の音を立て、ハンジたちそれぞれの身体へ吸い込まれる。
「マルコはどこだ?」
「もう来るはずです。あ、来た」
家々の屋根を飛び、ミカサよりやや薄い黒の毛色をした狼が学校までやって来た。
屋上へ足をつけると、その姿は人となる。
「全員に『縛り』は付けたと思うが、後を頼む」
マルコはリヴァイへ頷いた。
「はい。矢を放った2人はベルトルトが、鏡映しはアニが、結界張りはライナーが抑えました」
「そうか。報告は後始末がすべて終わってからで良い」
「承知しました」
マルコが『後始末』をするのは、彼が特異な『獏(バク)』であり、夢と同様に記憶を『喰える』からだ。
「僕とミカサもマルコを手伝います」
「あなたは早く、エレンを連れて行って」
「ああ」
リヴァイの周りの空間がバキンとひび割れる。

移動したリヴァイとエレンを見送り、アルミンは空を見上げた。
「…綺麗になったね」
もくもくと学校の上空に渦巻いていた、人間の負の感情が凝固された黒雲。
今やその欠片もなく、清々しい空気が学校を包んでいた。
マルコが苦笑する。
「そりゃあ…リヴァイさんはともかく、エレンが七支刀を振り回したからね」
彼らは曲がりなりにも『神』であり、数珠も剣も天照大御神、あるいは月読尊から賜った神器だ。
『神』である者が神器を振り回せば、当然邪気は祓われる。
「ライナーはまだ下かな?」
「今登ってきた」
ミカサの声に屋上を見渡すと、バサリと音がして大きな体躯の獣が屋上へ舞い降りた。
顔つきは唐獅子に似て、身体はどっしりとした青白い毛色の虎、背にはどこか醜い鳥の翼がある。
それは隣国で『窮奇』と呼ばれた、凶(まが)を撒き散らす魔物だった。
「ライナー、いつもみたいに頼むよ」
一声唸った『窮奇』…ライナーは、空へ向けて大きな口を開く。
するとぶわり、と黒い靄が吐き出され、それはどんどんと膨張して黒雲となった。

黒雲、それは『凶』そのものだ。

「うん。こんなものかな」
リヴァイの死返珠は、今回のことで十近くの魂を消費してしまった。
だがこの黒雲を媒体に『こっくりさん』が行われれば、すぐに補充できるだろう。
「この人たちはどこへ戻せば良いのかな?」
気を失った人間たちを見たマルコの問いに、アルミンはポンと手を叩く。
「アニが居るところが本拠じゃなかったっけ」
「私とライナーも居る。ので、力仕事は心配ない」
「うん。ありがとう、ミカサ」
ミカサへ礼を言い、マルコは自分の仕事へ意識を戻した。



「エレン!」

ガシャン! と割れた音がしたそこは、紅葉山本殿の前。
やきもきしながら待っていたのだろう、ジャンが境内を駆けて来た。
「大丈夫だ。反動で寝ているだけだからな」
リヴァイが説明してやると、彼は大きく溜め息を吐く。
「なら良かったです。コイツがまともに『力』使うと、マジでここ壊れるんで」
どうやら違う心配らしい。
「…『次』までに、ここの補修に入るか」
「そうして貰えるとありがたいっすね」
ジャンと言葉を交わし、リヴァイは本殿より上にある屋敷へ登った。



未だ夜半の刻限、街灯のほとんどない山中は闇に包まれている。
しかしその中に在ってなお、燐光を帯び光っているものがここには在った。
戦友と表現するに相応しい『ソレ』に、リヴァイは笑みを浮かべる。

「お前も、ありがとよ」

大きな銀杏の樹は、燐光に淡く光る葉をサワサワと揺らした。
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2015.7.1(むすびきょうむのこぼれぎん)

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