Dance with Wolves

(ひとりぼっち と ひとりぼっち)




駐屯兵団、ウォール・ローゼ南方司令本部。
リコに連れられ本部正面玄関を潜った少年…エレンは、大きな目をぱちくりと瞬いた。
「でっけえ…」
彼の隣を、くっつく勢いで黒い仔狼…ミカサと、淡いブロンドの子犬…アルミンが歩いている。
リコの隣にはリリィが居り、彼らは行く先々で人の目を引いた。
「りりり、リコ班長?! どうされたんですか?!」
本部へ入ったところで、班員のミタビが目を回していた…ように見える。
「イアンから話があったはずだろう?」
「あ、ありましたが…!」
聞いていたのと少し、いや、かなり違いますよ?!
「…イアンは何と言っていたんだ」
「えっと、"逃げ遅れたらしい子どもを保護したが、1人には出来ないので今日は特別に連れて来させる"と」
「…間違ってないじゃないか」
「で、ですが…」
訓練兵くらいの年齢を予想していたし、小さな2頭の連れなど話にも出ていない。
しかも、
(こんな可愛い男の子だとは、普通予想しない…!)
しかもあのリコが、だ!
まだ喚くミタビに埒が明かない、とリコは無視して進むことにした。

…そうして、分かったことがある。
エレンは狼犬と犬に、無条件の信頼を置かれているということだ。

兵士は基本的に、『犬語』が分かる者が就いている。
リコやイアンの代は必須条件ではなかったが、今の訓練兵団は入団資格に『犬語』が組み込まれていた。
人間は相手が『人語』を解するかなど解らないが、動物たちは対した人間が己と同じ言語を扱えるのか、本能で察知する。
誰だって、使い慣れていない言葉より使い慣れた言葉で話したいのだ。

人間が『人語』以外を使えるかどうかは、持って生まれた"才"に左右される。
解らなければ解らないままだし、解るなら一生解る。
そもそもの種族が違うので、これは学んでどうにかなるものではない。
学んで解るのは、せいぜい見て分かる相手の状態だ。

行く先々で、エレンは兵士たちの相棒に懐かれた。
駐屯兵団の兵士が連れるのは犬か狼犬で、ここの犬たちは『犬語』を使う。
エレンはただの少年であるが、『犬語』が判った。
(いや、それだけじゃない…)
彼らが懐くので、そのパートナーである兵士たちも自然と相好を崩してエレンに構う。
…兵士の相棒たる犬たちもまた、厳しい訓練を経た者たちだ。
彼らが警戒を解くなど、余程のことが無い限り有り得なかった。
(例外が、ある。1つだけ)
エレンの手を引きながら、リコは司令室へ向かう。

目当ての部屋の前には、すでにイアンが待っていた。
エレンの顔がパッと輝く。
「イアンさん! おはようございます!」
「おはよう、エレン。もう具合は大丈夫か?」
「はい!」
熱に魘されていたエレンが目を覚ましたそのとき、居合わせたのはリコ。
そして医者と共に顔を出したのはイアン。
大人の庇護を亡くした子どもが、頼り懐くことになるのは必然と言えた。
リコは数日前を思い返しながら、イアンへ問う。
「司令は部屋に?」
「ああ」
イアンが扉をノックすれば、許可の声が返った。

「失礼します」

駐屯兵団南方総司令、ドット・ピクシス。
それがこの部屋の主だ。
酒呑みで女好き、総統ダリス・ザックレーとは旧知の好好爺…実年齢はともかく…である。
その実、膨大な人数を抱える駐屯兵団の、最高指令の一角を担うだけの非情さも併せ持つ。

部屋へ入り敬礼したリコとイアンの間から、どうすれば良いのかとエレンはそっと顔を覗かせた。
足元では、ミカサとアルミンがエレンを見上げている。
口より語る大きな金色の目を見つけて、ピクシスは破顔した。
「おお、これは可愛いお客さんじゃな。遠慮せずに入っておいで」
リコを見上げると彼女は頷き、エレンを即す。
「お、おじゃまします…」
ぺこりと頭を下げた子どもに、ピクシスはますます表情を緩めた。
「固くならんでよいぞ。お前さんは主役じゃからな」
儂はドット・ピクシス、イアンたちの上司だ。
彼の両隣後ろに控える男女の兵士が黙礼してきたので、よく分からないながらエレンは彼らにもぺこりと頭を下げる。

ピクシスの眼差しに応え、リコはエレンを奥のソファーへ座らせた。
お茶などという気の利いたものはないが、氷と水があったのでグラスへ注ぎエレンへ手渡す。
「あ、ありがとうございます。…あの、リコさん?」
「なんだ?」
「あの、さっき…オレが主役って」
ああ、とリコは一旦言葉を切る。
「お前に会わせたい人間が居るんだ」



ちょうどその頃。
ウォール・ローゼ南方司令本部の入り口には、常とは違う緊張感が走っていた。
新たに玄関を潜って来た2名の来訪者を、誰もが敬礼で出迎える。
…伝う薔薇ではなく、黒と白の重ね翼。
『壁の外』を主戦場とする、調査兵団の紋章。
(調査兵団のエルヴィン団長じゃねえか…!)
(リヴァイ兵士長まで?!)
調査兵団のトップ、そしてNo.2の男。
彼らの後ろには、4頭の『本物の』狼が付き従っていた。

背の低い方の男…兵士長であるリヴァイが、エルヴィンへ問う。
「…おい、エルヴィン。信憑性はどうなんだ?」
兵士の相棒となる獣は、犬と狼犬の他にもう1種居る。
それがリヴァイの後ろに従う者たち…狼だ。
純粋な狼の数は非常に少なく、野生の狼を捕らえて売り捌こうとする輩は後を絶たない。
また彼らは狼犬以上に聡明で気位も高く、人間に従うことなど本来有り得ない。
言ってみれば、『狼』は人間と同じように尊厳を重んじた。
種としての尊厳と、個を尊重する生き物。
…たった1人の、例外を除いて。
「会ってみなければ何とも言えないさ。そのために、君の処の班員たちにも来て貰ったんだろう?」
司令室への道すがら、エルヴィンは話す。

調査兵団は巨人と相対する組織であり、兵士の相棒たちもまた、それは同様。
彼らは捕食対象外という特性を生かして、兵士たちの補助を行う。
しかし巨人の大きさと稀に遭う奇行種の速さに対するには、人間に合わせて進化してきた犬では力が足りなかった。
…単純に、筋力と持久力が足りないのだ。
ゆえに調査兵団に所属する獣は狼犬が大半を占め、犬は一部に過ぎない。
が、兵士長を担うリヴァイは違う。
彼の相棒4頭は、今では数少ない純粋な『狼』であった。
「それで?」
「あぁ?」
「違ったなら何も変わらないだろう。だが『本物』だったなら…どうする?」
エルヴィンの問いに、リヴァイは答えない。

そうこうしている内に、目当ての部屋まで来てしまった。
4頭の部下に部屋の外で待機するよう言い付け、リヴァイはエルヴィンに続き入室する。

「失礼します」

そわそわと落ち着かないエレンは、アルミンを腕に抱き締めて何とか平静を保っている状態だ。
本来じっとしている性分ではないのだろうな、とリコは思う。
そこへ扉の開く音がして、エレンの身体がビクリと跳ねた。
しかし来訪者を目にした金色は、また違う驚愕に彩られる。
「わざわざご苦労じゃったな、エルヴィン」
「いいえ。さすがに今回は、こちらも心が逸りました」
ピクシスと話す金髪の男と、彼の後ろで不機嫌そうにしている黒髪の男。
彼らの紋章は、エレンが焦がれて止まない翼だった。
(ちょうさ兵団だ…!)
エレンの足元に寝そべっていたミカサが身を起こし、新たな来訪者を威嚇する。

「リヴァイ」
エルヴィンの呼び掛けに、リヴァイは頷き小声で返した。
「…ああ。ありゃ本物の狼だな」
黒い仔狼は、ソファーに座る子どもを守るかのように立っている。
(このガキが…?)
大きな金色の眼、まったくもって発育途上の子どもの手足。
「……」
見た目だけなら、結構な上玉の少年だった。
よくもあの混乱の中で、下衆な輩の手に掛からなかったものだと思う。
(いや、違うな…)
そういった輩に見つかる前に、"彼ら"が『保護』したのか。

リヴァイと目が合うと、金眼の子どもはハッとしたようにソファーから降りて仔狼の首を抱いた。
ブロンドの毛並みの子犬が、代わりに床へと飛び降りる。
「やめろよミカサ! あの人たちはちょうさ兵団だぞ!」
黒い仔狼は威嚇の手を止めない。

【いいえ、エレン。あいつは信用ならない】

リヴァイには、仔狼の唸り声が言葉として聴こえる。
「だから、何でだよ!」
【人間なんて、エレン以外は信用しない】
「だったら、オレが信じるって言ったらお前はそいつを信じるのか?!」
【…それは、】

他方、リコたちにはエレンの言葉だけが聴こえるため、前後の繋がりのない彼の発言は意味不明としか思えない。
目の当たりにした事実に、さしものピクシスやエルヴィンですら目を見張った。
驚く彼らを尻目に、リヴァイは子どもへと足を向ける。

「【おい、ガキ】」

エレンは耳を疑った。
聴こえたのは狼の言葉、だがミカサは今、口を閉じている。
顔を上げた先に居た黒髪の調査兵は、エレンとミカサの1歩手前で立ち止まった。
「【お前、俺の言葉が分かるな?】」
分かる、知っている。
(でも、どうして…)
大きな目をさらに見開いて固まってしまった子どもに、目玉が零れ落ちそうだな、とリヴァイは明後日なことを考えた。
妙な思考を振り払い、閉じている扉を振り返る。
「お前ら、入って来い」
カタン、と扉の下半分が内側へ開き、廊下で待機していた4頭の狼が順にリヴァイの隣へと並んだ。
子どもの目がキラキラと輝く。

「大人の狼だ…!」

すごい、すごい、オレ初めて見た…!
ミカサと云う名の黒い仔狼の首を抱いたまま、子どもは4頭の狼を見回した。
「すっげー…。アルミンの3倍くらいあるな」
【ボクは身体が小さいからね】
ブロンドの子犬の言葉は、部屋に居る犬語を解せる人間たちにも聴こえた。
エレンは青い目をした大人の狼へ話し掛ける。

「あ、あの、さわってもいい…?」

ややして、エレンはその逞しい身体にぎゅっと抱きついた。
「かたい! でっかい…!」
すごいな、ミカサも大人になったらこれくらいでかくなるんだな!
大人の狼にとって、エレン程度の子どもであれば何てことのない重さだ。
ぎゅうぎゅう抱きついたりしがみついたりしてくる子どもを、青い目の狼は黙って好きにさせた。
エレンは最後にまた狼の首元へ抱きつき、離れる。

「ありがと、エルドさん!」

一体何度、驚かされれば良いのだろう?
誰も、狼の名前など口にしていない。
けれど子どもは言った、『エルドさん』と。

リヴァイは部下たちの間で片膝をつき、子どもと目線を合わせた。
「【他の奴らの名前は分かるか?】」
真正面から切れ長の目に見据えられ、気後れしながらもエレンは他の3頭を見る。
焦茶色、亜麻色、灰色の眼の狼たちもまた、真っ直ぐにエレンを見返した。
「…グンタさん、ペトラさん、オルオさん」
正解を褒めるように、ペトラと呼ばれた雌狼がエレンへ頬擦りする。
じわ、とエレンの目に薄い水の膜が張った。
「【…話せるか?】」
再度黒髪の調査兵に問われ、エレンは頷いた。
「【はなせ、ます】」
こくりと頭が上下した拍子に、ほろりと涙が零れ落ちた。
先ほどまではしゃいでいたのが、嘘のように。

「【誰も、信じてくれなかった。本当なのに、みんなオレがウソツキだって言って笑った】」

父さんと母さんは信じてくれた。
でも、話せることを隠しなさいと言って。
狼語で齎された言葉は、リヴァイ以外の耳には意味を成して届かない。
「…賢明な両親だ」
その両親はどうした?
人語に戻ったリヴァイの問い掛けに、子どもは首を横へ振った。
「母さん…家の下じきになって…っ! オレ、母さんにつきとばされて、ふり返ったら、家…が」
しゃくり上げ始めたエレンに、リコはぎり、と拳を握る。
(シガンシナは、惨劇だった)
第三者の…それも大の大人がこうであるというのに、目の当たりにした子どもにはどれだけの傷となったか。
「…父親は」
子どもはまた首を振った。
「父さん、わかんない…」
あの日、医者であるエレンの父はウォール・ローゼまで往診に行っていた。
超大型巨人襲来のときにどこに居たのか、エレンには知りようも無い。
「オレ、船に乗れなくて。まだ巨人もくちくされてなくてどうしようって、シガンシナ出たところで動けなかった」
そうしたら、ミカサを迎え入れてくれた狼犬の群れが、オレを捜しに来てくれた。
「そうか…だから一緒に森に居たのか」
リコとイアンは、エレンを見つけたときのことを思い出す。
たとえ巨人がいたとしても、あの群れの中に居たなら捕食対象から外れられるだろう。
彼の栄養状態がそれなりに良かったのは、狼犬たちの努力の成果か。
「…お前、名前は?」
黒髪の調査兵に問われ、エレンは袖口で涙を拭った。
「エレン。エレン・イェーガー」

これは"奇跡"だ。
『壁』に囲まれた狭い世界で、独りきりで生きて死ぬのだと、リヴァイはそう思っていた。
("奇跡"は、人の形をしていた)
そっと、手を伸ばす。
「…俺はリヴァイだ」
調査兵団に入る前、リヴァイは人生の大半を王都地下街で生きてきた。
だがその『前』の、僅かな期間のことを覚えている。
…ウォール・シーナの片隅、人の手の入らぬ森の中。
『壁』に遮られままならない、狼の群れがあった。

リヴァイさん、と小さく声にしたエレンの頬に、リヴァイの手が触れる。
「エレンよ。お前が狼と話せること、俺が肯定してやる」
金色が大きく瞬かれた。
また零れ落ちた雫を、静かに指先で掬う。
「狼は人の本性を見抜く。それでもなお、お前の処のチビとこいつらは、お前を認めた」
守る価値がある、共に在る意味があるのだと。
「俺も同じだ。こいつらが俺を認めた。俺もこいつらを認めた」
けれども所詮は違う種族、真の理解者たることは出来ない。
「だから俺は、孤独に生きて孤独に死ぬんだろう。そう思っていた」
それは違った。
"奇跡"は子どもの成りをして、リヴァイの前に現れた。

リヴァイはエレンよりも、ずっと年上だ。
エレンよりもずっと長い間、狼と話せることに疑惑の目を向けられ生きてきたのだろうか。
(悔しかった。哀しかった。ずっと)
だから。
エレンは小さな両手をリヴァイへと伸ばした。

「リヴァイさん。リヴァイさんがエルドさんたちと話してるの、オレは分かります」
ミカサと話せるのも、分かります。

伸ばされた手は、"奇跡"そのもので。
リヴァイはその手を、子どもの身体ごと抱き締めることで掴み取った。

ーーー孤独が、掻き消える。

嘘ではないのだと確かめるように、リヴァイは自分よりも小さな体温を腕の中に抱える。
エレンは苦しい程に抱き締められて、けれど苦しい訳ではなくて。
「…ふっ、う…あ」
もう一度堪えることは出来ず、エレンは声を上げて泣いた。
なぜ泣いているのか忘れてしまうくらいに、泣き叫んだ。

それはきっと、エレンを抱き締めるリヴァイの分なのだと思いながら。



泣き疲れて眠ってしまったエレンを、リヴァイはそのまま抱き上げた。
立ち上がり足元を見下ろして、鋭い眼差しを僅かだけ緩める。
「んな不満そうにすんじゃねえよ。ミカサ」
拗ねている自覚はあるのだろう、黒い仔狼はぷいっとリヴァイから顔を背けた。
それを宥めるように、ペトラが彼女の顔を舐める。
グンタと呼ばれた狼も同じようにミカサを宥めて、1人蚊帳の外であったアルミンに構ってやる。
アルミンはグンタへ何か話し掛けていたが、残念ながら室内にいる他の人間たちの耳には入らなかった。

エルヴィンはリヴァイの一挙手一投足に驚かされ、言葉も無い。
…例えば、リヴァイは子どもが嫌いだ。
それが子どもの役目だと頭で判ってはいても、己の都合を曲げるものは好ましくないと云う。
…例えば、リヴァイは潔癖症だ。
あらゆるものを綺麗にしてから、彼はようやく腰を落ち着ける。
余程のことがない限り、大人にだって触れやしない。
(それさえも凌駕する、か)
「…明日は槍が降るかのぅ」
ピクシスの呟きに、エルヴィンは思わず苦笑した。
「奇遇ですね。私も思いましたよ」
聴こえたであろうが、リヴァイはこちらを睨んだだけで何も言わない。
…自覚はあるのだろう。
そこまで接点の無いリコは、訝しげに上官を見比べている。
リヴァイはエルヴィンとピクシスへ問うた。
「こいつは開拓地行きか?」
いや、と口にしたのはピクシスの方だった。
「今ので事情はよく分かった。その少年を、開拓地へ行かせるのは不味い」
シガンシナの元住人の多くは、ウォール・マリアの開拓地へ送られている。
身寄りの無い子どもが開拓地で満足に生きられるか、是と答える者は居ないだろう。
「そもそもお前さん、手放す気がないじゃろう」
「…ああ」
諦めていた処に現れた、自分以外に狼語を扱える者。
孤独であった十数年に戻りたいなど、誰が思うというのか。
ピクシスは机上で組んでいた指を解(ほど)く。
「お前さんに預けるのも良いが、壁外調査の期間はどうしようもない」
押し黙った様子からして、すでに可能性は考慮していたのだろうが。
「…司令」
ピクシスの後ろに控えていた女性兵士が、呆れたように進言した。

「すでに貴方が決定されたことを、もう一度議論する必要はないと思いますが」

途端、リヴァイの眉間が寄った。
「…おい」
つまりこれは、茶番か。
悪びれることなく、ピクシスは肩を揺らしカッカと笑う。
「リコとその両親が引き取りたいと言ってな。手続きも今日の夕方には終わるじゃろうて」
ようやく話を回され、リコはひと息ついてリヴァイへ向き直った。
「我々がエレンを発見したのは、7日前です。
熱が下がった後、勤務時間の関係で私の実家に預けていました」
リコの実家は、ウォール・ローゼ南方の街にある。
イアンの実家へ預けるには、リコの家の方が近かった。
「私の両親は、昔から仕立て屋を営んでいます。裕福とは言い難いですが、子ども1人なら養えるので」
エレンが人見知りしなかったことも、両親を喜ばせる一因となった。
2ヶ月前に愛犬が老衰で往生して、寂しくなったこともあるだろう。
エレンの父は医者であったというので、彼は大人と接することに慣れていたのかもしれない。

ピクシスはリコの説明に頷き、リヴァイを改めて見遣った。
「お前さんの結果次第じゃったが。こうなると、エレンには訓練兵団に入って貰った方が良かろう」
聞けば、エレンの齢はまだ10だ。
「訓練兵に志願出来るまでの2年、信頼出来る者へ預けるのが常套ではないか?」
その言に、否やの言葉は発されなかった。



*     *     *



ふ、と目を覚ましたエレンは、目の前にあった顔に驚いた。
「ふ、え?」
そう、確か名前は"リヴァイ"と言って、エレンの憧れる調査兵団の人間で。
「…起きたのか」
閉じられていた目が開かれ、銀灰色がエレンを真っ直ぐに見つめた。
ふに、と目の下を撫でられる。
「…少し腫れちまったな」
エレンの身体の下に腕が差し込まれ、身を起こしたリヴァイと一緒にエレンも視界が90度変わる。
ぎゅっと抱き締められて、エレンは動かせる眼差しだけでリヴァイを見上げた。
「りばいさん?」
寝起きの拙い声が、リヴァイの耳朶を震わせる。
つい抱き締める腕に力が入ってしまい、エレンがくるしい、と告げた。
「みかさとあるみんは?」
「俺の部下共と隣の部屋だ」
エレンはしょぼしょぼとする目を瞬く。
「…なあ、エレンよ」
リヴァイの声は、とても静かだった。

「俺は、ここでお前の手を離すのが怖い」

今まで生きてきた25年間。
「俺が狼と話せることを知ったのは、お前と似たような年齢の頃だ」
あれから15年もの間、孤独に耐え続けてきた。
「どいつもこいつも、犬と話せることは信じるくせに、狼は信じねえ」
狼語を解さぬような人間に、彼らの何が分かるというのか。
「調査兵団に入った後も、それは変わらなかった」
明確な悪意で吐かれたひと言も、何気なく零されたひと言も、どっちだって同じだ。
リヴァイは信じぬ人間を信じる労力を厭った。
「でも、ぴくしすさんとえるびんさんは?」
「あいつらはそういう部分で兵士を見ねえよ。役に立つかどうか、だ」
どの兵士よりも強かったリヴァイを、兵士の上に立つ者は有用と判じた。
そしてある狼の群れを迎え入れた調査兵団は、壁外調査の成果を飛躍的に伸ばすことになる。
「エルドさんたち?」
「いや、違う。あいつらはそのときの群れの子孫だ」
あの狼の群れは数年リヴァイと共にあった後、壁外の新天地へと旅立った。
4頭の若い狼を残して。
エレンはちゃんと目が覚めたようで、言葉がはっきりとしてきた。

「…オレ、かべの外に行きたい」

ぽつりと呟いたエレンに、リヴァイは瞠目する。
「アルミンのじいちゃんが言ってたんだ。"壁の外は広くて、見たことのないものがいっぱいある"って」
氷の大地、炎の水、砂の雪原、そして『海』。
「かべに閉じ込められる前のこと、ずっと言い伝えて来たって言ってた」
それを見てみたいって、ずっと思ってた。
「…そうか」
身動いだエレンに、抱き締める腕の力を緩めてやる。
エレンは正面からリヴァイを見上げた。

「リヴァイさん。ちょうさ兵団に入ったら、かべの外へ行けますか?」

行ける。
(いや、それだけじゃねえ…)
リヴァイは腕を手前へ引き、エレンの額と己の額をこつりと合わせた。
「行けるだけじゃねえぞ」
「え?」
「【俺とお前なら、壁外で暮らせる】」
狼語で齎されたそれに、エレンの目が大きく見開かれた。
次いで開かれようとした口を、リヴァイは己の人差し指で塞ぐ。
「【出られるのは俺とお前、それに俺の部下たちとお前のダチ共だけだがな】」
だからまだ、秘密だ。
表情は変わらないがどこか愉快げなリヴァイに、エレンは頷いた。
「【分かった。オレとリヴァイさんだけのひみつ?】」
「【ああ。他のヤツには絶対に内緒だ】」
秘密、という言葉を子どもは好む。
例に漏れず期待と喜色を隠さない金色の眼に、リヴァイもまた微かに笑った。
「さて、もう昼だな」
途端にきゅるる、とエレンの腹の虫が鳴り、エレンは真っ赤になる。
「あっ…」
今度こそ笑みを浮かべ…やはり判別し難いが…、リヴァイは少年を片腕に抱き上げた。
「飯食いにいくぞ」
「お、オレ自分で歩ける…!」
「黙って甘えとけ、クソガキ」
父にこのように抱き上げられたことは、エレンの記憶ではもう随分と前だ。
イアンに抱き上げられたときも思ったが、気恥ずかしい。
「う〜…」
熱の集まる顔を見られないように、エレンはリヴァイの胸元へとしがみつく。

暖かな子ども体温を抱えたまま隣の部屋を開ければ、そこには他に人の姿がなかった。
「てめぇらだけか?」
【エルヴィン団長とピクシス司令は、お二人だけで打ち合わせに】
イアン班長とリコ副班長は先に食堂へ、とエルドが説明するのに、リヴァイはそうかと相槌を打つ。
「待たせたな。俺たちも飯に行くぞ」
【待て、エレンを離せ】
ひとつだけ剣呑な声が返り、声の主を見下ろした。
「【随分な言い様だな、ミカサ】」
ミカサが毛を逆立ててリヴァイを見上げ、その隣でアルミンが必死に彼女を止めている。
【止めなよミカサ! 君で敵う相手じゃないよ!】
ていうか戦わないといけない相手ですらないでしょ! と彼の言い分は尤もだ。
しかしミカサの威嚇は続く。
【お前が信用出来るかなんて、判らない】
「【それは奇遇だな。俺もてめぇを信用出来るか判らねえ】」
だが分かることはある。
「【俺はてめぇよりずっと強い。それは確かだな】」
【何を根拠に】
ミカサの返しに、リヴァイは口の端を僅かだけ上げた。
「【飯の後に見せてやるよ】」



子連れで現れたリヴァイに、食堂は酷く動揺した。
(((?!!!!)))
「リヴァイ、こっちだ」
呼ぶ声はエルヴィンのもので、見れば一角にエルヴィンとピクシス、それにリコとイアンが陣取っている。
…ミカサとアルミンは、エルドたちがパートナーに割り当てられた食事場所へ連れて行ったところだ。
リヴァイはエレンを席に下ろし、2人分の食事を取りに行った。
ここぞ、とばかりにエルヴィンはエレンへ尋ねる。
「エレン。リヴァイが怖くないのかい?」
エレンは首を傾げた。
「えっと…。初め見たときは怖かった、です」
でももう怖くない、とエレンは笑う。
タイミング良くエレンの目の前に食事の盆が置かれ、彼は置いた手の主を見上げた。
「ありがとう、リヴァイさん!」
「ああ」
と、リヴァイは改めてエレンを見下ろす。
「…てめぇには低いな」
「?」
食堂の椅子とテーブルは、当然であるが平均的な大人を想定して作られている。
子どものエレンには、テーブルが高い。
リヴァイは当然のようにエレンを抱き上げ、自分の膝の上へ乗せた。

呆気に取られてぱかん、と開きそうになった口を叱咤したエルヴィンは、忍耐力の限界を試されている気がしてならない。
この場に巨人好きで名高い調査兵団分隊長が居れば、食堂の端から端まで使って笑い転げただろう。
ピクシスはカラカラと笑ってみせた。
「仲が良くなって何よりじゃな」
これはそういう問題ではない。
しかし常のリヴァイを知る人間は、残念ながらこの場にはエルヴィンしか居なかった。
仕方がないので、このモヤモヤ感は例の分隊長へ売り付けることにする。
「リヴァイさん、食べるのにオレ…ジャマじゃないですか?」
「気にするな」
「でも、」
「良いからてめぇは食え」
エレンは納得していないようだが、リヴァイがスープからじゃがいもを掬い食べ始めたので自分も食べ始める。
薄切りのベーコンが3枚、後は人参とじゃがいもがメインのスープだ。

「それで? お前さんたち、今日はうちの兵舎へ泊まって行くのか?」
エルヴィンとリヴァイへ問うたピクシスに、リヴァイが否と答える。
「次の壁外調査が近い。そこまで悠長にしてられん」
それを聞いたエレンが寂しげに眉を下げたのを、向かいに座るリコとエルヴィンだけが気づいた。
「ああ、だが午後の訓練は参加しても良いか?」
「それは構わんぞ」
人類最強が参加するとなれば、うちの兵たちも気合いが入るじゃろうて。
快諾したピクシスの向かいで、エルヴィンが疑問をそのまま口にした。
「どういう風の吹き回しだ?」
リヴァイはスープを零すエレンの口元を、自分のハンカチで拭ってやる。
「ミカサが煩ぇんだよ」
「ミカサ…ああ、エレンの仔狼か」
狼語の分からぬエルヴィンは、ミカサがリヴァイを威嚇しっぱなしであったことだけが印象に残っている。
エレンは咀嚼していたじゃがいもを急いで飲み込んだ。
「あ、あの、くんれんってオレも見られますか?!」
その眼差しはリヴァイを見上げ、エルヴィンを見た。
エルヴィンの視線はピクシスへと流れ、ピクシスは頷いてエレンへ視線を戻す。
「構わんよ。ただし、儂の傍を離れんようにな」
「はい!」



*     *     *



エレンはあれから、私の実家に住んでいる。
戸籍もすでにプレツェンスカの養子なのだが、敢えてプレツェンスカを使うようにとは言っていない。
もちろん黒い仔狼ミカサとブロンド色の子犬アルミンも一緒で、彼らはとても頼りになる。
何せ最初の頃に思った通り、エレンは活発な子どもだったのだ。
目を離すと、すぐに居なくなってしまう。
けれどリコの非番の日は、必ず家で出迎えてくれた。

「お帰りなさい、リコ姉さん!」

リリィさんもお帰り!
出会った頃に比べて数cm近くなったエレンの頭を撫で、リコは肩の力を抜く。
「ただいま、エレン」
来週には、壁外調査から戻り落ち着いたリヴァイが訪ねて来るだろう。
そしてエレンは2泊ほど、ウォール・ローゼ調査兵団本部へ泊まりに行くのだ。
(…なんというか)
エレンが来てからの日常が、リコにはとても心地良かった。
もっとも、彼女はミカサと似たような危惧を頂いている。

(その内、リヴァイ兵士長が"エレンを嫁にくれ"と言いそうなんだが)
---End.

<<  >>簡易設定


2014.6.15
ー 閉じる ー