GIFT.3
エレンは檻の中に居た。
手錠と足枷を嵌められ、動くことも物を掴むことも出来たが、走ることは出来なかった。
鉄格子の向こうは廃屋で、雨風は凌げるが他には壊れそうな椅子くらいしか物がない。
"商品"に傷が付くことを恐れ、人攫いたちはエレンを拘束し檻に入れてから何もしなかった。
エレンが、ただ男たちを睨みつけるだけで一言も声を上げないことも、原因だったのかもしれない。
初めこそ抵抗し声を上げたものの、エレンはそれ以上はうんともすんとも言わなかった。
その爛々とした目が男たちを気味悪がらせていたとは、知る由もない。
男たちが移動だと言い檻から出されたとき、エレンは硝子の破片を踏んで怪我をした。
自分たち以外に、まさか無機物が"商品"を傷付けるとは思わなかったらしい。
一般的な治療を施され男の1人に担ぎ上げられ、エレンは次の檻に放り込まれるまで一度も歩くことはなかった。
エレンがわざと硝子の破片を踏んだとか、その破片を服に隠し持っているとか、彼らは考えつきもしなかったに違いない。
金の眼、それも屈することを知らぬ生命輝く目をしたエレンの値段は、面白いように跳ね上がっていく。
聞いたこともない桁の数字が叫ばれるオークション会場で、エレンは静かに脱出のときを狙っていた。
中休みとなり人が捌けた"商品置き場"に、黒いフード付きジャケットを着た人間が入ってきた。
その人間は"商品"をひとつひとつ覗いて回り、そして最後にエレンの入れられた檻の前に立つ。
「…良い目をしているな、少年」
見返した男は、内緒話をするように声を潜めた。
「少年。君はここから逃げ出せると思うかい?」
エレンは目を細め、男を睨み返した。
久しく動かしていない声帯が、怒りに震えている。
「オレ、は、逃げる。絶対に」
幼い肢体から発せられるとは思えない、純然たる殺意であった。
こんなにも曇り無き殺意など、いつぶりに感じただろうか。
ほんの少し男を見上げる位置にいるエレンには、男が口の端を釣り上げた様が見えた。
「少年」
またも話し掛けられ、エレンは不審な眼差しを隠さない。
男は構う様子もなかった。
「少年、ナイフやそれに似たものは持っているかい?」
エレンはズボンのポケットに入った硝子の感触を感じながら、頷く。
すると男は愉快げに肩を揺すった。
「結構。少年、逃げるなら買われてからだ。ここで逃げても、人が多すぎてすぐに捕まるぞ」
子どもでも予測できる事態であるので、エレンは素直に首肯する。
男は己の手で、自分の首の側面をぺちぺちと叩いた。
「狙うならここだ。刺すんじゃない、"裂く"んだ。渾身の力でざっくり裂いてやれ」
首の横、と小さく呟いたエレンに、男はにやりと笑う。
「ではまたな、少年」
人間の身体の中にあんなにも大量の血が入っているなんて、エレンは知らなかった。
返り血で全身べっとりと汚れた姿を見下ろしてから、手近な窓を開け外へと抜け出す。
どこだか分からないが、やたらと小綺麗な街だった。
身体を洗いたいなあなんて思いながら一歩踏み出すと、後ろで誰かが笑った。
「クックク、盛大にやったなあ少年」
真夜中では全身黒にしか見えないが、後ろに居たのは"売り場"にやって来てエレンに入れ知恵をした男だ。
男はやたらと愉しげにエレンに近づいた。
「少年、帰るアテはあるのかい?」
エレンは少し考える。
「ある、けど、ここがどこか、分からない」
男はエレンの正面にしゃがみ込む。
「少年。君はその帰るアテを捨てる覚悟があるか?」
今までのすべてを捨てる覚悟があるのなら、その覚悟に敬意を評しよう。
エレンの眼が、今までに無く強い輝きを帯びた。
「捨てたら、アンタは何かくれるのか?」
男の目がエレンを捉える。
「何が欲しい?」
そんなもの、決まっていた。
「ケダモノどもを、ぶっ殺す力が!」
アイツら全部、駆逐してやる…っ!!!
返り血で塗れ金色を煌々と輝かせる子どもこそ、本物の獣のようだった。
* * *
1人でも生き抜けるように、エレンはあらゆることを男に教え込まれた。
…自分の身を守る術を覚えた頃、行きずりで喧嘩に巻き込まれてジャンと知り合った。
…運び屋の依頼を受けたとき、コニーと仲良くなった。
…人買いから逃れた日以来にケダモノを殺した夜、アニと顔見知りになった。
そこで初めて、この男が暗殺者であることをエレンは知ったのだ。
「あの日、俺を買った男が標的(ターゲット)だったのか?」
まさかと思い尋ねてみれば、男はついにバレたか、と茶目っ気込みで笑っていた。
人を殺す術を教わるようになり、"人体"についての知識を蓄えていった。
時々その中に"巨人"の話も混ざるようになったが、残念ながらエレンは巨人を知らず、また興味も無かった。
男が暗殺に使う武器"Schatten Schlange(シャッテン・シュランゲ)"をまともに扱えるまでに、丸1年。
『影の蛇』と名付けられたその武器を手足の如く扱えるようになったのは、さらに1年後だ。
その頃には男の"仕事場"に同行し、現場でも学ぶようになっていた。
…一度、興味本位で暗殺者である理由を男に問うたことがある。
男は笑って、『同じ殺すなら金が貰える方が良い』と答えた。
真偽の程は不明だが、エレンはそんなものか、と納得したことを覚えている。
ある日、人買い市場で常連の、幼児愛好主義の貴族を標的とする依頼が来た。
丁度良い頃合いだ、と男はその依頼をエレンに譲る。
「私と同じ方法じゃなくて良い。要は、誰にも見られず悟られず、確実に獲物を仕留められたら良い」
「…はい」
エレンの瞳の奥で燃えた炎に、男はやたらと満足気だった。
エレンが師匠(せんせい)と呼ぶようになったその男は、"Schatten Schlange"を殺害方法としている。
背後か正面か、それはどちらでも良い。
"Schatten Schlange"の先端"spitz(シュピッツ)"を、標的の首に直接叩き込む。
その殺害痕は独特で、憲兵の間ではすでに『同一犯』であり『単独犯』であることは周知の事実だ。
しかし殺害痕が独特であっても、それが何の痕なのか不明のまま、ただそういう武器を使う暗殺者が居ることしか判明していない。
エレンは、師とまったく同じ仕留め方をする気はなかった。
標的の行動パターンを読み込みながら、袖の中に仕込んでいるナイフを1本取り出す。
「……」
エレンが初めて手にした武器は、硝子片だった。
砕けて鋭利な刃となった硝子を己の手を顧みず握り締め、ケダモノの頚動脈を切り裂いた。
(裂くのは駄目だ。めんどくさい)
リーチの短い刃物では、獲物に近づかなくてはならない。
血も大量に噴き出るし、何よりケダモノに近寄るなんて真っ平御免である。
(でも、これが良いなぁ)
けれどナイフを使うには、近づかねばならない。
鶏と卵の問答になりそうな思考を、エレンは何とか修正した。
(…後ろから殺って、ナイフはそのまま残すか)
引き抜かなければ血は噴き出ない。
ナイフを仕事の度に新調しなくてはならないが、新作造りに余念のないコニーならば大丈夫だろう。
ならば"Schatten Schlange"はどう使うか。
(動きを止めれば、外れない)
よし、と呟き、エレンは立ち上がった。
背後から"Schatten Schlange"を標的の肩へ打ち込み、硬直し的となった頚髄にナイフを突き立てる。
始めの内は背後へ忍び寄り突き立てていたナイフも、次第に距離を置き投擲する形に変化した。
いつしかそれはエレンのスタイルへと確立され、師の男とは別に暗殺者が居ることを内地へ知らしめることとなった。
エレンに暗殺術を仕込んだ男は、まるで愛し子を見守る眼差しで微笑んだ。
「本当に、素晴らしい拾い物だったよ。
あの憎悪が巨人に向いていれば、あの子はきっと英雄になったろう」
ウォール・シーナ、貴族街ではなく庶民街の片隅で、男は出された紅茶を味わう。
向かいに座る男の旧友は、相槌に困るよと笑った。
「もう過去形かい? まだ子どもなんだろう?」
「そうだな。15くらいかな」
地下街では、大人も子どもも強くなくては生き残れない。
旧友にせがまれ拾い子の話をしてみたが、話してみれば拾い子はなかなかに得難い才能の持ち主だ。
あの子が喧嘩に巻き込まれて知り合った少年は、その年頃では追随を許さぬ情報通になった。
あの子が運び屋をしたときに仲良くなった少年は、抜群の切れ味と扱いの刃物を造るのが趣味だった。
あの子が私怨で再び人間を殺したとき、そこに居合わせたのは顔見知りの同業者の娘。
これはもしかして、と男は空になったティーカップをソーサーへ戻す。
「私と君も、"同じこと"かもしれないな」
何の話だ? と首を捻った旧友にまた笑えば、上機嫌だなぁと苦笑された。
男はお茶請けの菓子をひとつと角砂糖を2つくすねて、話は済んだとばかりに立ち上がる。
「じゃあな、エルヴィン。生きていたらまた会おう」
「そうだな。次はぜひ、君の自慢の弟子にも会わせてくれ」
考えておくよ、と言い置いて、男は旧友へ手を振りその場を後にした。
* * *
エルヴィン・スミスが旧友と顔を合わせたのは、それが最期だ。
ウォール・ローゼ南方訓練兵団、第104期卒団予定兵の一覧を見て、エルヴィンは僅かに口角を上げる。
「英雄になるかもしれないぞ」
お前の弟子は。
楽しみだと笑い、卒団兵のリストを処理済み書類の山へ乗せた。
GIFT:
生き抜く運(英)/呼び水(独)
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2013.7.20
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