黄金絡繰夢紡

(鬼と討伐師)




「ねえエレン。君、最近何か仕出かした?」
「してねぇよ。何だよ? 急に」
金の眼をした鬼の彼は、名を呼ばれるなり濡れ衣を着せられ機嫌を損ねた。
彼が機嫌を損ねたことを見てとった彼の親友は、ごめんと謝り理由を告げる。
「最近、君を捜している人間が居るらしいんだ。それも祓い師…じゃなかった、討伐師の」
「はあ?」
何だよそれ、めんどくせぇ。
げんなりとした様子を隠しもしない彼に、金の髪をした彼の親友は苦笑した。
「エレンは人間に肩入れしてるわけじゃないし、別の一族に逆恨みされてるでもないからね。
それは僕もよく知ってるよ」
しかし、彼よりも物知りで広く物事を見通せる親友が、わざわざ進言してくれているのだ。
何処か知らぬところで恨みを買っているのかもしれない。
彼は一拍置いて頷いた。
「分かった。人里入るときは気を付ける」
「うん」



"討伐師"は、妖異を専門に相手とする人間の職業である。
広義では"祓い師"に分類されるが、名の示す通り妖異を討伐することのみを主目的とする。
ゆえに討伐師は、妖異に対抗し得る強い『力』を持つ者しか就くことが出来ない。
大抵は神社やそれに連なる組織に属している者が、祓い師と共に討伐師を兼ねている。
が、祓い師になれる者は妖異にとり"敵"であり"餌"であり、また権力者の体(てい)の良い道具であった。
態々そんなところへ近づくなど、冗談じゃない。
「だから闇でやってるってか?」
井戸に棲み憑いた大蛇を、枝を落とすように両断にしてくれたかつての少年へ、闇医者はにんまりと笑う。
「だってさあ、腹立つじゃない? 彼奴ら」
散々貶しておいて上から目線でモノ頼むとか、ちゃんちゃら可笑しいよねえ!
この闇医者はよく笑う。
その笑いが癪に障ることはままあるが、思考は理解出来なくもない。
少年の時分に目の前の闇医者に救われた青年は、出された茶に手を付けぬまま口火を切った。

「『井戸に棲み憑いてるものを両断出来るようになったら』…だったな」

6年前の約束を、闇医者もちゃあんと覚えていた。
「うん。その通りさ」
約束通り、私の知る"金の眼をした男"について、話そうか。

あれは何時のことだろうね。
気味の悪い地響きが聴こえて、黄昏時だってのに、好奇心旺盛な私は地響きを探しに家を飛び出した。
その地響きってさ、知っての通り普通じゃあ聞こえないんだけどさ。
君なら聴こえ…、あ、もう知ってるか、ごめんごめん。
当時の私にはきちんと『見え』なかったんだけど、山の中腹の谷口でさ、凄いのなんの。
黒い瘴気がぶわぁー! っと立ち込めていて、そしたら白い瘴気がぶわーっ! って昇って来て。
「…白?」
「そ、白かったんだよ。瘴気と言うよりは、蒸気っぽかったけど」
話を続けようか。
何となく、彼は"黄泉軍(ヨモツイクサ)"の血が入っているんじゃないかな〜と思うよ。
周りはもんの凄い数の雑鬼と、あと図体でかい鬼が何体か居て、彼を喰おうとしてたんだろう。
そしたらまた、稲妻みたいな光と轟音が響いてね。
私は結構吹っ飛ばされて…子どもだったから。
で、やっぱり戻った私はまた谷口を覗き込んだんだけど。
「いやあ、凄かった。…私"凄い"しか言ってないけど、とにかくね」
グシャア! って潰された雑鬼と、握り潰されたり叩き潰されてる鬼、もう死屍累々ってあのことだよ。
彼は、ほとんど同じ位置に居たんだけどねえ。

「彼の右手がね、巨大だったんだ。どれくらいかって言うと、」

掌だけでこの家を叩き潰せるくらいに!
青年は表情1つ変えない。
「だから"黄泉軍(ヨモツイクサ)"だと?」
「そうさ。それにあの一族はみんな、容姿の何処かが金色だって言うし」
「…エルヴィンが『鬼』だと言ってるようなもんだぞ、それは」
「あっははは、あながち間違いじゃあないでしょ!」
闇医者は青年の師である男の評価を、戸惑いなく一笑に評する。
「それから、」
もう話は終わりかと思っていれば、闇医者は意味ありげにニヤァと口角を吊り上げた。

「彼がね、私を『見た』んだよ」

濛々と上がる瘴気と蒸気、土煙。
その中に立つ彼は、巨大な右手をそのままに闇医者を見上げたのだ。
「私はあの金色の眼に射竦められて、動けなかった。そしたらね、」
彼は口元に笑みを浮かべ、巨大化していない左の手で。
「秘密、って。悪戯っぽく笑った」
立てた人差し指で、自らの唇に触れる。
口を噤むことを示す動作をなぞってみせた闇医者は、青年の反応をつぶさに観察した後でパッと両手を広げた。
「私の話は、これでオシマイ!」

そうか、彼奴は"鬼"か。
「容姿は?」
「15,6の少年、って感じだったね。鬼なら今も同じじゃないかな」
「見れば判るか?」
「そりゃあ、変わってなければ。え、何か心当たりあるの?」
「ああ」
「うっそ、それホント?! 何処で?!」
「都だ」
興奮気味であった闇医者が、動作をピタリと止める。
「…それ、本当?」
うえぇ、都かあ…。
闇医者はお喋りな性格に似合わず、人間が好きではないと云う。
妖異や"霊"を相手にする方がよっぽど実になる、とぼやくのも珍しくはない。
すでに冷めた茶を飲み干し、青年は立ち上がる。
「来るかどうかはてめえ次第だな。…ああ、この間エルヴィンが『鴆(ちん)』を捕らえてたぞ」
「えっ?!」
師である男の名…闇医者にとっては友人…を出し、さらに餌をチラつかせてやる。
続く質問に答えてやる気はまったく無く、青年は闇医者の家を辞した。
「えっ、ちょっ、待ってよリヴァイ! 『鴆』ってそれ偽物じゃなくて?!!」
後ろから名を呼ばれたって、答える義理などすでに無い。
此処から都まで、闇医者の足なら5日程。
猫より多い好奇心で闇医者がやって来ることを、青年は疑いもしていない。



呼び声、掛け声、喧騒、雑踏。
月末の物入りに普段より増して人と熱気のある商店通り、翠の眼をした彼はふらふらと店を冷やかし歩く。
「よぉ坊っちゃん! 買ってかねえかい?」
「ははっ、ワリィ。今日は間に合ってんだ!」
時折掛かる声をのらりくらり、これはこれで面白い。
途中の屋台で氷砂糖を買い、陽射しに火照った身体を内側から冷ます。
「……」
うわぁ、めんどくせぇ。
彼は人混みに眉を顰めるフリをして、まったく違う理由で眉を寄せた。

『視』られている。
何処からかは掴ませないが、2日以上の間を置かずに"誰か"が"彼"を、じぃっと視ている。
今もまた。

「ねえ、君!」
「へっ?!」
不意に肩を叩かれ声を掛けられ、彼は純粋に驚き肩を跳ね上げた。
「あ、ごめんね驚かせて!」
振り返れば眼鏡を掛けた黒髪の、おそらくは女性であろう人物である。
「えっと…?」
彼が首を傾げてみせれば、女性はへらりと眉を下げた。
「あー…ごめんねぇ。人違いだった」
私の師匠(せんせい)のお子さんが、君の後ろ姿そっくりだったんだ。
「…そうですか。すみません、人違いで」
「いやいや、謝るのはこっちだからね! あ、ところで」
薬師(くすし)のxxx先生の家、どこか知ってるかい?
ああ、この通りを南に折れて辻3つ先ですよ。
おっ、ありがと! 何回か聞きながら来たんだけど、ここ広いから駄目だわ〜。

「てめえ、ハンジ。人に案内頼んでおいて消えるたあ、どういう了見だ?」

あぁ?
ぐわし! と云う音が聴こえそうな形で、女性の頭が誰かに後ろから掴まれた。
「いたいいたいいたい!」
酷いよリヴァイ! そもそも君が店で時間を掛けるからじゃないか!
俺はちょっと待てと言ったはずだが、てめえは餓鬼か?
女性の後ろから現れた男は女性よりも彼よりも背が低かったが、中々どうして、怪力で目付きも悪かった。
(すっげぇ三白眼…)
氷砂糖をぽいと口内へ放り込み、彼は目の前の2人の漫才を見物する。
…と、鋭い三白眼が彼へ向けられた。
数秒じっと見つめられ、彼はやはり首を傾げてみせる。
三白眼の男が、ようやく女性の頭を離した。
「悪ぃな。この奇行種が世話を掛けた」
「きこうしゅ? いえ、人違いだったみたいなので」
じゃあ、俺はこれで。
「ああ」
2人の大人に背を向けて、彼は再び通りを歩き出す。
橋向こうの土手へ曲がってから振り返れば、あちらの姿はもう見えない。
「……」
彼は最後の氷砂糖を飲み込んで、笹皿を丁寧に折り畳んだ。



通りを南に折れ、辻を1つ超える。
「おい、ハンジ」
青年が闇医者を呼べば前を歩く闇医者は足を止め、ゆっくりと振り返った。
口元には、気味が悪いほどの笑みを浮かべて。
「間違いない…間違いないよ! 眼の色は違うけど、絶対にそうだよ!!」
また会えるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう!
上機嫌にも程がある闇医者を殴って黙らせないくらいには、青年も気分が良かった。
(…そうか。お前があのときの)
もうひとつ、辻を過ぎる。
「ハンジ。てめえならどうやる?」
「うーん? 大方君と同じだろうね。ただ、思ってたより面倒かも」
「…奇遇だな。俺も同意見だ」
だってさあ、と言った闇医者は、通りの先に人影を見つけ手を振る。
「あっ、やっほーエルヴィン!」
応えて手を上げた向こうの人影は、闇医者の友人であり青年の師である男であった。
「やあ、ハンジ。久し振りだね」
「なになに、私に会いたくてお出迎えしてくれたわけ?」
「…態とらしい台詞吐いてんじゃねえ、クソハンジ。気色悪ぃ」
3人は3つ目の辻を折れ、薬師の看板を掲げる店の暖簾を潜る。

「お帰りなさいませ」
人の形をした4つの『式』が3人を出迎え、頭を下げた。
「首尾は?」
「上々」
「追跡は?」
「滞り無く」
「仕込みは?」
「既に」
「決行は?」
「何時でも」
青年の問いに4つの式は次々と答え、すぃと姿を隠す。
「ねえねえ、場所は?」
上がり框に腰を下ろし草履を脱いで、闇医者は祓い師の男を見上げた。
「三条北の無縁寺さ」
「へえぇ、あなたも本気出しちゃう?」
にまりと笑った闇医者に、祓い師の男は軽く肩を竦めて見せる。
「あの"鬼"の近くに、珍しい"鬼"が他にも居るようだからね」
履物を引っ掛け、闇医者はくるりと半身で振り返った。
「さあエルヴィン、早く君の捕らえた『鴆』を見せておくれよ!」
「…この妖異狂が」
心底嫌そうに呟く青年に、クククと含み笑いをしてみせる。
「鬼に一途なリヴァイに言われたくないね!」
「てめえ、削がれてえか?」
「おお怖い怖い! 遠慮しとくよ!」
「こら、ハンジ。リヴァイを揶揄うのは止めなさい」

青年は框奥の座敷を通り過ぎ、先にある中庭に面する縁側へ腰を下ろした。
さらに奥、強力な結界の張られた奥座敷から、闇医者の興奮混じりの奇声が聞こえる。
これからしばらく喧しいだろうが、我慢出来るだけの見返りは有る。
腰の両側に挿していた業物を鞘から抜き、懐紙を取り出すと手入れを始めた。
(…ようやくだ)
青年が討伐師になったのは、あの金色をもう一度見る為だ。
ーーーあの金色を、手に入れる為だ。
余りに強い執着心、一方で少年の時分であった青年が、唯ひとつ抱いた欲。
(仕込みは終わった。後は…)
掛かるのを、待てば良い。



氷砂糖を包んでいた笹が、ひらひらと揺れる。
「…やっぱり、厄介なことになったね」
金の髪をした彼の親友は、やはりというか苦笑した。
折り目の付いた笹を元のように伸ばしながら、彼はムッと頬を膨らませる。
「俺の所為じゃねーし」
「うん、エレンの所為ではないよ」
彼の親友は彼から笹の葉を掠め取ると、折り目を丁寧に伸ばした。
ピンと筋の張った青笹を口元に、彼の親友は物憂げに息を吐く。

「面倒なのは、何時だって人間だ」

ふっと吐き掛けられた息に、笹が幾筋にも分かれた鋭い刃物へ変じバラリと散らばる。
緑の風刃は八方へ散り、"何か"を四方で切り裂いた。
と同時に、別の鋭い風切り音が上空から降り注ぐ。
八方から戻った笹の刃物は彼らの上空へ舞い上がり、また"何か"を切り裂き紙片がひらひらと舞った。
無残に裂かれたそれ目掛けて、なおも"何か"が飛来する。
「アルミン!」
彼は咄嗟に親友の前へ出て、己の右手に噛み付いた。

ドォン! と響いた音と多量に沸き上がった蒸気に、闇医者が興奮隠さず叫び声を上げる。
「うっひゃああああ! すっげえええええ!!」
役所からの認可を得た上での立ち回り、どれだけ騒ぎ立てても文句は無い。
蒸気の向こうに見える影は、巨大な手と腕に違いなかった。
「…おっと、これは予想外だな」
無数の矢を瞬時に放った祓い師の男は、目指す状況を覆した光景に思わず笑う。
巨大な手は狙った金の髪の鬼を隠し、放った矢もすべて巨大な手に突き立っていた。
「だがまあ、私はついでだったからな」
とうに隣の気配は飛んでいる。

先のものよりは低く、けれど上からの殺気に彼は舌打ち声を荒らげる。
もう、四の五の言っている暇はない。

「ミカサ!!」

両の手に握る業物を、加減など無く振り下ろす。
(獲った…!)
しかし青年の刃は、目的を果たされること無く。
とんでもない金属の鳴音で目前、『黒』によって塞き止められた。

「貴様、エレンに何をしようとした?」

剣撃の重さに、足元がビシリとひび割れる。
不意に現れた『黒』はさらに脚へ力を込め、益々割れる石畳に構うこと無く両の刃を圧し弾いた。
吹っ飛ばされた青年は宙でくるりと一回転、落ちること無く着地する。
「チッ、新手か」
ゆらりと青年の前に立ち塞がった『黒』は、女の形をしていた。
青年と同じく2つの業物を手に、大多数の討伐師が腰を抜かす威圧で立っている。
「…邪魔すんじゃねえ」
一声の元に地を蹴り、目指すは金眼の鬼。
だがまたしても、眼前には黒の女の刃が在る。

「人間風情が、エレンに近づくな」

閃光と見紛う斬撃が、両側から襲い来た。
「っ、駄目だリヴァイ!」
『黒』の正体にようやく思い当たった闇医者は、叫ぶと同時に自身の式を青年に向けて放つ。
直後に巨大な壁となったヒトガタが、青年を守りズタズタに引き裂かれた。
「チッ!」
青年は黒の女から飛び退き、残る3体の式も下がらせる。
使い物にならなくなった式に何かを叫ぶ闇医者をひと蹴り、意識を向けさせた。
「ハンジ、あの女は何だ?」
助けてあげたのに酷いぃ、と一頻り嘆き、闇医者は下がった眼鏡を押し上げる。
「…彼女は『羅刹女』だ。幾ら君でも勝てないよ」

親友がこの場から消えたことを確認し、彼は再度声を張り上げた。
「ミカサ! 斬れ!」
黒の女は彼の声を正確に判じ、彼に歩み寄る。
「斬ったらすぐに逃げて。結界はもう無い」
彼は頷く。
黒の女もまた頷きを返し、右手の刃を振り上げた。

「?!」
多量の蒸気が迫り、青年たちは顔を庇う。
向こう側へ抜けて収まった熱気から顔を上げると、有ったのは今しも融けて消えようとしている右腕だけ。
「えっ、腕だけ?!」
走り寄った闇医者が、巨大な腕の状態を確認する。
幾つも刺さった矢は祓い師の男のもので間違いなく、刺さる箇所から黒く変じているのは塗られた鴆毒の効果。
「まるで蜥蜴の尻尾切りだ!」
巨大な腕に触れてはあっちぃ! と悲鳴を立てる闇医者は、酷く愉しげだ。
「ねえエルヴィン。貴方が狙っていたのは、もしかして"隠形鬼"かい?」
「ああ。見失ってしまったから、もう追えないね」
残念そうな祓い師の男は、寺の門を見つめる青年に声を投げる。
「掛かったかい?」
一拍置いて、青年の口元には残忍な笑みが浮かんだ。
「あぁ。上手いこと首に掛かった」
まだ遠くねえ。
抜いた業物を仕舞い、青年は寺を出て行く。
もはや小さな蒸気となった腕を見送った闇医者が、祓い師の男の隣で彼の姿をも見送る。
「あの様子だと、今日は逃しそうだよね」
やだやだ、あんなしつこいのに目ぇ付けられて、可哀想!
嘯く闇医者に、祓い師の男は穏やかに云う。
「我々は先に帰ろうか。式も作り直さなければ」

都の夜は、まだ深い。

金の眼をした彼は、賤民の住む見窄らしい街作りの中を走った。
(くっそ、何で人間相手に!)
素早く目線を走らせ、角を2つ曲がる。
右腕の切り口を抑えていた手を離せば、もう血と蒸気は止まっていた。
(あった!)
目指したのは荼毘所(だびじ)。
腐りかけたものしか無かろうが、この際文句は噤むしかない。
火葬を待つ棺部屋の鍵は、開いている。
腐臭に顔を顰めながら、彼はどうにか腐っていない死体を見つけ出した。

死体の右腕を力任せにもぎ取り、自身の右腕の切り口へ押し付ける。
その状態で、予め歯に引っ掛けていた女郎蜘蛛の糸を自身の肉と死体の肉にひと刺し通す。
頃合いの長さで糸を切れば、腕は押さえていなくともくっついた。
もちろん、ここで余計に動かせば落ちてしまう。

荼毘所を出た彼は、即座に異変を察知した。
繋げたばかりの腕を押さえて納骨堂の柱影へ飛び込めば、寺で見た閃撃が荼毘所の前を横切った。
(なっ?!)
誰にも視られていない。
だというに、空飛ぶ式から飛び降りた三白眼の男が、恐いような笑みで彼へ歩み寄ってくる。
「間抜け面だな。俺がてめえを見つけたのがそんなに信じられねえか?」
あの刀だけは、食らっては不味い。
不味いと思うのと同じだけ、彼の内側で沸々と怒りが沸き上がる。
「…討伐師の世話になるような記憶はねーんだけど」
「そうだな。てめえみてーな名のある鬼退治は、ここ数年訊かねえな」
「だったら、何が目的だ?」
トン、と青年が右足で地面を蹴った。
幸いなことに彼の経験則は非常に豊かで、消えた姿の意味するところを先に身体が察する。
(こいつ、疾い…!)
一瞬前に彼が居た柱影には、青年の姿がある。
そこでキラリ、と彼の視界の端で何かが煌めいた。
「…?」
まるで糸のような"ソレ"は彼の首辺りから伸び、その先に。
驚愕した彼の目前に、今度こそ青年は立った。
「逃げらんねえよ。この"糸"がある限り、てめえは俺から逃げられねえ」
青年の左手人差し指に絡まる糸は、するすると自在に伸びては縮み、彼の首と結ばれている。
「俺の目的は、てめえの討伐じゃねえ」
伸びてくる指先に、彼は瞠目した。

「俺はてめえが欲しい」

ゆらり、と水に溶ける墨のように、青年が触れようとした彼の姿が消えた。
その様は、水墨画で描かれた霧の如く。
糸の先を追えば少し先で、金色が苛烈な光を灯して青年を見据えていた。
「…調子乗ってんじゃねえよ、人間」
過去、死体の転がる間から見上げた、小判よりも美しく輝く黄金色。
それが初めて、青年を『視た』。
青年の身の内から煮え立つような、滾るような歓びが湧き上がる。
「『人間』じゃねえ。リヴァイだ」
「は、人間を人間と言って何の不都合がある?」
忌々しげに吐いた彼は己の背後を確かめ、飛ぶ。

「俺は俺だけのものだ」

"糸"は続く、彼に続く道を。
青年は口端を歪め、愉快で堪らないとばかりに嘲笑った。
「そう来ねえとなあ? 『エレン』」
もう、逃げられねえよ。



「これ、"釈迦の蜘蛛糸"だね」
「大罪人の唯ひとつの善行に降ろされた、ってアレか?」
「そう。女郎蜘蛛の糸より始末が悪い…。当の釈迦にしか切れないよ」
親友に首に絡まる糸を見て貰った彼は、内から憎しみが沸き上がる様を覚えた。
「あの人間…」
どうしてくれようと唇を噛み締める彼を見て、彼の親友もまた、怒りで景色が赤くなったような錯覚を覚える。
「エレン。僕も…何か良い案が無いか考えるよ」
「ああ、頼む。人間の10年も経てば飽きるだろうけど、ムカつく」
「ミカサに頼んで始末して貰う?」
「馬鹿、あいつに殺生なんてさせられるか」
「…喜んでやると思うけど」
そういう問題じゃねえよ、と言い置いて、彼は行ってしまった。
彼の親友もその場で姿を隠し、移動はせずにじっと半刻。
馬を連れた祓い師が2人、山道を登って来た。
「チッ、また遠くなりやがった」
「凄い逃げ足だねえ! でもあの腕の大きさから推測すると、元の姿はもっとでっかいよ!」
うわああ、元の鬼の姿も見てみたい!
ふた振りの刀を挿した討伐師、随分と丈夫そうなヒトガタを札に隠す祓い師。
(エレンの自由を奪った小奴らを、どうしてやろう?)
彼の親友は隠形したまま2人をやり過ごし、死よりも堪える復讐を愉しげに考え始めた。



*     *     *



掴めたはずの腕は、何十と繰り返したように水に溶ける墨と消えた。
ゆら、と墨煙と化した腕を舌打つ間に、彼の身体は青年の手の届かぬ位置へと離れている。
「チッ、待ちやがれ! エレン!」
「人間に渡すもんなんて何もねーよ」
何時からか、いつまで経っても彼を捕らえられずに焦る青年を、彼は愉しげに笑い見るようになった。
「まあ、精々頑張れよ。人間」
一体何度逃したか、焦燥を抱くくらいには逃げられている。
あと一歩、あと一歩が届かない。
どうすれば掴める?
「…チッ、何の用だ? エルヴィン」
祓い師の男の式が青年の肩に舞い降り、翼を折り畳んだ。

曰く、格の高い妖異を狙って妖異が集まっていると。
場所は都に程近い北の山脈。
鬼門としてもっとも忌避される北の北、妖異が現れる方角と云われ久しいその地。
都では昼間でも妖異共の瘴気が寄せて、既に流行り病が蔓延っていると云う。
「チッ、仕方ねえな…」
またも舌打ち、青年は式の背に跨った。
何故だか人差し指の糸が伸びもせず縮みもしないことに、青年が注意を払うことはなく。



果たして、都は酷い有様だ。
祓い師でなくとも視認できる瘴気が、空を覆っている。
「リヴァイ! こっちこっち!」
先に到着していたらしい闇医者が青年を呼び、行けば祓い師の男の姿も有った。
「状況は?」
「近隣の神社も総出だが、半数を結界の維持に充ててこの有り様だよ」
これではまるで、妖異が態と喚び寄せられているようだ。
「…態とだろうが何だろうが、何とかしねえと不味いんだろうが」
「ああ。補給路が整い次第、討伐師で陣を組み山脈へ向かう」
「判った」

北の山脈は、地獄の蓋が開いたのかという風情。
濃い瘴気に意識を失う祓い師が続出し、討伐師の中にも足元が覚束ず登山口で待機となる者が増えた。
深まる森の奥で、何かが天に向かって稲光を上げる。
「散れ!」
咄嗟の本能で場を離れた討伐師たちは、その先にまさしく『地獄』を視た。
「う、わ…! ちょっ、アレ本物の"黄泉軍(ヨモツイクサ)"じゃ?!」
鋭い峡谷に、見上げるよりも巨大な身体の女が居る。
押し寄せる雑鬼悪鬼を蹴散らし潰し、その度に瘴気が舞い上がり山を昇ってくる。
これが人界の光景かと、誰かが呆然と言った。
ピィヤァァーーーッ! という金切り声にハッと顔を上げると、身体が青に発光した鳥がこちらを見下ろし停まっている。
「青鷺火(アオサギノヒ)か?」
「チッ、今ので気付かれた!」
雑鬼悪鬼がこちらへも押し寄せ、誰かが叫ぶ。
「これ以上都に近づけるな! 瘴気で都が死に絶えてしまう!」
応と云うなら、屠るのみ。
討伐師たちは各々刃を奮い、その名の示す通り妖異の討伐を開始した。

じわり、じわりと気勢も気力も奪われゆく。
見下ろした谷底からは女の黄泉軍の姿が消え、代わりに何時現れたのか、首切れ馬が雑鬼を蹴散らしている。
(これはどういう状況だ…?)
青年が流れ落ちる汗を拭ったとき、あらぬ方角から悲鳴が聞こえた。
ドォン! と何処かで聞いた轟音がすぐ近くで鳴り、ぎょっとして見上げたそこには。
「さっきの黄泉軍…?!」
「えぇええ?! ちょっ、どこから現れたのさっ?!!」
闇医者が歓喜と恐怖を等しく交えた悲鳴で叫ぶ。
蛆蟲のように湧き出る雑鬼との戦闘で消耗した討伐師たちへ、黄泉軍の女が脚を振り上げた。
「逃げろ!!」
叫びも虚しく、肉の潰れる音がそこかしこで上がる。
青年と闇医者は衝撃に吹っ飛ばされ、辛うじて岩肌の樹木を掴み難を逃れた。
…が。
またもドォン! と音が轟き、その余波で青年の掴んでいた樹木が根刮ぎ崩れて谷底へ。
「っ、リヴァイ!!」
真っ逆さまに落ちながら、青年は指笛で式を呼ぶ。
もちろん式は主の危機に真っ先に駆け付けたが、巨大な手に薙ぎ払われ薄い紙切れに戻った。
2つ目、3つ目と式が潰される。
落ちながら何が起こっているのか判らぬ青年に向けて、式を潰した巨大な腕が伸びてきた。
さっきの黄泉軍の女の腕では、ない。
「ぐっ、ああぁぁああああ!!!」
握り潰された身体は軋み、折れ、青年からあらゆる力を奪い去った。
余りの痛みに、青年が意識さえ奪われる刹那。

黄泉軍の男の眼が金色であったような、そんな気がして幕は呆気無く閉じた。



妖異が暴れに暴れた谷は、元の姿も分からない。
青鷺火を左腕に停め、彼の親友はクスリと笑って振り返る。
「ありがとう、アニ。助かったよ」
彼と同じ、黄泉軍の血を引く彼女は素気無い。
「別に。都の祓い師共には、恨み辛みがたんまり有ったからね」
エレンの敵は、まだ生きているようだけど?
不満気に問い返した彼女に、彼の親友はまた笑う。
「本命はエレンが連れて行ったよ。それ以外はミカサが始末するから大丈夫」
「そう」
偶には里に戻ってこいって言っといて。
彼への言伝を託して、彼女はさっさと山を降りて行った。



*     *     *



ーーー何処か、遠くから雨漏りの音が聴こえる。
縛り付けられたように身体は動かず、思考は深い闇に囚われ動かない。
少し醒めた意識が問い掛ける。
(俺は、どうした?)
「目ぇ開けるのも動くのも、当分は無理だって。しばらく寝てろ」
答えた耳鳴りの通り、意識を閉ざした。



ーーー何処からか、雨漏りの音が聴こえる。
散り散りになった思考が、何処にも繋がらない。
腕が、脚が、ぎしぎしと引き攣れたような痛みを上げている。
(俺は、どうした?)
灼けつく喉に冷たい水が流れ込み、意識もまた押し流された。



ーーーピチョン、と雨漏りの音が聴こえる。
「ん〜、まだ上手いこと馴染まねえな…」
触覚が僅かだけ働き、肩の付け根に何かが触れているような気がした。
「…にしても、すっげぇ回復力。まあ、ミカサの剣受けて普通に立ってたしな」
心地良い声が意識を攫う。
(俺は、どうした?)
誰の声かは、判らぬままだった。



開いた眼(まなこ)に映ったのは、どこか青みを帯びた岩壁。
「……」
洞窟か、それに似た場所。
カツンと響いた音の方へ目だけを向けて、青年は見えた姿に驚く。
「えっ、もう起きたのかよ? マジで化けもんだな…」
まあ、まだ起き上がるのは無理だろうけど。
「まだ寝てろ。身体の調整も残ってるからな」
捕らえたくて仕方がなかった、金の眼をした鬼が其処に。
視界を覆うように片手を置かれ、掴むことの出来なかった手が己に触れていることに歓喜した。



次に目を覚ましたとき、青年は腕が動かせることに気がついた。
余りにも動かさずにいてバキバキと音が聞こえそうであったが、何とか折れること無く動く。
「両腕とも動くぞ。あと、脚も動かせるはずだ」
声だけが聴こえ、言われた通りにもう片方の腕と脚に力を入れる。
「声はまだ無理だ。最後にやるからもうちょっと我慢しろ」
喉にひやりと触れたのは、彼の指先のようだ。
どうやら自分は発熱しているらしい、と青年は思い当たった。



それから幾日経ったのか、洞窟の外へ出るとやたらと眩しく目眩がした。
青年が呆けているところへ、声がする。
「うわ、お前マジで化けもんじゃねえ?」
常に見ていたのは、こちらを見据えていたのは、排他と憎悪に満ちた色だった。
けれど今、彼の金色に同じ色は無く。
「てめえ…」
「あ、声もちゃんと出てるな。ちゃんと馴染んだか」
話を訊けと声に出す前に、手が動いた。
伸ばした掌は彼の腕を掴み、掴んだ事実に青年は驚愕を隠せない。
目を見開き固まった青年を見下ろして、彼は笑う。

「触れたかったんだろ?」

未だ信じられぬと掴んだ腕を見下ろす青年は、彼よりも目線ひとつ分背が低かった。
だがこの体躯から繰り出される剣撃は、羅刹の血を引く幼馴染に並ぶのだ。
(とんだ人間が居るもんだな)
元居た洞窟へ戻され、身体の調子を見るからと青年は上半身を晒された。
そこで初めて、自身の身体がどうなっているかを知る。
首の付け根、両肩の付け根、両手首、手指の先、腹と腰の間。
触れた感触で言えば、両股や膝、足先も指に至るまで。
「何だ、これは…」
青黒く浮かぶ斑紋は、喩えるならば縫い目であった。
青年の身体、あらゆる箇所を這うそれは、まるで。
答えを求めて見遣った先、彼は悪びれもせずにこう言った。

「お前の身体、ボロボロだったから俺が組立て直した」

まあ、ちゃんとお前の身体として馴染んだし。
その内、縫い跡も消えるし。
「…待て。どういう意味だ?」
青年の問いにきょとんと目を瞬く彼は、都に居る人間の子どもとそう変わりなく。
「え? だから、」
内臓以外はズタボロで使いモンになんねえから、使える身体と取り替えた。
「な、に…?」
取り替える? 身体を?
そう、使えない処を綺麗な死体のと取り替えて、女郎蜘蛛の糸で繋いで馴染ませて、この通り。
「…っ!」
吐き気が込み上げ、青年は口を咄嗟に抑えた。
その様子に何を思ったか、彼は笑いを堪えるようにクスリと漏らした。
「人間って、ほんと我儘で最低な奴等。俺たちより後に出て来た癖に、我が物顔。
こっちの都合も全部無視して、やりたい放題」
伊邪那岐様も、何を思って野放しにしてるんだか。
彼は自身の身体へ視線を落とし青くなっている青年の、耳元へ唇を寄せ囁いてやる。

「俺に触れる代償には、安過ぎる」

ゾクリ、と背筋が粟立った。
青年の背に走ったものは、恐怖ではない。
余りに近い吐息が否応無く彼の存在を意識させ、熱が集まる。

彼の靭やかな指先が、青年の心臓に据えられた。
抉り出そうとするように、五指の爪が青年の皮膚に食い込む。
「この身体を直したのは俺だ。だからこの身体も、心臓も、全部俺のモノだ」
代わりに、お前の欲しがってたものをやるよ。

「お前の名前を呼んでやるよ。触れるのだって許してやる。
態々追い掛けなくたって、お前の手の届く場所に居てやるよ」

全身に血が巡る様を、青年は感じた。
熱い、生きていると分かる血潮が、全身を流れている。
それを自覚したとき、青年の身体の至る処に残る縫い跡は瞬く間に消滅した。
「えっ」
鮮やかな皮膚の変移を目の当たりにした彼は、素で驚く。
見た目が以前と同様に戻った身体を確かめること無く、青年の手は彼の胸ぐらを掴み引き寄せた。
「おい、エレンよ」
その言葉、二言はねえだろうな?
凄まれても、別段鬼の彼には恐れる要素が見当たらない。
「? 無いけど」
彼が言い終わるが早いか、青年は噛み付くように彼へ口吻た。
「!」
さすがにその可能性は考慮していなかったか、彼は目を白黒させる。
青年は驚きに見開かれたままの金色を間近でじっくりと眺め、ようやく唇を離した。
互いに掛かる吐息には、既に熱が。

「なら、てめえの全部を俺に寄越せ」



あんなに忌々しかった"釈迦の蜘蛛糸"は、彼の身体が青年のものに貫かれたそのとき、ふつりと焼き切れた。
全身に纏わり付く倦怠感をどうすることも出来ず、彼は丸く身を縮こませる。
身体は後ろから確りと抱き締められて、離れることは無理だろう。
(とんだ執着心だ)
種族も性別も無意味にして非生産的な行動に走る人間は、理解に苦しむ。
(まあ、俺には関係ないし)
彼は口の端だけで青年を嘲笑う。
(精々、俺の役に立てよ)
これはまだ、始まりだ。

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