Got ist tot.
(3/少年たちに近づきたくて、少女は足掻く)
ヒストリアの日課に"エレンたちと共に食事を摂る"という事項が追加され、はや数日。
始めこそ緊張しっぱなしであったヒストリアだが、数日もすれば慣れが入る。
エレンも、ミカサも、アルミンも、朗らかな少年たちだった。
まるで友人のように接してくれるエレンたちが、彼女には本当の"救い"と思える程に。
教会の住み込みではあるが、ヒストリアは週に3回スクールへ通っている。
宿題が多く出された日の顔色が殊の他悪かったらしく…事実、解らない部分の方が多い授業だ…エレンに心配されてしまった。
「ヒストリア、顔色悪ぃけど大丈夫か?」
エレンは大概において、言葉と感情が一致している。
掛けられた言葉もこちらを窺う表情も、何よりその翠の眼が、ヒストリアの体調を慮(おもんばか)っていた。
それが嬉しい反面申し訳なく、眉を下げるしかない。
「すみません…。スクールで出た課題が多くて、明後日までに全部解けるかなって心配で…」
上手く理解出来ない部分の多い教科なので、と曖昧に笑うと、エレンの左隣に座るアルミンが口を開いた。
「それ、何の教科かな?」
「え? えっと、数理1と2です」
「それなら僕分かるよ。一緒にやってみようか?」
「えっ?!」
思わぬ助けが目の前に現れ、大きな声が出てしまった。
はっとして口を塞げば、エレンが可笑しそうに笑う。
「ミカサもアルミンも、すっげー頭良いんだ。教えてもらうにはアルミンだな」
でも俺たちの知識、百年前だぞ?
エレンのもっともな疑問に、分かってる、とアルミンは頷いた。
「ねえヒストリア。君の使っている教科書…昔のもので良いんだけど、僕らに貸してくれないかな?」
そろそろ、お喋りだけでは暇を潰せなくなってきたしね。
「なら、私が取ってこよう。女の部屋に男を入れる訳にはいかない」
それにたぶん、力も足りないだろう。
当たり前のように手伝いを申し出られてしまい、ヒストリアはぱちぱちと瞬きを繰り返すのみだ。
その間にも話は進んでいる。
「じゃあミカサ、適当に見繕ってきてよ。何でも良いから」
「分かった」
ミカサがアルミンに肯定を返したところで、ようやく遣り取りの理解に及んだ。
「えっ、大丈夫です! 本を運ぶくらい…」
するとエレンの苦笑がヒストリアに向けられた。
「良いんだよ。身体を慣らすにもちょうど良いしさ」
部屋から出てない俺が言うのもなんだけどな。
彼の発する感情は真っ直ぐで、きっと怒りを代表とする負の感情であっても、相手に嘘偽りなく届くのだろう。
だからこそ、理不尽に感じてしまう部分もあるわけで。
(その笑い方は、ずるい…)
ヒストリアは、『エレン様』のこの笑みにとてつもなく弱かった。
* * *
中々に高い位置にある部屋から見上げる空は、そこそこ広い。
街明かりのほとんどが消えた時刻、エレンは開けた窓から星空を眺めていた。
服の首元から革紐を取り出し、通された『鍵』を1つ、夜闇に翳す。
…年月と手垢でやや色褪せた、鈍い金色の鍵。
エレンが首に掛ける革紐は2つあり、それぞれ1つと3つの鍵が通されている。
今手にしているのは、3つの内の1つ。
「ウォール・シーナ」
返却された鍵、人類の地始まりの鍵。
誰に聴かせるわけでもない呟きを、ミカサとアルミンはただ静かに斟酌(しんしゃく)する。
「…行くの?」
端的な声の主を、エレンは振り返らない。
翳した鍵か、それとも夜空か。
外に意識を向けたままでいる彼の背を、2人は見守るのみだ。
「今日はもう無理だ。明日、ヒストリアに街を案内してもらったら、」
半端に途切れた言葉の先が、紡がれることはない。
それでも2人は、エレンの求めるものを読み取る。
「分かった」
「確か、借りた本のどこかにシーナの地図があったはずだ」
積んだ本をパラパラと開き直す音を背後に、エレンはやはり星空を仰いでいる。
* * *
「ここが私の通っているスクールです。今日は先生方も休みなので、全部閉まっちゃってますが…」
翌日、ヒストリアはエレンたち3人にシーナの街を案内していた。
案内と言ってもヒストリアの行動範囲など限られていて、学校と市場、それに王城の周辺くらいだ。
「女しか通ってないのか?」
「はい。それに私はシスター見習いですし」
そんなものか、と納得して、エレンは空を見上げた。
「…狭い空だな」
ぽつんと零された小さな声は、被るフードに遮られることなくヒストリアにも届く。
(狭いんだ…)
ヒストリアには、彼の知っている空がどれだけ広いのか想像も出来ない。
ウォール・シーナはその特性上、人類の生息地を囲う中でもっとも狭い。
ゆえに、場所を選べばウォール・シーナ全体を視界に入れることが可能だった。
「壁には近づけるのか?」
エレンの問いに、ヒストリアは頷きを返す。
「普段は憲兵の方が通してくれませんが、そのブレスレットがあれば大丈夫です」
彼の左手首を指差し、その指で壁の一部を指し示す。
…ウォール・シーナ、ローゼ、マリアの紋章がストーンカメオになった、チェーンブレスレット。
エレンとミカサ、アルミンは、教会から出る際に司教からこのブレスレットを手渡されていた。
不幸なことに、これが宝飾品として値が付けられない程の価値を持つと察したのはアルミンだけである。
「ちょうどこの方角に、シーナ守護の憲兵団の詰所があります。
そこの隊長さんは敬虔な信者の方で、よく本山へお祈りに来られるんです」
ウォール・シーナへ近づくには、必ずいずれかの憲兵団詰所を通過しなければならない。
ここはウォール・シーナ内部のため、詰所は検問の役割も担っていた。
「今ヒストリアの言った詰所であれば、余計なことは聞かれないってことかい?」
アルミンの問いにも、ヒストリアは肯定を返す。
「はい。他の詰所でも、そのブレスレットがあれば大丈夫なはずですが…」
子どもがこんなブレスレットをしていることに、疑惑の目が向けられることは確かだろう。
ヒストリアの言葉は、有り難く使わせてもらうことにする。
「あと、教典を持っていれば怪しまれないかと」
持っていない、と言おうとしたエレンの目の前が、分厚い本で遮られた。
反射で手に取ると、向こう側からミカサの顔が覗く。
「これを持っておけば良い。出るときに司教が渡してきた」
「…準備良いな」
これは素直に喜べばいいのか。
微妙な表情を浮かべたエレンに、ヒストリアはムッとして唇を尖らせた。
「当然です。エレン様に何かあったら、私たちは死んだって償えません」
こんな明るい日の下で話すことではないだろう。
(でも、エレン様は解ってない)
教典に秘され、一部の信者にのみ伝えられてきた『エレン様』。
自身がどれだけ尊い存在なのか、この人はちっとも自覚などしていないのだ。
少なくとも今のヒストリアの日常は、エレンを中心に刻まれているのに。
使いを頼まれていたヒストリアと別れ、エレンたちは当てもなくシーナの街を歩く。
「あんまり変わんねぇな…」
街並みにぽつりと零した感想は、空気に溶けて即座に消える。
アルミンが何かを見つけ、エレンの袖を引いた。
「見て、エレン。あれが"立体機動装置"だ」
見回りだろうか、憲兵が2人歩いている。
その憲兵の腰の辺りに、大きな白い長方形の箱が下がっていた。
よくよく見れば、その箱はベルトで身体に固定されているらしい。
「重そうだな」
「後ろの装置は何?」
通りを過ぎて行った彼らの後ろ姿に、ミカサがまた別の装置を見つける。
「あれも装備の一部で、ガス噴射装置だ。ガスの力で、空を飛ぶんだ」
最後の一言が、エレンの琴線に触れた。
「えっ? 飛べるのか?」
アルミンは大きく頷く。
「そうだよ、人間が"飛ぶ"んだ! 巨人と戦う為に発明された武器なんだよ」
へえ、と憲兵を見送るエレンの瞳に、はっきりと好奇心が光っている。
立体機動装置を解説する文献を見つけたときの自分を思い出し、アルミンはこっそりと笑った。
(当然だ。僕たちだって、空は飛べない)
『人』であることを辞めた僕らでも。
* * *
空が黄昏れる。
壁に囲まれた世界の日落ちは早く、道行く人々の顔が影に隠れていく。
そんな時刻、ウォール・シーナ南方に設けられた憲兵団の詰所を、少年が1人通過した。
フードを被った顔ははっきりとせず、背の高さと線の細さが少年と判断させるに至る。
詰所を預かる隊長格の男が目的を尋ねると、少年は声変わり前のアルトテナーで、ただ一言のみを発した。
「ウォール・シーナへ」
見れば、右手に教典を抱えている。
だが、如何に信心深い信者といえど、ウォール・シーナはローゼやマリアとは違う。
…王都を守る、最後の砦。
司教や司祭以外の許可を絶つ言葉を返そうとした男へ、少年が左手を差し出した。
「!」
少年の左手首に嵌められた、ウォール教のストーンカメオ。
本当に一部の者しか身に付けることを許されない、ウォール教特権階級の証。
フードに隠れた影の奥で、鮮やかな翠の眼が男を注視している。
「どうぞ、お通りを」
男がそれ以上の言葉を吐くことは、無かった。
詰所を過ぎ、ウォール・シーナの壁を目の前にする。
「…よう。百年ぶりだな」
壁に手を触れ、エレンはそんな言葉を口にした。
ややあって、彼の口元が苦笑に歪む。
「うるさいな、俺はもっと寝たかったんだよ」
壁を見上げ、苦笑は穏和な笑みへと変化する。
「分かってるよ。…じゃあな」
足はそのまま、壁に沿って右へ。
50m程進んだところで、再び壁に手を触れた。
「…開口一番、同じこと言うなっての」
「大丈夫。何もねーよ」
「ああ、じゃあな」
また50m程を壁沿いに歩き、適当なところで壁に手を当てる。
「だから、お前もうるさいってば」
「ん? うん、あいつらも元気」
「ははっ、分かった。じゃあな!」
また、50m。
さらに50m、その後も。
エレンが繰り返す行動も、一人芝居のような声音も、解る者など誰一人として居ない。
居なくたって、エレンは一向に構わない。
暗闇に慣れた目が、壁に設けられた違和感を見つける。
日が壁向こうに沈む直前に火を入れたランタンを近づければ、小さく簡素な扉があった。
「やっと見つけた」
扉の作りに似合わぬ、大振りの錠前。
彫られているのは、片方の掌を中央に広げられた翼。
エレンは首に下げた革紐から3つの鍵が連なる方を取り出し、1つを錠前に差し込む。
キィ、と引き攣れた音を上げた扉は、久方ぶりの来訪者を招き入れた。
暗闇に、ランタンの明かりが入り込む。
むわりと蒸した空気は不快感を湧き起こすのみだ。
自分の足音がやけに響く中、エレンはがらんどうな空間でランタンを掲げ歩いた。
背後では入ってきた扉の形が、うっすらと光を帯びている。
エレンは扉から一直線に歩いているが、行き止まりがすぐ傍にあることを初めから知っていた。
「あった」
行き止まりの壁、ランタンの明かりに浮かび上がったそれは、梯子。
「梯子かぁ…。階段が良かったな」
試しに目の前の段を掴んでみると、予想に反して不快な触感がない。
『鍵』の管理者は、管理者の役目をきちんと果たしているようだ。
「よっ、と」
片手にランタンを下げ、エレンは梯子を登り始める。
しばらく登って片手は危ないなあなどと思い始めた頃、梯子を固定している柱に鈎(かぎ)が引っ掛けられていることに気が付いた。
どうやら、ここの管理者も同じことを思っていたらしい。
それから何分経ったか。
梯子が途切れ、天井に行き先を遮られた。
周囲を照らすと見覚えのある彫刻がきらりと反射し、錠で閉じられた出口であることが分かる。
ランタンを鈎へ引っ掛け、エレンは先程使用した鍵をもう一度取り出す。
カチン、と外れた錠をランタンと同じ場所へ掛けると、天井に片手を当てぐっと押し上げた。
持ち上がった天井はガタンと音を立て、待ってましたとばかりに隙間から夜風が吹き込む。
外へ這い出せば、ぐっと近づいた星空。
ぽつぽつと明かりの浮かぶ街並みは、壁の影に圧されて尚暗い夜の底に沈んでいる。
ウォール・シーナの壁上から眺めたこの国は、まるで誰かの造った箱庭のよう。
(箱庭よりも、精巧なドールハウスか)
シーナの外側、ローゼとマリアの壁のおかげで、地平線も見えない。
壁に登ったことで空は広くなったが、それ以外は何も変わらず。
「外まで遠いな…」
金色に輝く瞳は、隠れた月の代わりに街を見下ろしていた。
* * *
「シガンシナ地区から端を発した、百年の安寧の終わり…か」
白み始めた東の空を見ながら呟いたアルミンに、ミカサは手にした本から顔を上げる。
目が合うと、彼はいつものように笑った。
「エレンが起きた日のことだよ」
彼はこう言った。
『あんまりにも騒がしいから、起きるしかなかった』と。
ミカサは当たり前のように言葉を吐く。
「エレンの安眠を妨害したのは、巨人。でも、エレンを苦しめるのはいつも人間」
早くここから出てしまえば良いのに。
声として発されることの無かった言葉を、アルミンは正しく理解している。
「そうだね。いつもそうだ」
だからこそ、僕とミカサが居るんだ。
新しい地図を広げたアルミンをもう一度見つめて、ミカサも言葉を入れ替える。
「そう。私とアルミンは、エレンと一緒に居るの」
『人』であり、『人』ではない。
『人』であったからこそ、『人』ではないことを選べた。
「外に出ることは問題ないよ。ただ、出る"まで"が問題だ」
ミカサは椅子から立ち上がり、アルミンが広げた地図を見下ろす。
…ウォール・シーナ、ウォール・ローゼ、ウォール・マリアに囲まれた、人類最後の土地。
アルミンは手にしたマーカーで、ウォール・マリア最南端の突出地区へ×印を入れた。
「ヒストリアに聴いた話だと、ウォール・マリア全区は放棄された」
ウォール・マリアの肖像に、大きく×印を入れる。
「ローゼの放棄も、きっと時間の問題だ」
やはりミカサには興味が湧かない。
「それがエレンと何の関係があるの?」
「言っただろ? 出る"まで"が問題だって」
意味を掴みかねているミカサへ、アルミンは続けた。
「今、エレンはウォール・シーナに登っている。じゃあ、次にエレンが行くのは?」
「ウォール・ローゼ」
「その次は?」
「ウォール・マリア」
何を当たり前なことを、と言いたげなミカサに、さらに続ける。
「さっき言ったこと覚えてる? "ウォール・マリア全区は放棄された"」
ようやく彼女も思い至ったようだ。
眉間に皺が寄っている。
けれど何事か言葉を発する前に、彼女はアルミンの後ろ、窓の向こうを見遣った。
「…エレンを迎えに行く」
アルミンも再び窓へ視線をやり、頷く。
「夜が明ける前に見つけられたら良いけど。僕はここに残るよ」
「うん。そうして」
部屋を出るミカサを見送って、アルミンの視線はすぐに地図へと戻された。
「…外まで遠いなあ」
自分たちにとって、人類を守る『壁』は本当に障害物でしかないのだ。
エレンの住まう部屋の扉、そこへ通じる中階の扉、さらに地上階の入り口の扉。
すでに3つの扉の鍵は役目を終えており、ミカサは遮られること無く地上まで階段を降りてきた。
1階へ降りて礼拝堂に繋がる扉から中を覗くと、本来ならば無いはずの姿を見つけて軽く目を見開く。
「ヒストリア?」
シーナ、ローゼ、マリアの肖像を掲げた祭壇から、4列目の長椅子。
まだ薄暗い礼拝堂で、彼女の姿は溶け込むことなく浮かび上がっていた。
ヒストリアはミカサの声にパッと顔を上げ立ち上がる。
「ミカサさん! エレン様は?!」
駆け寄って来るなり勢い任せに問われ、ミカサは瞠目する。
彼女が事情を知らないと判断したか、ヒストリアは続けた。
「さっき、夜勤で交代のシスターが言ってたんです。エレン様が戻って来てないって」
どうしよう、エレン様に何かあったら!
泣きそうなくらい必死な彼女の姿を見れば、大部分の人間が力になってやろうとするだろう。
エレンとアルミン以外に興味のないミカサですら気にするくらいには、ヒストリアの可憐な容姿は威力を持っている。
…もちろん、心配されているのがエレンであるというプラス要因は否めない。
ミカサからしてみると甚だ見当違いの心配であっても、無いよりは余程好ましかった。
だからこそ、口を突く言葉があるわけで。
「今からエレンを迎えに行くけど、あなたも行く?」
ミカサの問い掛けに一瞬呆けたヒストリアは、次には当然とばかりに頷いた。
空は明度のグラデーションを描いている。
壁の向こうでは太陽が顔を出しているのだろうが、壁内しか知らない者はそれすら常識外にある。
半歩後ろを歩く彼女はどうだろうか、などとミカサは脈絡もなく考えた。
「あの…ミカサさん?」
憲兵団の詰所はそっちじゃないですよ?
ヒストリアがミカサの歩む方角に戸惑い声を掛けてくるが、足を止めることはない。
「説明するのも足止めされるのも面倒。それに、エレンに会うならこっちからの方が近い」
大通りを横切り、壁に沿い森の様相をした一角へ分け入る。
戸惑いを見せたヒストリアだが、ミカサが振り返る気もないことを悟ったか、がさりと木立へ足を踏み入れた。
迷いなく茂みを進む姿を、小走りで追い掛ける。
しかし不意にミカサが立ち止まり、その場へしゃがみ込んだ。
彼女はヒストリアにも同様にするよう身振りで示し、口元に人差し指を当てる。
指示に従い、念の為にと自分の右手で口も塞いでしまう。
前方の木立へ目を凝らせば、人影が行き過ぎる様が見えた。
(憲兵の人…?)
些か下品な笑い声がふたつ。
こちらに気づく様子など微塵もなく、人影と声は遠ざかる。
微かな舌打ちが聞こえ、ヒストリアは驚いた。
「あれのどこが兵士だ?」
忌々しい。
吐き捨てたミカサは音もなく立ち上がり、また木立の間を縫っていく。
彼女の背を見つめながら、ヒストリアは思った。
(あんな表情も出来る人だったんだ…)
ヒストリアにとって、ミカサは揺るぎないことは分かれど人間的な部分が分からぬ人だった。
彼女はとても強く…主にアルミンに聞いた話だが…、そして『エレン様』の為に在った。
だから、彼以外のことで表情が動くことはないのだろうと。
(憲兵の人たちの"あれ"は…シスターや街の人もよく言ってる)
昼から酒を飲んでいるだとか、路地裏で如何わしいことをしているだとか。
全員がそうだとは言わないけれど、一角獣の紋章に全幅の信頼を寄せることは出来ない。
…目前に『壁』が見えた。
「これが、ウォール・シーナ…」
思わず壁に沿って視線上げると、壁の端が見えた辺りで首が痛くなってしまった。
視線を元の位置に戻すと、ミカサの姿が無い。
「えっ?!」
慌てて周囲を見回し、壁沿いに随分先を歩いてしまっているミカサを見つける。
今度こそ、ヒストリアは走って彼女を追い掛けた。
そのミカサが途中で足を止めたので、もしかして待ってくれるのだろうかと期待する。
(あ、違った)
が、予想通りというか何というか、そんな訳は無かった。
彼女の視線を辿れば、シーナの壁に溶け込むように造られた扉がある。
ヒストリアの目は目立たぬ扉の、取っ手部分に吸い寄せられた。
(あの錠は…)
右の掌の両側に翼を描いた錠前は、ヒストリアが管理していた扉のものと同じ。
錠は外され、錠の金具を通す穴にぶら下がっている。
「これは…」
なぜ、壁に扉が?
巨人の侵入を防ぐため、開閉可能な門はすべての『壁』に四方のみであるはずだ。
「この扉は、向こう側に繋がっているわけじゃない」
ヒストリアの疑問を見透かしたように、ミカサが呟く。
彼女の視線は扉から動かない。
「この扉は、エレンの為だけに造られたもの」
キィ、と扉が揺れ、開かれる。
「お、ミカサ。よく分かったな、俺が出てくる場所」
扉からそっと顔を出したのはエレンだった。
彼は周囲に他の誰も居ないことを確認し、外へ出てくる。
錠を元通りに掛けるエレンの後ろ姿を見つめながら、ミカサは答えた。
「だって、同じでしょう?」
鍵を掛け終えたエレンが、こちらを振り向きながら首を傾げる。
「何が?」
ミカサの眼差しが、ふっと緩んだ。
「前もそうだった。壁に辿り着いたら、エレンは右に行った」
それに、一番近い扉はここだった。
数秒宙を泳いだエレンの目元もまた、懐かしそうに細められる。
「…そっか。そうだな」
彼らの間で為される遣り取りは、彼らしか知らぬ世界の出来事のようで。
ヒストリアはただ、息を殺してそこに立っていた。
「ヒストリア?」
こちらに気づいたエレンの呼び掛けに、ヒストリアはビクリと肩が震えた。
「どうしたんだ?」
こんな処まで、と続いた言葉に、ミカサが返す。
「エレンが帰ってこないから、心配で礼拝堂に居た」
だから連れてきた。
ヒストリアには何が『だから』に繋がるのか不明であったが、彼らの意識に自分が入ったことが単純に嬉しい。
エレンが眉尻を下げる。
「そっか。ありがとな、ヒストリア」
「…いえ、」
けれどそこで、気がついてしまった。
笑みを返すことに失敗して、ヒストリアは自己嫌悪に陥る。
(だって、これは)
今目の前にある光景に、自分などが関わって良いものではないのだと。
ウォール・シーナに設けられた扉は、エレンの為に在る。
錠に描かれているのは、掌に両翼。
つまりヒストリアが管理していた『鍵』と同じであり、彼女とは別の管理者が居るということ。
己(おの)が『鍵』の他に立ち入ることは、許されていない。
「エレンは、エレンにしか出来ないことをしている」
不意に声が聞こえ、意識を戻す。
ミカサの黒耀の眼が、じっとヒストリアに注がれていた。
エレンはすでに歩き出しており、木立に分け入ろうとしている。
「エレンが何をしているのか、それは貴女には関係ない。
でも人間は、そう言ったら勝手にエレンを恨んで、負の感情しか向けなくなる」
「そんなこと…っ」
ありません、と続けようとしたのに、ミカサの視線がそれを拒んだ。
恐怖さえ湧き起こす、相手を推し量る疑いの目が。
「じゃあ、なぜ傷ついたような顔をしているの?」
「…!」
ひくり、と喉が強張った。
戦慄く唇をどうにも出来ず俯いたヒストリアを、ミカサはただ見つめていた。
「人間は、すぐ忘れるけれど。ひとつだけ、覚えておいて」
初めて聞く、抑揚の乗った声だ。
ヒストリアは俯けていた顔を上げる。
ミカサの眼には、情けない表情をした自分の姿が小さく写っていた。
「エレンが貴女に何も言わないなら。貴女の問いにエレンが答えないなら。
それはエレンの為ではなく、すべて貴女を守る為にある」
呼吸の仕方を、忘れた。
棒立ちになったヒストリアの脇を、ミカサが通り過ぎる。
「貴女は信用に値するの?」
すれ違いざまに囁かれた問い。
それは、ミカサがヒストリアに与えた"解"の重さ。
どんな愚かな頭であろうと理解できる、天秤の振り子。
(それなら、私は)
振り返る。
凛と立つ黒髪の少女の後ろ姿に、叫んだ。
「私は、守ります…!」
叫んだ少女の瞳は決意に燃え、容姿からは想像もつかぬそれは敵愾心と大差なかった。
ミカサの足取りが、心なしか軽くなる。
(それで良い)
彼女はミカサに嫉妬したのだ。
人間であるがゆえ、人間であるからこそ。
ミカサとアルミンは、『人』であることを捨てた。
それなりに人並みの生活も、友人も、家族も、"幸せ"と云われる定義も、何もかも。
人間として生きて死ぬ"人生"そのものを天秤に掛け、2人はエレンを選んだ。
『…もう、これ以上は何も要らない』
泣き笑いをしたあの日のエレンを、ミカサは今でも鮮明に思い出せる。
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2013.6.19
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