巨人の影響色濃い時代に逢ったこと。

(3.過去と現在の交差)




「まずはどこへ行くんですか?」
「『Eren』だ」
「はい?」
「お前と同じ名前の街だ」
会わせてやりたい奴もいるしな、と続けられた言葉は、俄然エレンの好奇心を刺激する。
「えっ? どんな方ですか?」
「会えば分かる」
リヴァイの返答はやはりつれない。
つれない上に、厳しい。
「無駄口訊いてる暇があったら、てめぇは馬の乗り方を学べ」
全然なってねえ、と舌打ち混じりに指摘され、エレンはひやりと背筋が冷えた。
「本来なら50km行ける行程が、馬を無駄に疲れさせるせいで半分も行けなくなる。
おまけに食料と装備は有限だ。巨人に遭遇しても逃げられねえぞ」
「…っ、はい!」
エレンが以前に馬に乗ったのは、もう4ヶ月ほど前のことだ。
今彼が騎乗している馬は訓練兵時代でもパートナーであった牝馬で、リヴァイに言わせるとかなり良い馬だった。
…この馬は、長く生きる。
どんな状況にあっても、主の命を守るだろう。
どんな悪所であっても、持って生まれた脚力で飛び越えるだろう。
主に何があっても、パニックには陥らないだろう。

「エレンよ。お前はもっと馬と話せ」
都市を旅立ち2日目の夜、焚き火を挟んで告げられたエレンはぱちりと目を瞬いた。
「馬と話す、ですか?」
「そうだ。馬は賢い生き物だ。お前が話せば聞く、意見が違うならそれなりの反応を返す。
特に、お前の馬は良い馬だからな」
素人には勿体ねえくらいに。
(そう言われると、確かに)
エレンが指示する前に意図する走りをしてくれることも、彼女が危険を察知して指示に背き、命拾いしたこともある。
「リヴァイさんとリヴァイさんの馬は、信頼関係があるんだな…って、よく思います」
「ほう?」
「何というか…上手く言えないんですけど、一体感があるというか」
焚き火に照らされ橙を映す目が、ゆるりと細められる。
重なった懐かしい情景に息が詰まり、リヴァイは言葉を飲み込んだ。



大きな街だ。
都市から馬で10日、ぽつりぽつりと点在していた補給地点を経由して辿り着いた、その街の名は『Eren』という。
馬を降り厩舎へ向かうと、次々と声を掛けられた。
「やあ、初めての人だな!『Eren』へようこそ!」
「リヴァイ兵長、お帰りなさい!」
旅人を歓迎する様から、良い街であることがよく判る。
だがエレンには、それよりも気になることがあった。
「『リヴァイ兵長』…?」
リヴァイへ声を掛ける者は、皆リヴァイのことをそう呼ぶのだ。
エレンが口にすると、リヴァイは苛立ちを込めて舌打ちした。
「…チッ。上が改めねえから、結局そのままじゃねえか」
エレンも、その名前ならば幾度も聞いたことがある。
研究史の中で、噂の中で。
けれどどれもが真偽の程が明らかでなく、曖昧であった。
ゆえに、人類が『壁』から遂に進出するに至る中心となった人物たちは、ただこう呼ばれている。
『人類最強』と『人類の希望』…と。

馬を厩舎へ預けると、リヴァイはエレンを伴い真っ先にEren調査兵団本部へと向かった。
「ユミルは居るか?」
適当に兵士を捕まえて尋ねれば運良く在勤中であるとのことで、さっさと彼女の執務室へ足を向ける。
勝手知ったるとばかりに先を行くリヴァイに、部外者であるエレンは居心地が悪いながらも付いていくしかない。
目当ての部屋へやって来て、リヴァイはぞんざいに扉を叩いた。
「ユミル、居るか?」
どうぞー、とやる気の見えない返事に遠慮なく扉を開ければ、書類を手にしていたユミルが目を丸くしてこちらを見た。
「リヴァイ兵長! いつ戻られたんですか?」
「ついさっきだ」
ユミルは書類を早々に放棄した。
「"隊長"なんて役職になって、やっと兵長や団長の苦労が判りました」
めんどくさくて仕方がないと溢すユミルに、リヴァイは自身が入ってきた扉を顎で示す。
「お前に会わせたいヤツがいる」
リヴァイに即され気後れぎみに入ってきた人物に、ユミルはガタリと音を立てて立ち上がった。
「し、失礼します…」
目を、見張る。
(…"あの日"から、忘れたことなんて無かった)
あの日"彼"に命を救われた誰もが、彼に礼を言えなかったことを生涯悔いた。
なぜなら彼は、街へ戻って来たときにはとうに亡くなっていたのだから。

「エレン…?」

嘘だろ、と声にならずに吐いた息が掠れる。
「え? 何で俺の名前…」
リヴァイはユミルに何も言わない。
けれど彼がエレンを見つめる眼差しを、その色を、ユミルはよく知っている。
彼に贈られた指輪をなぞり、幸せそうに目元を緩めた『エレン』と同じ。
「っ?!」
突然にユミルという名らしい女性に抱き締められ、エレンは目を白黒させた。
「あ、あの…、」
続けようとした口を噤んだのは、エレンの背を掴む指先が震えていたからだ。

「こ…っの、死に急ぎ野郎が!!」

泣いたのは、いつ以来だろう。
ユミルはこれでもかというくらいに、エレンの痩躯を抱き締めた。
「お前はいつも、自分以外ばっか見やがって、」
ミカサがあんなに過保護だったのも、アルミンがいつも苦笑していたことも、忘れはしない。
「お前が死んでから、どれだけ…!!」
せめて彼の死に報いようと、エレンの墓には必ず『地図』が供えられるようになった。
遠征調査で書き加えられていく地図を街で新たに書き起こし、出来上がった地図の最初の1枚。
この地図を使って旅をしてくれと言わんばかりに、それは必ず供えられた。
ユミルはいつも、地図が供えられる様を傍から眺めて。
Eren調査兵団本部で当たり前となったその光景は、ただ一方で。
(空しかった)
ユミルが『巨人症』に倒れるまで、エレンの同期であった者たちはいつだって同じことを言っていた。

ーーーこれをエレンに見せたかった。

『巨人症』を発症した以降は判らない、だが同じであったろうと思う。
「…お前に、見せてやりたいものがたくさんあるんだ」
目にした景色を、映した生き物を、誰もがエレンを介して見ていたのだろう。
「"エレン"、」
どれだけの命を背負っても飛び続けた"自由の翼"、その片翼。
あれからずっと後に『Eren』と名付けられたこの街は、彼らのための止まり木に違いなかった。

「"アタシらを守ってくれて、ありがとう"」

これは、ユミルだけではない。
彼に遺されてしまったすべての者たちの、言葉だ。



*     *     *



エレンがこの街へやって来て3日後、遠征調査隊が帰還した。
彼らは旅の成果を一週間を掛けて纏め上げ、ユミルの執務室を訪れる。
「ユミル隊長。これが今回の地図です」
手渡された大判の地図は間違いなく、現世の人類が手にする中でもっとも広い世界を記している。
「おう、ご苦労様。じゃあ休憩がてら、渡しに行くか」
それはErenにおける遠征調査後の日常であり、誰も疑問など抱かない。
しかし地図を抱えたユミルが本部を出て向かった先は墓地のある北西ではなく、訓練場のある南側。
今回の遠征隊を率いていた隊長は、堪らずユミルへ問い掛けた。
「ユミルさん、墓地はこっちじゃないですよ」
「ああ。見りゃ判る」
「なら、なぜ訓練場へ?」
そのときユミルが浮かべた笑みは、彼らが彼女を知ってから初めて見るものであった。

「渡す相手は、もう墓には居ねえんだ」

彼女はまるで何かに報われたように、清々しくからりと笑った。
訓練場には遠征隊の面々には初対面であった少年…いや青年であったか…と、ユミル同様に前の時代の生き証人の姿がある。
「エレン! 兵長!」
ユミルの上げた声に、2人は格闘訓練の手を止めた。
エレンは汗だくで随分と息も上がっているが、リヴァイは涼しげである。
「あっ、ユミルさん! お疲れ様です」
皆さんも、と向けられた笑顔は、夏の盛りに咲く花のように明るい。
ユミルは眉を寄せ、ロール上になった地図でエレンの頭をぱかりと叩いた。
「呼び捨てにしろっつったろ。あと敬語も」
「いつも言ってますけど、無理です!」
会って日もない上に隊長で歳上なのに、と反論するエレンの言は間違っていない。
間違っていないのだが、相手が納得しないので振り出しに戻るのである。
「お前にさん付けとか敬語で話されると違和感しかねえの! 良いから慣れろ」
(理不尽だ…!)
胸中で叫んだエレンに、頭を殴った物体である紙のロールが突き出された。
「?」
エレンがきょとんとすると、ユミルは彼が反射で出した手へなおも紙を押し付ける。
「受け取れ。そんで見てみろ」
訳も分からぬまま受け取り開いて、エレンは言葉を無くした。

見たこともない広さを綴った、地図。

「こ、れ…」
辛うじて出した声も、言葉にはならなかった。
ユミルは自慢げに笑う。
「すげーだろ! 調査兵団がここに拠点張ったの、もう180年近く前だけどさ。
こんだけ書いてあっても、まだ世界の果てがないんだ」
なんて、広いのだろう。
都市の中に居たのでは、想像すら付かないスケールだ。
今回の遠征で加わったのはこの南西の方な、と指し示すユミルに、疑問が湧くのも当然で。
「あの…なぜ、これを俺に?」
彼女の物言いから察するにもっとも新しい地図を、なぜ調査兵団の人間でもない自分に渡すのか。
戸惑いを見せたエレンの頭を、ユミルはわしゃわしゃと撫でた。

「お前の為に描いてきたから」

『エレン』の墓に供えられ続けた、地図。
でももう、供えなくて良いのだ。
「アタシだけじゃない。あいつらだって皆、お前に見て欲しくて、驚いて欲しくて描き続けた」
きっと、ユミルの言っている意味の半分も分からないだろう。
リヴァイが何も言っていないのであれば、尚更。

「だから、受け取ってくれ。アタシだけじゃない、先に逝っちまったヤツらの想いも一緒に」

ぽつり、と零れ落ちる雫。
意味が判っていないはずのエレンが、泣いている。
流れる涙の理由が掴めず、必死に涙を止めようとしている。
「な、んで…おれ、泣いてるんだよ…」
目を擦ろうとした手を、ユミルよりもずっと無骨な手が止めた。
「いずれ、話す。今はとりあえず泣いとけ」
さらに意味の分からぬ言葉をリヴァイに投げられ、エレンは笑おうとして失敗した。
「何ですか、それ…」
受け取った地図を大事に抱えて泣く少年と、彼を愛おしげに宥める2人の兵士。
その光景を見た他の調査兵団兵士たちは、悟った。

墓碑に刻まれた名前と同じ少年は、ただ同じ名前であるだけではないのだろう、と。
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2013.11.24
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