巨人の影響色濃い時代に逢ったこと。
(5.Seven years after)
ひゅる、と木枯らしが吹き、色鮮やかに染まった葉がエレンの頭上を舞う。
どこかで見たことのある光景だな、と思い返し、目を細めた。
(…ずっと西に行ったときに、見た)
空を見上げた目を、舞い落ちる葉を追ってしまう視線を、無理矢理に遮断する。
僅かに気を緩めるだけで発してしまうひとつの名前を塞き止めようと、俯いて目を閉じる。
軽く握られていた両の手は、固く握り締められた。
(リヴァイさん)
エレンが都市へ戻り、すでに1年が経つ。
彼が外を旅して変わったように都市も年月と共に移り変わって、随分と様相が変わった。
…今、エレンの自宅にはエレンしか居ない。
母の死は危惧していた通り、彼が遠方へ旅に出ていたときに齎された。
エレンがそれを知ったときにはもう、葬送でさえ手遅れで。
親戚や友人たちには、さぞ親不孝な薄情者だと思われたろう。
(母さん)
幾ら覚悟していたこととはいえ、エレンが母の死を乗り越えるには多くの時間を必要とした。
その中でひとつだけ、母の名前で都市へ贈ったものがある。
天へ召された母へ手向けた、カンパニュラとゼニアオイ。
都市では未だ栽培に成功していない、都市の外でなければ手に入らぬ美しい花。
花に込めた思いに、誰も気づかずとも良かった。
親不孝であったことは本当で、時間は巻き戻ってなどくれないのだから。
エレンの父は総合研究センターの宿舎へ居を移し、『巨人症』の研究に本腰を入れた。
(父さん、何を隠してるんだろ…)
6年が経ち突然に帰ってきた息子に、彼は驚くと共にホッとしたように笑ったのだ。
ーーー果たしてくれたのか。
(果たす。いったい何を?)
誰と?
また無意識の内に握り締めていた両の手で。
左の拳に握っていた硬質な形が、掌にぐっと食い込んだ。
「…エレン?」
名を呼ばれ顔を向ければ、随分と懐かしさを感じさせる人物がこちらを見ていた。
「アニ?」
エレンが都市の外へ旅立つ前の話だ。
学生時代につるんでいた友人の1人、アニ・レオンハートがこちらを驚いた様子で見つめていた。
彼女とは卒業後に入った都市南方の訓練兵団でも一緒で、何かと付き合いも長い。
けれど旅から都市へ戻ってから、会ったのは初めてだ。
「エレン、あんた…一体いつ帰ってきたの?」
「えっ、と。1年前かな」
「はあ?!」
帰ったなら連絡のひとつくらい入れなよ!
アニの怒りはもっともで、エレンは困ったように小さく笑った。
「はは、そうだよな。ごめん」
自分の感情に嘘をつかない彼は表情を取り繕うのが苦手で、分かり易い。
そんなエレンの今の様子は、アニにとっても初めて見るもので。
「…ねえ。何でそんな、泣きそうなの」
1年も連絡がなかったという怒りが削がれるくらいに、エレンは弱々しく笑っていた。
(違う。こんなエレンは…知らない)
喜怒哀楽がはっきりとしている彼は、感情の起伏が乏しいアニとは全然違う。
それが羨ましくて、腹が立って、眩しかった。
「そんな顔に見えんのか」
やはり泣きそうに笑ったエレンに何があったのかと訊けるほど、アニは勇敢ではない。
ただ色を失いそうな程に固く握られた拳が、痛々しく思えた。
連なる街路樹の一角で立ち尽くす彼に、そっと近づく。
「それ以上力を入れたら、血が出るよ」
教えてやれば、エレンはハッと我に返った。
彼は身体の前に持ってきた両手をゆっくりと開き、アニは彼の左の掌に在ったものの意外性に呆けた。
(指環…?)
アンティーク調の、輝きを失っていない銀色の指環。
形を損なわぬようにデザインされた片翼が、酷く清廉な印象を持たせた。
エレンが何も言わぬを良いことに、彼女はそれを己の指先に取る。
「…!」
そして即座に後悔する。
指環の内側に彫られた文字が、指環の意味を即座にアニへ思い知らせた。
ーーーto E from R
「こ、れ…結婚指環…?」
喘ぐようなアニの様子に、エレンが気づいた様子はない。
「…結婚はしてないけど。似たようなもんだったかな」
過去形?
疑問を覚えたアニが顔を上げれば、エレンはアニではなく彼女の掌にある指環を見ていた。
「…別れた。というか、あのときに別れることは分かってた」
意味がよく分からない。
アニはエレンの指環を彼の掌へ返し、代わりに彼の手を引き傍のベンチへ誘う。
きっと、立ち話で何とかなるような話ではない。
断る理由がないのか抗うことさえ思いつかないのか…おそらくは後者…、エレンは素直にアニの隣へ腰を下ろした。
彼の眼差しは指環へ注がれ、アニへ向くことはない。
「…もう、1年経つのに」
そういえば、都市へ戻ったのも1年前だと聞いたばかりだ。
「その人と別れたから、戻ってきた?」
エレンは少し考えてから、頷いた。
「俺に付き合って旅が出来るのは、5年と少しだって聞いてたから」
エレンが都市を出たのは、ちょうど7年前の今頃。
アニは彼が旅立ったことさえ、彼の父と総合研究センターで会った際に聞かされた。
(エレンがデリカシーに欠けてることは、知ってたけどね)
誰と旅立ったのかまでは、彼の父も教えてくれなかった。
ぽつ、と指環を置いたエレンの掌に雫が落ち、アニは瞠目する。
「…分かってた。未練になるのも、分かってた。だから、」
だからあの日、返したのに。
捨てることは出来ないから、どうか持って行ってくれと。
持ち去った後でどうしようと構わない、と告げたのに。
「あの人、持って行かなかった。頼んだとき頷いたのに…!!」
あの日、エレンが目を覚ましたときにはもう、リヴァイの姿は無かった。
けれど胸を焼く寂しさを噛み殺したエレンの目に指環が映り込み、喉が引き攣るほどの衝撃を受けた。
もうひとつ、エレンの名前が刻まれた金の指環は姿無く。
「どう、して…」
どうして。
何度も何度も問い掛けた。
応えが無いことなんて知っている、それでも。
ぽつぽつ、と立て続けに涙は零れ落ち、アニはついに無視し続けることが出来なくなった。
指環を覆い隠すように、己の手でエレンの手を包み込む。
(エレン。あんた、1年間そうやってずっと…?)
なんて、酷い。
エレンではない、エレンに指環を贈った"R"へ向けて、アニは雑言を浴びせた。
(あんた、エレンがこんな性格なこと知ってて態とやったんだね)
未練。
その一言に尽きる。
エレンではない、"R"のだ。
忘れられたくない、繋ぎ止めておきたい、想い続けて欲しい。
そんな自分勝手な、言葉にされないものがすべて…エレンの掌の中に収まっている。
(エレンは忘れない。この指環を捨てることも出来ずに、一生引き摺り続ける)
なんて、酷い。
声も無く静かに泣き続けるエレンの肩をそっと抱いて、アニは決意した。
…エレンの中から、"R"を消すことは出来ない。
ならば"R"がもう見ることのないエレンの未来を、"R"が知る以上の輝きに満ちたものにしてやろう。
(あんたには、負けない)
絶対に、後悔させてやるから。
アニは随分と以前から燻っていた想いの蓋を、思い切って開け放つ。
「…エレン。私の話も、聴いてくれる?」
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2013.12.15
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