Got ist tot.
(4/何者でもない少年と、少年が見惚れた翼)
掌に両翼の描かれた錠前と、鍵。
カチン、と外れた錠を取っ手に引っ掛け、エレンは壁に設けられた扉を潜(くぐ)る。
ランタンを手に梯子を登り、ウォール・シーナの壁上へと立った。
「さて、あと少し」
壁の上をひとり、歩き出す。
ウォール・シーナはウォール教の中でももっとも貴いとされ、王の勅命以外の理由で手を加えることは許されない。
ゆえにローゼやマリアに見られる、対巨人用兵器を筆頭とした"異物"が一切ない。
無機物の障害物はエレンにはさして問題ではないが、誰にも邪魔立てされないこの現状は好ましい。
ゆったりと歩きながら、いつものように話をする。
「悪い、遅くなった」
「んん? そうか?」
「うーん、俺にはよく分かんねえな」
小さく笑い声を零しながら。
拗ねたように唇を尖らせながら。
時には遠くを思い出すように、しゃがみ込んで。
自分の膝の高さ分近くなった街並みを見降ろして、エレンは金色の眼差しを伏せた。
「…変わってねえよ、なーんにも」
ぽつんと夜に落ちた呟きの答えを、知る者は他に誰も居ない。
* * *
一週間に2、3度。
該当した日の夕方から翌朝まで、エレンの姿のない日が生まれた。
けれど、ヒストリアはその理由を尋ねない。
(ミカサさんの言ったことは、きっと本当のことだから)
エレンにしか出来ないことを、ヒストリアが知って何になろう?
(知らないことが私を守ると言うなら、)
ならば、守られることが正しいのだ。
ヒストリアの小さな手で、細い腕で、守れるものなどたかが知れている。
朝の市場は穏やかな活気に満ちて、自然と肩の力が抜ける。
ウォール・シーナ内の市場だけあって並ぶ商品はそれなりに値が張るが、それだけ鮮度と希少価値は高かった。
彩り豊かな野菜や果物、意匠を凝らされた工芸品。
雑踏の中を冷やかしながら歩くエレンの口から出た言葉に、ヒストリアは慌てて彼を見上げた。
「えっ?!」
ウォール・シーナを出る、と彼は言った。
「教会に戻ったら司教さんにも話すけど」
「そんな…。どうして?」
適当な木陰に入り、腰を下ろす。
木々の隙間から見える壁を見上げ、エレンは翠の眼を細めた。
「もう、ウォール・シーナで出来ることは終わった」
ミカサとアルミンも、彼と同じように木立に見え隠れする壁を見上げている。
「ウォール・ローゼへ」
ウォール教本山の司教は、エレンの申し出に驚く素振りさえなかった。
彼がここに留まらないことを、初めから知っていたかのように。
司教はただ微笑みを湛え、首肯した。
「壁に程近い教会には、かつてエレン様の『鍵』を管理していたシスターがおります。
住処としてはそちらをお使い下さい」
お前の先輩たちのことだよ、ヒストリア。
司教に言葉を振られ、ヒストリアは希望に似た予感を覚える。
それは間違いではないと、司教は彼女へ頷いてみせた。
「お前もエレン様と共に行きなさい、ヒストリア。そして新たに学びなさい」
「は、はい…! ありがとうございます!」
頬を紅潮するに任せ、ヒストリアは深く頭を下げる。
司教が奥へ戻ってから顔を上げ、エレンの様子をそろりと窺った。
「ヒストリアが一緒なら、安心だな」
ウォール・ローゼでもよろしくな。
ヒストリアにのみ向けられた笑顔は、ステンドグラスに反射した色とりどりの光を思い出させた。
もしかしたらこの時にも、信じてもいない神様が居たのかもしれない。
「なあ、アルミン。どのルートが最適だと思う?」
部屋へ戻り、エレンはベッドに腰掛ける。
問われたアルミンは、彼には珍しく熟考の素振りを見せた。
「そうだなぁ…。広いんだよね、ウォール・ローゼって」
言い換えるなら、ウォール・シーナが狭いのだ。
ミカサが口を挟む。
「エレンの移動距離が長くなる。1箇所に留まるのは間違い」
アルミンは同意し、頬杖を付いた。
「そうだね。それから、駐屯兵団を考慮に入れないといけない」
ウォール・シーナ壁上には、一切の武装が無い。
ゆえに、『壁』とその周囲を主な勤務地とする駐屯兵団の姿は無かった。
最近は広げっぱなしになっている地図の上で、ここが、とアルミンは地図の一角に指を置く。
「ウォール・ローゼの南方突出地区、トロスト区だ。おそらくは、ローゼで一番警戒されている。
前に破られたシガンシナ区は、ウォール・マリアの南方突出地区だったからね」
「…じゃあ、南は最後に回した方が良さそうだな」
「うん。僕らの泊まる教会の位置関係にもよるけど、シーナ程簡単には近づけないかもね」
エレンはぼすりとベッドへ仰向けた。
大の字になって、照明の吊るされた天井を意味もなく見上げる。
「面倒だなぁ」
ミカサがエレンの隣へ移動し、ふわりと彼の頭を撫でた。
「大丈夫」
何が? とばかりに翠の眼がミカサを映し、彼女はこの上ない満足感を覚えた。
…その美しい眼に、己を映してもらえること。
この幸福は、何に換えることも出来ない。
「エレンが面倒だと思うものを、考えて減らすのがアルミン。エレンの邪魔をする奴を、排除するのが私。
だからエレンは、準備が整うまで眠っていれば良いの」
だから、大丈夫。
甘やかすなぁ、と少し困ったように…けれど嬉しそうに笑うエレンが、ただひたすらに愛おしい。
とめどなく溢れるこの愛で、すべてから守り抜ければ良いのに。
「エレン、眠っちゃう前に鍵貸して貰える?」
尋ねたアルミンに、エレンは腹筋で身を起こした。
「『壁』の鍵か?」
アルミンは頷く。
エレンは3つの鍵が連なる革紐を首から外し、アルミンへ放った。
アルミンは放られた鍵を危なげなく受け取り、その中から少しくすんだ銀の鍵を選ぶ。
鍵の持ち手を目の高さまで持ち上げ、二重螺旋に刻まれた模様に目を凝らした。
「…扉の数、8つで間違いない?」
「ああ。方角は分かるか?」
「うーん、…あ、45度右?」
エレンが満足そうににかりと笑う。
「さすがアルミン」
ゆったりとしたリズムを刻みエレンの頭を撫でながら、ミカサはアルミンの考えが纏まるときを待つ。
別に、それが今日でなく明日でも良いのだ。
すぅすぅと安らかな寝息を立てるエレンは、きっと今日はもう起きない。
「ヒストリアに、エレンの分はいらないって言ってくるよ」
そういえば、夕食の時間か。
部屋を出て行くアルミンを見送って、ミカサは眠るエレンを見下ろした。
(こんな場所じゃなければ)
"外"であったなら、ミカサはエレンに起きて欲しいとは願わなかっただろう。
微睡みがすべてに勝る平穏であると、身に染みる程知っているからこそ。
「エレン」
あなたを苦しめるものは、私たちがすべて屠る。
「エレン、」
その笑顔が、二度と翳ることのないように。
「私たちは、エレンが居ればそれで良い」
もう、こんな窮屈な鳥籠は、出てしまおう。
* * *
がたごとと揺られる身体が、何だか自分のものではないみたいだ。
馬車に揺られながら、ヒストリアは遠ざかる景色をじっと眺めている。
まさか、馬車に乗るようなときが来るとは夢にも思わなかった。
エレンたちが出発を決めた日、彼らは徒歩で目的地たる教会へ行くつもりだった。
急ぎの旅ではないし、子どもの足でも半日あれば辿り着ける行程だ。
…ただし、それは"ただの"子どもであればと注釈が付く。
歩いて行く予定だと軽く告げたエレンに、周りは一斉に反対した。
司教や司祭、シスター長は当然のこと。
エレンの存在を知ることとなった本山のシスターやブラザー、また裏詩篇を知る貴族も居合わせたのだから堪らない。
せめて最初の教会までは馬車を使ってくれと半ば懇願され、彼は渋々肯いたらしい。
(やっぱり、エレン様は分かってない)
聞いた話を思い出しただけで、唇が尖ってしまう。
ヒストリアは外出していて、現場を見逃した。
残念なのは居合わせなかったことではなく、エレンに自身の貴さを説く機会を逃したことだ。
(どうすれば分かってくれるんだろう)
こうした場合において、ミカサとアルミンは味方になってくれない。
歩くと言ったエレンに、馬車の方が速いし安全だとアルミンは進言するだろう。
疲れが溜まってしまうから、馬車の方が良いかもしれないとミカサも意見を述べるだろう。
しかし、それだけだ。
彼らはエレンの意思を尊重し、そしてこう行き着く。
『僕ら(私たち)がエレンを守るから、大丈夫』
ヒストリアは、百年前の彼らを知らない。
百年前に何があったのか、彼らが百年間眠っていた理由も、何も知らない。
ミカサとアルミンが『大丈夫』と断言する理由は、きっとそこにあるのだと思う。
…けれどヒストリアは尋ねない。
十年と少ししか生きていない身で彼らの年月(としつき)を追うなんて、正気の沙汰ではないのだ。
外を眺めていた視線を、馬車の中へ戻す。
馬車には種類があり、屋根も扉もあって人を乗せることが専門の箱馬車、荷物も人も乗せる幌馬車、荷物のみの荷馬車がある。
内地に比べて移動距離の長いローゼでは、幌馬車でも簡易な箱馬車である辻馬車のように人を乗せる。
空の荷台ほど無駄なものはないし、馬は貴重なため馬車の数自体が多くない。
ゆえに幌馬車は荷台に人が座れるよう、座席に似せた板が嵌め込まれていることが多かった。
今ヒストリアたちが乗っているのは幌馬車で、幌の中にはヒストリアを含めた4人と、衣服や食料といった積荷。
子ども4人の幌馬車の中は、随分と空間が余っていた。
がたごと、と相変わらず馬車は規則的な音を上げる。
(気持ち良さそうだなぁ…)
ヒストリアの視線の先では、エレンを真ん中に挟んでミカサとアルミンが寝息を立てている。
中央のエレンはうつらうつらと微睡みの境をさ迷っており、時折翠の眼が覗く。
(3人でひとつ、なのかな)
彼らの年齢はヒストリアとそう変わりないように見えるが、これが百歳の差だと誰が考えつくだろう?
言ったところで誰も信じないだろうが、シチュエーションを想像すると少し可笑しかった。
馬車に揺られて3時間、到着したのはウォール・ローゼ最西端に位置するウォール教支部。
本山の司教の話は本当で、ヒストリアより3歳以上年上のシスターは皆、かつてエレンの『鍵』を管理していたことがあったという。
ヒストリアと同じ鍵を管理していたのはこの教会の女司祭で、壮年の彼女は留めどなく涙を流しながらエレンを出迎えた。
生きている内に目通り叶うとは、と涙した司祭を見守りながら、ヒストリアもまた自身の幸運に感謝する。
(エレン様とこうして共に居られることが、こんなにも大変なことなんて)
感謝するのは『壁』でもそれ以外の神でもなく、『エレン様』に。
そして同行を許してくれた、"少女人形"と"少年人形"へ。
エレンたちは3人で1つの部屋を使い、ヒストリアはシスターたちの宿舎で寝泊りすることになった。
スクールの勉学は出来なくなってしまったが、学を付けるための教本が幾分か揃っていたので心配なさそうだ。
(どうしても解らないところは、アルミンさんに教えてもらおう)
教会を移ったとて、シスター見習いのヒストリアが行うべきことは変わらない。
(明日からは、ここのシスターだから)
1人決意をおいて、ヒストリアは眠りについた。
「エレン?」
窓辺に佇んだまま眉を寄せるエレンに、アルミンが訝しげに名を呼んだ。
呼ばれたエレンはゆるゆると首を振る。
「…何でもねえ」
ちょっと煩いだけだから。
ミカサはエレンの傍へ寄り、すでに暗闇に包まれた外を見遣った。
「破られた『壁』に近づいたから?」
エレンは曖昧に頷く。
「たぶん、だけどな」
アルミンもエレンとミカサの隣へやって来て、内地に比べると圧倒的に明かりの足りない風景を眺めた。
「この辺は家が点在しているだけだから、邪魔されることはないと思う」
街は3km先だと聞いていた。
「明日、明るい内に行ってみる」
人通りが無いと言うなら、いつ行ったって同じだろう。
そこでエレンは思い出す。
「けど、ヒストリアには言っておいた方が良いか」
彼女が自分を本当に心配してくれていることは、偽りではないのだと感じているので。
柔らかな笑みとなったエレンに、アルミンは良いことだとこっそりと微笑った。
(僕らの他に居ないより、ずっと良いじゃないか)
例え、『生』を共に出来なくても。
* * *
樹々を縫い、木の葉を散らし、時には土を抉る。
風を切る音、何かを打ち込む音、刃の滑る音。
ウォール・ローゼ南東部、ローゼ内でも有数の森を飼う土地は、今日も物騒な音で満ちている。
標的を瞬時に2体屠り、リヴァイは軽い音で地面へ着地した。
鬱蒼と茂る森の中、複数の音が未だ森を疾走している。
ワイヤーを収納する鋭い音を耳が拾い、見れば同僚の1人がへらりと笑いながら降りてきた。
「いやぁ、さっすがリヴァイ! 相変わらず速い上に正確!」
「うるせぇ。ハンジ、てめぇ何でここに居やがる?」
分隊長ハンジ・ゾエの班は、ここから2時方向に展開していたはずだ。
「いやいや、標的(ターゲット)探しに場所関係無いでしょ!」
間違いではない。
が、ハンジに限ってそれは正答ではない。
「で?」
分隊長が班を副官に任せて、何をしに来たのか。
たったの一文字で続きを即してみせた同僚に、そう来なくちゃとハンジはまた笑う。
「エルヴィンには先に伝えておいた話なんだけどさ」
森の向こう側って、『壁』でしょ? それのことなんだけど。
当たり前のことを言ってくるハンジに釈然としないながらも、リヴァイは眼差しで先を促(うなが)す。
「その『壁』の上に、人が居るんだ」
駐屯兵はわざわざ調査兵団の敷地まで見回りに来ないし、来たとしても月に一度の定期点検だけ。
憲兵なんて以ての外で、数日おきに来ている『誰か』はいずれの兵士でもないのだろう。
「しかも、見た感じ立体起動装置を身に付けていない」
「…は?」
些か間抜けな反応であったが、仕方なかろう。
あの切れ者エルヴィンですら、目を見開き2秒間も固まったのだから。
だからハンジも、今回ばかりはリヴァイを茶化さない。
「気づいたのは私と、うちのモブリット。
森の中に獣道みたくなってるとこがあるじゃない? あそこから見えたんだ」
「…で?」
それをどうしろと言うのか。
同じ一文字でも違う意味合いが込められたそれに、ハンジは珍しく純粋な苦笑を返した。
「どうも出来ないよ。ただの報告さ」
何かが起きたわけではない。
今までに無かったことである、というだけだ。
「そうか」
ゆえにリヴァイも、それ以上を求めることはなかった。
エレンが"それ"に気がついたのは、ウォール・ローゼ最東部の教会へ移った8日後だ。
街が近くになければ『壁』の上には誰も居ないと、西から北、東と移動したエレンたちは結論を出していた。
随分と長い距離を、移動してきたものだと思う。
(次はやっと南か…)
黄昏れる日の中、エレンはゆっくりと壁上を南へ歩む。
「大丈夫だよ、心配症なヤツだな」
「そうそう。あの場所は変わってなかった」
「うん、じゃあまたな」
いつものように声を掛け、答え、別れを告げる。
それが一人芝居に見えようが何だろうが必要なことで、エレンがやりたいことだった。
だからこそウォール・シーナの壁上をぐるりと一周し、今はウォール・ローゼの壁上を一周しようとしている。
(ローゼは広いな。…いや、)
シーナが狭く、やけに華美なだけか。
ウォール・ローゼは緑が多く、家々も内地で見る建物ほど大きくはない。
大きな森や湖があちこちに点在し、シーナから枝分かれした川も支流の数が倍以上になっている。
ウォール・マリアはこれよりも広く、『外』に近い環境なのだろう。
微かな異音を聴いた気がして、エレンは足を止めた。
(気のせい…じゃ、ないな)
不規則にいくつも聴こえてくる異音は、斜め前方に見える森から発せられている。
壁の影が伸び始め黒を増す森に、キラリと反射する光も複数。
じっと目を凝らせば、まだ明るさを保つ森の入口付近から次々と飛び出してくる人。
(えっ?)
各々に長い刃を手にして、腰の辺りには白い箱が両側に。
(立体起動装置…ってことは兵士?)
だが、憲兵でも駐屯兵でもないように思える。
(帰ったらアルミンに聞いてみよう)
遠目で分かりにくいが、森から出てくる彼らは当たり前のように刃を握っていた。
戦うことが常だと言わんばかりに。
「明日はもうちょっと、近くで見れるかな」
刃を握る彼らが、明日も見れるだろうか?
「それは調査兵団だよ、エレン」
「調査兵団?」
翌朝、早々に昨晩目撃した兵士の話を尋ねたエレンに、アルミンは解を寄越してくれた。
「調査兵団は『壁』の外を調査する、人類の可能性を模索し体現する兵団だ。
今は調査といってもウォール・マリアだから、正確には壁内だけど」
彼らが刃を握るのは、常に巨人と戦っているからだよ。
「立体起動装置は、障害物が多い方が戦いに有利だ。街や森は特にね。
エレンが見たのが森の中だったなら、訓練場所なのかもしれない」
「そっか。訓練か…」
もっと近くで見てみたい。
そんなエレンの心を見透かしたか、ミカサが口を挟む。
「エレン。明日は迎えに行くから」
エレンは何で? とばかりに首を傾げる。
「別に大丈夫だって」
「だめ。今まで連続で行ったことなんて無いんだから」
確かにそうだ。
エレンが『壁』に登る日は、2、3日に1度。
彼が目を覚ましてからすでに半年以上が経過したが、一度として連日となったことはなかった。
(好奇心が成せる技だよね)
調査兵団の話を聞いたエレンの目の輝きは、まさしくそれだ。
しかしエレンはミカサの言葉に戸惑いを見せる。
「だから大丈夫だって。体調の話だったら、ミカサほどじゃねーけど俺も鍛えてるし」
別に、睡眠なんて取らなくたって平気なんだから。
エレンの言葉に、アルミンは唇を引き結んだ。
(それは、その通りだ。でも)
アルミンが口を開く前に、ミカサがエレンの肩を掴み表情を険しくさせる。
「そうじゃない。それは違う。エレン、貴方は『人間』なの」
『人間』だから水を飲んで食事をするし、睡眠も摂る。
「貴方は、『人間』なの。エレン」
言い含めるミカサに、エレンは意味が掴めないとばかりに眉尻を下げた。
「お前らはそうだけど、俺は…」
その先を言わせる気は無かった。
「エレン」
アルミンがエレンを呼ぶ。
「僕とミカサを、エレンは『人間』だと言ってくれる。
けれど僕たちだって、もう『人間』の定義から外れているんだよ」
それでも君が、『人間』だと言ってくれるから。
「エレンが僕たちを『人間』だと言ってくれる限り、僕たちはエレンを『人間』だと言い続けるよ」
そうじゃなきゃ可笑しいだろ、なんて苦笑したアルミンに、エレンは二の句を継げなくなってしまう。
「……、」
発しようとした言葉は、吐息となって消えた。
ミカサはエレンから手を離し、改めて告げる。
「今日もまた行くなら、迎えに行くから」
「…分かった」
俯けた顔は、しばらく上げられそうになかった。
* * *
昨日よりも森に近い壁上から、エレンは眼下をじっと見下ろす。
(…すげえ)
広い森の中を縦横無尽に、人が人に非ざるスピードで駆け巡っている。
(いや、飛んでるんだ…!)
立体機動装置を実際に使っている場面を見たのは、ほんの数回。
駐屯兵が壁を登り降りする様を見ただけだ。
他方、この調査兵団の飛び方といったら、高揚する感情を抑えきれない。
(アルミンの言ったとおり、このスピードなら巨人の背後を取れる)
視覚で人間を捉える巨人の背後に機動性を生かして回り込み、巨人の弱点たる項を刃で削ぎ落とす。
それを可能にした"武器"は、エレンには輝かしい翼に見えた。
壁上から眺める光景を、もっと近くで見たいと思うのは贅沢なのだろう。
そもそも部外者が近づけるとは思えないので、エレンは見下ろすだけで満足することにした。
(…あ)
ひとつ、美しく飛ぶ影を見つけた。
その影は他の影に比べてひと回り大きく見え、また周りの影よりも疾く木々を縫っていく。
(大鷲みたいだ…)
まるで、鳥類の頂点に在る雄々しく気高い猛禽のよう。
『壁』の中の人間が"鷲"という生き物を知っているとは思えないが、エレンの目には無駄のない飛翔が重なって見えた。
無駄を削ぎ落とされた美しい動きはただ目を奪い、気づけばその姿ばかりを追っていた。
(あの人が、一番強いんだろうな)
調査兵団を見掛けてから、エレンは"兵団"という集団が何かに似ていると感じていた。
何に似ているのか、大鷲のように飛ぶ姿を見つけてようやく解に至る。
(この人たち、狼に似てるんだ)
もっとも強いリーダー、それに付き従う群れの者。
己よりも巨大な天敵を群れで迎え撃つ姿など、そっくりだ。
「まあ、狼も知らなそうだけど」
壁の外に出たい、と沸き上がった感情に、エレンは無理矢理に蓋をした。
壁内の日は暮れ、訓練の兵士たちが森の向こうへと飛び去っていく。
「今日はここまでか…」
ウォール・マリアの先に沈もうとする太陽に、翠の眼を眇めた。
(外まで、まだ遠い)
闇へのグラデーションを描く空と共に、エレンはウォール・ローゼを南へ下る。
* * *
それはとある日の、午前の訓練を終えた刻限のこと。
「リヴァーイ! ちょっと聞いてよ大発見だ…っぶねぇ!!」
容赦ない拳が顔面すれすれを過ぎ、ハンジは悲鳴を上げた。
既(すんで)のところで拳を避けられたリヴァイは、舌打ちを隠しもしない。
「チッ、避けてんじゃねえよ」
「避けるに決まってるでしょ?! しかも顔面とか…っていってぇええ!!」
もう一声騒いだハンジの脛にリヴァイの左脚がクリーンヒットし、ハンジは悶絶した。
痛みの悲鳴に幾らかの満足感を得たリヴァイは、それで? と彼女を即す。
「何の用だ?」
涙目になりながらも、ハンジはパッと立ち上がった。
「いっててて…。ほら、この間『壁の上に人が居る』って話したじゃない?」
「ああ」
リヴァイも一度だけ、遠目にそれらしいシルエットを見掛けていた。
「立体起動装置も無しにどうやって登ってんのかな〜って気になってさあ。
調査兵団の敷地にある『壁』、端から端まで歩いてみたんだよね」
この暇人が、と口には出さなかった。
ハンジの疑問に対する異様なまでの好奇心は、本人の美徳であり欠点である。
「まあ最後まで聞いてよ。南側から歩いてみたんだけどさ。
そしたら北の敷地の端っこの、ほら、茂みになるとこ。あそこに扉があったんだよ!」
変わった模様の入った錠が掛かっててさあ、外せるか試したんだけどダメだったよ。
「鍵がすんごい旧式で、逆にガード固いわ〜」
あははははは!
一頻り喋り切ったハンジは、じゃーね! と驚きの速さで宿舎へ駆け戻って行った。
大方、また殴られそうだと予想を付けたに違いない。
「チッ」
またも舌打ちをかまし、リヴァイも宿舎へ踵を返す。
さらに数日後。
相も変わらず、研究者肌の同僚は好奇心が尽きないらしい。
「そういえば、もう一度扉を見に行ってみたんだ。そしたら前は積もってた埃が綺麗さっぱり!
あの扉、たまに見掛ける影の主が使ってるんじゃないかなぁ?」
毎日姿があるわけではない。
かと言って、規則性があるわけでもない。
ハンジが見つけリヴァイも見掛けた壁上のシルエットは、夕刻に姿があるという程度の存在だった。
だが、2週も経てばさすがに気づく者が出てくる。
ーーーたまに『壁』の上に人が居ますけど、誰なんでしょうね?
そんな会話を耳にする回数が増えた。
つまり、僅かでも気を取られている者が居るということだ。
集中力を乱されているという意味に捉えれば、害が出ていると言えなくもない。
「何者か判れば、皆も気にしなくなるだろうね」
エルヴィンが何でもないような笑みで告げてきた時には、あまりに予測通りで呆れる気も失せた。
(面倒くせぇな)
ゆえにリヴァイは、日が落ちる頃に森向こうのウォール・ローゼを見上げる。
…次の壁外調査まで、あと14日。
今日は大掛かりな陣形を使用した訓練らしい。
一糸乱れぬ統率力が垣間見える眼下の景色に、エレンは感心しきりで熱中していた。
(もうちょっとよく見えたらなあ)
樹々が視界を塞いでいるので、姿がはっきりと確認できない。
それに、明日からは天気が崩れそうだ。
(雨の日も訓練するのか?)
エレンはエレンで、雨ならミカサとヒストリアに引き留められるだろう。
その場合、彼女たちの言うことはもっともなので外出を控えることになる。
(巨人がウヨウヨしている場所に行くこの人達は、どんな気持ちなんだろうな)
"死"が恐ろしいのであれば、そもそも調査兵団には居ないのだろう。
ならば巨人に憎悪を持つ者か。
(いや、それ持ってなかったら居ないか)
でも、憎悪の他に理由を持っている人間は居ないのだろうか?
(『壁の外』に行きたいって思ってる人は、居ないのか?)
だとしたら、何て軟弱なことだろう。
エレンがかつて"守っても良い"と思った『人間』は、もはや消えてしまったのか。
取り留めもない思考に気を取られ、気づけば訓練が終わってしまっていた。
「あーあ、よく見てなかった」
今回は飛んでいる人が多すぎて、あの大鷲のような姿をあまり見ることが出来なかった。
どんな人なのかな、なんて思いながら、エレンは立ち上がる。
明日以降しばらく来られないことを考え、少しでも南に近づきたかった。
ーーーガンッ!
唐突に聞き慣れぬ音が響き、エレンの肩がビクリと揺れた。
ビュル…ッと風を切る金属音が斜め下から近づき、併せて布のはためく音が耳に届く。
「えっ?」
大きく目を見開くエレンの目前に、バサリと降り立った"ソレ"。
刃は握られていないが、それはまさしく。
(嘘だろ…?)
エレンが大鷲と称した姿が、在った。
「おい」
続いて不意の声を投げつけられ、エレンは睨み据えてくる眼差しに悟った。
(…違う)
"コレ"は、大鷲なんて厳然とした存在ではない。
狼ほど気高い存在でもない。
「おい、お前。何者だ?」
なおも問われる言葉に答えず、エレンは己の認識を改める。
("コレ"は、猛犬だ)
問いに答えずこちらを凝視してくる、壁上のシルエットであった存在。
影に隠されぬ大きな目を丸くした顔立ちは、幼さを色濃く残す子どもそのもの。
だがその眼が、リヴァイの意識を浚った。
…黄昏の一条を差し込み、煌めく黄金(きん)。
魔物を連れると云われる刻限に、その双眼はあまりに美しく、化生染みていた。
「おい、ガキ。てめぇは何者だ?」
リヴァイにしては相当に珍しく、同じことを2度問い質す。
すると驚きばかりに彩られていた金色が不快感を映し、次いで強情さを思わせる色が宿った。
(…悪くない)
リヴァイは己が凶悪な笑みを浮べている自信があった。
「躾のなってねえガキだな」
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2013.6.30
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