その翼に、くちづけを

(白と黒の翼を持つ、翼人)




南方に広がる草原から、幾つもの煙が立ち昇っている。
黒々と、ときに灰色に。
鉄錆と肉の焼ける匂いが、酷い汚臭となって一面を穢していた。

そこは翼人と人間の、戦の痕だった。

戦場であった草原からずっと東。
巨大樹と呼ばれる有に30mを超える高さを持つ樹々に囲まれた、深い森の中。
こじんまりとした家で、人間の兵士が1人目を覚ました。
彼の名は『リヴァイ』と云った。
(何処だ、ここは…)
頭が痛む。
見慣れぬ天井、目線を横へ移せば質素な家具が置いてある。
指先と足先に力を入れてみると、難なく動いた。
皮膚を撫でる感覚からして、治療を受けたのか包帯が巻いてある。
身を起こすべく身体に力を入れると、あちらこちらが引き攣った。
それでも身は起こせたので、問題ない。
寝ていたのはベッド、脇の小窓から外を見れば鬱蒼と茂る森が見えた。
この家があるのは、日当たりが良い位置らしい。
足は曲がる、指も腕も問題ない。
立てるかどうかはやってみなければ判らないが、おそらくは大丈夫なはずだ。
「!」
人の気配に、リヴァイは咄嗟に元のように身を横たえた。
カタリ、と扉が開き、人の足音が近づいてくる。
薄っすらと開いた目に映った姿。
認識した瞬間、リヴァイの内側から例えようもない衝動が湧き出た。

ダァン! と物を打ちつける大きな音が響く。

「がっ、は…っ」
首を強く締められ、酸欠に藻掻く少年が床に張り付けにされている。
その身体を抑え込むのはリヴァイであり、また首を締めその顔を見下ろしているのもまたリヴァイだ。
「翼人…っ!」
間違えようもない殺意で見下ろす相手には、白い翼があった。
軍人であるリヴァイが戦う相手、幾多の仲間を殺してきた相手、その『翼人』だ。
羽がそこかしこへはらはらと散らばる中、つい歪んだ笑みを浮かべてしまう。
「はっ、翼人が人間を助けるなんざ、聞いたことがねぇがな」
同情か、気まぐれか。
はたまたリヴァイの顔を知っていて、利用価値を見出したか。
「答えろよ、翼人のガキが!」
リヴァイの怒声に、苦悶を浮かべながらも少年の眼が彼を見上げる。
その金色は、少年とは思えない程の意思を孕んで。
「!」
明確な殺気がリヴァイを襲った。
咄嗟に飛び退きベッドの上へ飛んだリヴァイが、先刻まで居た位置には。
枝打ちの鉈が、がっつりと突き立っていた。

「エレンに何をした、人間…!」

家の中だというのに、それは風のようだった。
リヴァイは目の前にまさしく凶器然としている鉈を引き抜き、眼前へ。
ガキィンッ! と酷い音が鳴った。
目の前で刃を交わしているのは、翼人の女。
歳は少女と言って良いだろうが、その腕力と瞳に篭もる殺意は並みの軍人以上のものだ。
「やはり人間は野蛮だ。ここで殺す!」
「その台詞、そっくり返してやるよ翼人が!」
双方が武器を構え直そうと刃を弾いた瞬間。

「止めろ2人共!!」

第三者の声が割って入った。
先ほどリヴァイが絞め殺そうとした翼人が、首を撫でながら2人を見据える。
「ミカサ、相手は怪我人だ。あと家の中で武器振り回すんじゃねえ」
「でも、エレン! こいつは…っ」
「あなたも大人しくしてください、人間の方。傷口が開いちゃったじゃないですか」
「あぁ?」
ミカサと呼ばれた少女の思考はこのとき、自分と同じだったとリヴァイは断言出来た。
「ふざけんじゃねぇぞ、てめぇ。翼人に助けられて、大人しく出来る人間が何処に居る?!」
翼人は、敵だ。
その翼で空を翔け巡り、人間を刈り土地を奪っていく!
ミカサという少女が噛み付いた。
「それはこちらの台詞だ、人間! 森を切り開き、動物も樹々も見捨てて返さない野蛮人が!!」
翼人が、人間を助けるわけがない。
人間が、翼人を助けるわけがない。
2人の憎悪の篭もる視線を受けた少年は、金の眼を眇め、叫んだ。

「おかしいのは俺じゃなくて、あんたとミカサの両方だ!」

怪我をした奴が目の前に居て、助けようとするのは間違いか?
苦しんでいる奴が居て、手を差し伸べるのは間違いか?

「それが感情ってもんだろ! それが間違いだって言うなら、間違ってるのは翼人と人間の両方だ!!」

金の眼の少年を見返して、リヴァイは呆けた。
(こいつは、何を言っている?)
助けるのは当たり前で、助けないことが間違いだと。
少年は立ち上がり、リヴァイが手に握る鉈を取り上げた。
「ああもう、包帯替えないと…。ちょっと待っててください」
リヴァイをベッドに座らせて、今度はミカサという少女の手にあるナイフを取り上げる。
彼はそこで初めてリヴァイに背を向けたが、その背の翼を見てリヴァイは目を疑った。
「薪割りありがとな、ミカサ。水汲みに行ってくれるか?」
「……分かった」
少女が渋々と家を出て行く。
包帯と鋏を手に戻ってきた少年に、リヴァイは問い掛けた。
「…てめぇ、なぜ翼の色が違う?」
少年の右の翼は白いのだが、左の翼は黒かった。
左右で色の違う翼も、白ではなく黒の翼も、何十回と戦場に出てきたリヴァイでも見たことがない。
少年は肩を竦めた。
「なぜでしょうね? 産まれたときからこれなので、俺も理由は知りません」
包帯を替えます、触れても良いですか?
問い掛けに仕方なく頷いて、リヴァイは問いを返す。
「…何で俺を助けた?」
ガーゼが血で貼り付き、剥がすのにチリリと痛みを引き起こした。
手際良く消毒をし新たなガーゼで傷口を覆い、少年は包帯を巻き直していく。
最後に小さな結び目を作り、ぱちんと鋏が包帯を断った。

「あんたが、俺の見ているところで倒れたから」

ここからずっと西の方角で、幾つもの煙が上がっていた。
森に身を潜め様子を窺っていると、単騎、駆ける姿があった。
(ああ、そういや…)
リヴァイは思い出す。
ふと意識を取り戻したときには戦は終わっていて、周りには死臭だけが広がって。
痛む身体で指笛を吹けば運良く味方の馬がやって来たので、帰還のためにその場を離れたのだ。
そこから、記憶が無い。
「…俺は人間だろう。なぜ助けた?」
「さっき言いましたよ」
「…俺じゃない人間でも、助けたか?」
「貴方である理由が要るんですか?」
「いや…。なら、翼人も助けるか?」
「当たり前です」
嘘はついていない、どころか本心そのままだ。
少年の金色の目は真っ正直に、リヴァイを見ていた。

「翼人も、人間も、助ける必要なんてない」

奥から、あの少女の声が飛んできた。
「どちらも、私たちの敵」
「…ミカサ。そんな言い方すんなって言ってんだろ」
「私は事実を言っているだけ」
「……ああ、もう」
いつものことなのか、少年は少女の言い分に首を振って口を閉じた。
彼の目線が、リヴァイへ戻る。
「俺はエレンと言います。あなたは?」
「…リヴァイだ」
名乗られては、答えるしか無い。
エレンと名乗った少年は、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「じゃあリヴァイさん。俺に敵意がないことは分かりましたか?」
頷く以外に、あるというのか。
「…悪かった」
ばつ悪く目を逸らしながら告げたリヴァイに、エレンは何が? とばかりに目を瞬く。
首、と端的に言ってやれば、彼は自分の首筋に触れて小さく笑った。
「跡が消えれば、問題ないですよ」
残ったときにはあの少女が黙っていないのだろうな、とリヴァイは悟った。



次に目を覚ましたリヴァイは、床にクッションを敷き毛布にくるまっているエレンを見つけて目を見開いた。
(この家にソファーはねぇのか?)
質素に纏められた家だ、無いことも考えられる。
だが彼がここに寝ている理由は、おそらく。
(怪我人…俺の対応のためか)
音を立てぬよう慎重に身を起こし、ベッドから降りる。
エレンの翼は折り畳まれていても毛布からはみ出て、その色をリヴァイに晒していた。
…真っ白な右翼、漆黒の左翼。
翼人は眠る際、翼を痛めないよううつ伏せか横寝に落ち着く。
翼を傷めるという意味だと、小雨覆(翼の付け根部分)の辺りを斬れば血が噴き出る。
彼らの翼は、手足と似たようなものなのだろう。
散らばる羽を踏みつけながら部屋を出れば、隣の部屋の壁にリヴァイの戦闘服とジャケットが掛けられていた。
(血の匂いがしねぇ…)
エレンが洗ってくれたのだろうか。
シャツの上にジャケットだけを羽織り、外へ出た。

鳥の囀りが遠くに聴こえる。
静かな、そして清々しい朝の空気がリヴァイを出迎えた。
出てきた家を振り返ると、小屋を3つ組み合わせたような大きさをしている。
巨大樹に囲まれた中にぽかりと空いたこの場所は、それだけで世界を凝縮したかのようだった。

しばし佇み、足を踏み出す。
小屋の程近くに小さな川が流れており、せせらぎが心地好い。
「その川を越えたら駄目ですよ」
バサリ、と羽音が降りてきた。
咄嗟に構えると相手はやや離れた位置へ降り立ち、武器がないことを示すように両手を広げた。
「僕はアルミン。エレンとミカサの幼馴染です」
金色の髪に優しげな面立ちは、一見すると少女のようだ。
リヴァイも名乗り返し、目の前の川へ視線を戻す。
「渡るなというのは?」
「罠だらけ、ってことです」
深く聞くことは止した。



数日もすれば、リヴァイはすっかり普段通りだった。
怪我人が何を! とエレンが煩いのでそこそこ控えてはいるが、落ちた体力を戻すために筋トレ。
そして欠け落ちた勘を取り戻すために、ミカサと組み手。
「怪我人の癖にミカサ吹っ飛ばすとか何! あの人ほんとに人間?!」
翼人でもあり得ねえ!
悲鳴を上げるエレンの横で、アルミンが1つの鍵をエレンへ手渡す。
リヴァイが装備していた武器を仕舞った、小さな納屋の鍵だ。
「じゃあ僕、見回りに行ってくるね。ついでにあの人の馬も連れてくるよ」
「分かった」
アルミンへ手を振り、エレンは離れて肩で息をしている2人へ近づいた。
まずはミカサに水を渡す。
「…お前が剣持ってなくて良かったって、俺本気で思った」
「次はあの首、斬り落とす」
「だから止めろって」
今日の飯の準備はミカサだよな、と確認すれば、彼女は頷き小屋へ戻っていく。
(羽が汚れてたから、後で拭いてやろう)
続いて、リヴァイへと水を差し出した。
「とんでもない身体してますね、リヴァイさん」
筋肉とかすっげぇ羨ましいですけど。
歳相応に拗ねてみせるエレンに、リヴァイは常々感じていたことを問うた。

「…なあ、エレンよ。なぜ笑っていられる?」

昨日のこと、組み手の最中にミカサへ尋ねた。
彼女が以前に言い放った、"どちらも敵"という言葉の真意を。
エレンが翼人の住む町々を、片羽が黒いという理由で追われていたことを。
酷い言い掛かりも、罵詈雑言も、少年の身には有り余る重さであったはずだ。
(なのに、こいつは)
じっと見据えてくるリヴァイに、エレンは"また"笑った。
「笑っていたら、おかしいですか?」
その目は、笑ってなどいなかった。

「憎いに決まってる。俺たちを追い出したヤツらも、俺を殺そうとしたヤツらも、全部全部全部!!」

言葉と共に増幅する殺気に、ゾクリと背筋が粟立つ。
「全部撃ち殺してやろうと思ったこともある。
どうせ俺は『異端』なんだから、何持ってたって文句ねぇもん」
翼人は人間の造った自然の理に反する道具や、特に武器を嫌う。
遠方から射殺する銃器など、彼らにとっては怨念の塊だ。
「…でも、ミカサとアルミンは違った」
ふっ、と殺気が掻き消える。
「あいつらは、いつも俺の傍に居てくれた。いつだって俺の味方だった」
俺なんて放っておけば、幾らでも幸せになれたのに。
ぽつん、と沈黙が降りる。

俯き己の手を見つめていたエレンが、顔を上げた。
拍子に金色からぽろりと涙が零れ落ち、リヴァイはぎょっとする。
涙はぽろぽろと、際限なく落ち続けて。
「……」
エレンが余りにも、悲しいことを悲しいと判らないままに泣いているから。
リヴァイは自分より幾分か背の高い相手を、抱き寄せた。
彼に傷を抉るような質問したことは、謝らない。
「…良い馴染みを、持っているな」
告げてやれば、こくりと頷く気配があった。
「俺は、あいつらが一緒に居てくれることが、奇跡だと思ってた。そしたらあいつら、」

ミカサはこう言った。
『私がエレンと一緒に居るのは、当たり前。何も特別じゃない』
その後、アルミンは言った。
『奇跡じゃなくて、エレンと一緒に居るための努力をしてる、ってところかな』

だから笑うのだろう、エレンは。
共に居てくれる2人の為に、彼は笑うのだ。
他をすべて押し殺しても、微笑う価値が彼には在ったから。
(…チッ)
リヴァイは未だ意地を張るエレンの、柔い髪を撫ぜてやった。
そして自覚する。
己が絆されてしまっていることを。

「泣け、エレン」

2人の前では泣かないのだろう。
2人の前では、決して背を向けたりはしないだろう。
「てめぇはよく頑張ってる。馴染みに誇れる者であろうと、真っ直ぐに」
おまけに、俺に啖呵まで切りやがった。
「だが、泣きたいときは泣けば良い。
てめぇの馴染みにだって、それを受け止めるくらいの度量はあるだろうが」
それでも嫌だって云うなら、今、ここで泣き溜めしておけ。
言いながら強く、自らの肩口へ彼の頭を押し付けた。

「俺が全部、隠しておいてやるから」

こんなもの、子供騙しの詭弁だ。
けれどエレンは、堰を切ったように声を上げて泣き出した。
それはまるで、小さな子どものようで。
背にしがみついてくる指の力に、リヴァイは彼の孤独を垣間見た気がした。



*     *     *



【なるほど。君に抱いた違和感は間違いではなかったか】
【抜かせ】

舌打ちを隠さず、リヴァイはペンを放った。
今の今まで、口では作戦の話をしながら、筆談でまったく違う話をしていた。
中々に疲れることだが、仕方が無い。
向かいに座る男…上官であり馴染みでもあるエルヴィンは、苦笑を隠しもしなかった。
「そういえばリヴァイ、ハンジには会ったかい?」
「いや、まだだ」
もう1人の馴染みの名前に、リヴァイは眉を寄せる。
「先発調査に行ってんだろ。まだ戻ってねーんじゃねえのか?」
同時に、目の前の紙に書き記す。
【あいつに言ってみろ。碌なことにならねえ】
エルヴィンもまた、ペンを取る。
「いや、そろそろ此処へ到着しても良い頃だよ」
【彼女は翼人に好意的だ。敵に容赦ないだけで】
知ってんだよ、んなことは。
片眉を跳ね上げたリヴァイに、エルヴィンは軽く肩を竦める。
「これは私が持っておこうか。彼女に見せてから、処分を考えるとしよう」
筆談に使った何枚もの紙をまとめ、折り畳むと懐へ入れる。
記されているのは、リヴァイの生存が絶望的であった2週間の、彼の話。
「そうしろ。俺は光り物には興味ねえ」
それを"光り物"と評した心向きが、エルヴィンには意外だった。

はぐれ者の翼人に助けられた、とリヴァイは言った。
嘘だとは思っていない。
ゆえに色の違う翼を持つ翼人の少年も、本当に居るのだと思う。

エルヴィンは、人間と翼人の混血である。
翼人の母は子を産んでしばらくで死んでしまい、彼は男手ひとつで育てられた。
運良く、と言ってしまっては何だが、翼人の血は薄く継がれた。
エルヴィンには肩甲骨に小さな羽(翼と言える代物ではない)があるだけで、父と相談を重ねた上で羽を引き抜いた。
おかげで死線をさ迷いかけたが、人間として生きている現在を思えば深刻でもない。
今でもあの激痛は、何にも勝る痛みの記憶だ。
…とまあ、そんな生い立ちを持つため、エルヴィンは翼人に対する憎悪や敵愾心が随分と薄っぺらい。
対翼人の軍人の癖に、と馴染みのリヴァイとハンジに詰め寄られた結果として、彼の生い立ちは2人も知るところだ。
知ったところで変わるような、軽い人間関係でもなかったことは幸いだった。
自身の執務室を出ると、エルヴィンはもう1人の馴染みを捜しに出掛けることにした。



*     *     *



受けた矢傷が、じくじくと芯に響く。
今回の戦いは想定外だらけで、やってられなかった…どちらも。
「…なあ、そこのにんげん」
弱いのに強い、今際の際の声がリヴァイの耳に届いた。
少し離れた処に、白い翼を煤と血に染めた翼人が倒れている。
霧が出てきた。

「なにやってんだろうなあ、おれたち」

少しの笑いと、少しの涼感、そして諦観を含んだその声は、リヴァイに焦燥を沸かせた。
それきり声の主は黙り込み、ああ死んだのかと理解する。
愛銃を手に立ち上がれば、周りには死体しか見えない。
霧の中をのろのろと歩く。
「…?」
声だ。
誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。
そちらへ足をやって、リヴァイは声の主が自身の味方であることを知った。
「エルヴィン、しっかりしろ! 馬もいるのに、あんたが気を失っちゃ意味ないじゃないか!」
ハンジの声だ、彼女は無事らしい。
装備が揺れて擦れる音に、あちらが弾かれたように武器を構える気配がした。
リヴァイは意図せず笑う。
「…今の俺なら、てめぇの弾丸でも当たるぞ」
「リヴァイ?!」
霧の中ようやく見えた彼女は、大した怪我もなさそうだった。
ハンジは血塗れのリヴァイに息を呑んだが、すぐにその顔を歪めた。
「リヴァイ、リヴァイ、どうしよう! エルヴィンが…っ!!」

騎乗していることに起因する揺れでさえ、身体のあちこちを痛覚で刺激してくる。
(いってぇな、クソが…っ)
スピードを出せない中で半馬身遅れて着いてくるのは、ハンジの馬だ。
彼女は片腕を失い失血で気をも失っているエルヴィンを、落ちぬように抱えながら馬を操っている。
他に気を配る余裕などない。
「…?」
羽音が聴こえたような気がして、リヴァイは顔を上げた。
霧が徐々に晴れてくる。

変わらず広がる平原には、ぽつぽつと樹々が生え林が点在していた。
真っ直ぐに拠点のあるであろう方角へ駆けながら、影からの攻撃を警戒して銃を左に構えている。
そうして駆け過ぎた林に、リヴァイはハッとして馬を止めた。
「なっ、わっ、ちょっ…! リヴァイ?!」
余りの突然さに、ハンジは馬を止めるのに大分距離を使ってしまった。
リヴァイはそちらを見ることなく、林の中を見つめている。

「…ミカサ?」

何とか戻ってきたハンジは、林からふわりと飛び立った翼人にバッと銃を向けた。
それを片手で制しながら、リヴァイは翼人から視線を外さない。
10m程離れたところで、翼人が舌打ったのが分かった。
「なぜお前が居る、チビ」
ハンジは状況を忘れて吹きそうになり、慌てて空いている手で口を抑える。
(ち、チビ…! リヴァイに面と向かって、チビ!!)
一瞬で湧いた翼人への憎悪は、同じく一瞬で霧散してしまった。
翼人の少女は血だらけのリヴァイを見、元気そうなハンジを見、そしてハンジに抱えられたエルヴィンを見た。
(…こいつは、エレンじゃねえ)
「私は、エレンじゃない」
リヴァイの思考を見透かしたように、ミカサが言葉を発する。
渋るように眉根を寄せた彼女の判断は、正か邪か。
ミカサはリヴァイを見た。
「…お前には借りがある、から。助けてやる」
「借り?」
リヴァイは釈然としない。
ミカサは唖然としているハンジの腕から気を失ったエルヴィンを引き取り、担いだ。
「えっ? 重くない? 大丈夫?!」
「問題ない」
こっちだ、遅れたら死ぬと思え。

言うなり背を向け高く翔び始めた彼女の後を、馬で追い掛ける。
状況にどうも付いて行けていないハンジは、並走するリヴァイに尋ねた。
「リヴァイ、あの子が前言ってた子の1人?」
「ああ。あいつに勝つのは難しいぞ、てめぇでもな」
アレは俺とタイマン張るからな。
「あんたとタメ張る?! マジで?!」
驚きを返したところで、地響きが聞こえた気がした。
ミカサという名らしい少女を追いながら、後ろを振り返る。
遥か背後…戦場であった辺り…で、自分たちの進路に対して直角に、土煙が朦々と走っていた。
愛銃のスコープを覗けば、土煙は動物のものだ。
四足歩行の大きな体の動物の大群が、横切って行く。
…ゾッとした。
「翼人が一枚上だったってこったな」
リヴァイが吐き捨てる。
もし未だに戦闘中であったなら、人間の側はあの動物たちにより甚大な被害を被っていただろう。
空へ回避出来る翼人に対して、人間は。
ハンジは銃を下ろし、キッと唇を噛み締め前を向いた。



ミカサにしては、羽音が重い。
洗濯物を干していたエレンは、あり得ない光景を見た。
…ミカサが誰かを担いでいる。
それも、人間を。
急いで近づくと、軍人らしい体格の男が片腕を失った状態で、血の気もなく気を失っている。
血止めと傷口の保護は適切で、命に別状はない。
ミカサに説明を求めようと顔を上げると、馬の蹄の音。
サッと顔色を変えたエレンに、ミカサが首を横に振って答えた。
「大丈夫」
現れた2頭の馬。
先に出てきた方の騎乗者に、エレンは目を丸くした。
「リヴァイさん?!」
もう1頭には、眼鏡を掛けた…女性? が騎乗している。
「エレン。こいつの処置はどうする?」
ミカサに問われ、我に返った。
「患部を縛ってる布はこのままで、傷口を洗ってくれ。
傷病の軟膏を塗って、もう一度こんな感じで傷口を覆うんだ」
「分かった」
ミカサへ指示を出してから、エレンは馬から降りたリヴァイへ駆け寄る。
「左肩を見せて!」
開口一番そう問うた少年に、ハンジは驚いた。
そんな言葉、医療の心得がなければ出てこない。
リヴァイは左肩を押さえたりなどしていなかったのだから。

有無を言わさず外套、ジャケット、シャツと剥がし、見えた傷口にエレンは青くなった。
(矢傷…!)
翼人の扱う飛び道具は、弓矢が多い。
その種類と用途は多岐に渡り、戦闘用のものに共通して言えることがあった。
…翼人が戦闘に使う飛び道具は、命が助かってなお身体を蝕む。
「毒じゃねえ。毒だったらとうにお陀仏だ」
そう、リヴァイが受けた矢は毒矢ではなかった。
しかしエレンの表情は険しい。
代表されるのが各系統の毒だが、毒でなくとも命は削れるのだ。
「鏃(やじり)が身体の中に残ってる! 早く取り出さないと、骨が変に癒着して腕が使い物にならなくなる…!」
そういうことか、とリヴァイは腑に落ちた。
「どおりで、抜いたときに軽かったわけだ」
「冗談言ってる場合じゃないだろ!」
エレンはハンジを見上げた。
「さっきの金髪の人の怪我、処置したのはあなたですか?」
「あ、うん。そう」
「それなら、俺の手伝いをお願いします。俺よりあなたの方が力も強いでしょうし」
突然助手に任命されたハンジは、目を白黒させながらも頷いた。



*     *     *



驚くことばかりだ。
巨大樹の中腹あたりの枝に立ち、ハンジはスコープを覗く。
見えるのは、草を食む数羽の野兎。
「ハンジさん、銃を撃つのは…」
音が森の外まで知らせてしまう、と危惧するアルミンへ、ハンジは左手に取り出した10cm程の筒を振ってみせた。
「だいじょーぶ。これを着ければね」
中距離射撃用の愛銃の先端に、筒を取り付ける。
構えて再びスコープを覗き、引き金を引く。

パシュッ!

弓を引くのと変わらぬ音が、遠くの兎を撃ち抜いた。
「…!」
大きく目を見開いたアルミンに、茶化すように説明する。
「怖い装置だろう? ハンジさん特製の消音器さ! カッコ良く"サイレンサー"って呼んでいるよ」
確かに恐ろしい。
恐ろしいが、すぐに人間たちの間で普及するのだろうとアルミンは思い直した。
「それが僕らに向けられなければ、良いですよ」
「…君は賢すぎて、ほんとエルヴィンみたいに腹黒だねえ」
だからバランスが良いんだろうなあ、なんて思う。
(驚くことばっかりだよ、ホント)
半ば転がり込んだようなものとはいえ、翼人の世話になっているとか。
敵なしとしか思えない馴染みと、タイマン張れる人物…それも少女…が居るとか。
何より驚いたのは。
(…あの、リヴァイが)
人との接触など、自分やエルヴィン相手でさえも避けて通る、あの彼が。
(エレンの頭を撫でて、あまつさえ甘えてくるのを許してる…なんて)
性欲処理に娼婦を抱くのすら渋る、あのリヴァイが!
「人って変わるもんだねえ…」
ハンジの仕留めた兎を縛り戻ってきたアルミンが、クスリと笑った。
「そうですね。僕も、ああやって誰かに甘えるエレンを見たのは久々です」
彼の両親が、生きていた頃以来だ。
アルミンの懐かしむような呟きは、彼ら3人の短くも厳しい人生を垣間見るものだった。



意識を取り戻したエルヴィンは一瞬、己が何者かすらも忘れていた。
「よお、起きたか」
薄暗い視界に聞き慣れた声。
「リヴァイ、か?」
カチリと音がして、仄かな明かりが灯る。
小さな部屋、目に見える限り質素な造りをして、窓の向こうは暗闇。
身を起こそうとしたエルヴィンは、右腕の感触がまったくないことに気がついた。
「片腕落とされたってのに、死に損なったな」
どこか揶揄うような声音に諦観を含む笑みが漏れる。
「そうだな。だがお前も似たようなものだろう?」
パッと見は何事もなさそうなリヴァイだが、そうでないことは判る。
珍しく、彼の眼差しが緩んだ。
「俺もてめぇもハンジも、当分あいつらには頭が上がんねえぞ」
このときはまだ、誰を想ってそんな眼差しをしたのか判断がつかなかった。

翌朝。
リヴァイの姿はなかったが、開けっ放しの扉の向こうから元気な顔が覗いた。
「あっ、目を覚ましたんですね!」
金色の眼をした少年だった。
「気分はどうですか? あと、腕の痛みは…?」
「いや、悪くないよ。腕の痛みも大分引いている」
「そうですか。あ、俺はエレンって言います」
リヴァイさんはアルミンと一緒に、狩りに出掛けてますよ。
ハンジさんは、ミカサと組み手やってます。
「ミカサとアルミンは俺の幼馴染です」
後で紹介しますね、と朗らかに言ったエレンへ、礼を言う。
「助けてくれてありがとう、エレン」
彼は首を横に振る。
「あなたの治療をしたのはハンジさんだし、助ける判断をしたのはミカサです」
「だが、リヴァイの治療をしたのは君だろう?」
今回も、そして前回も。

「腕は残念だったけど、生きていて良かったよエルヴィン…」
はあぁ、と大きな溜め息でもって、ハンジは馴染みの目覚めを喜んだ。
「ほんと、エレンたちには頭が上がんないねえ」
リヴァイと同じことを言うので、やはり苦笑する。
腕以外の怪我は浅く、エルヴィンは彼女と共に外へ出た。
アルミンが川で食材を洗う脇で、エレンがリヴァイに格闘術の指南を受けている。
彼も素人ではないらしく、動きはとても良い。
バサリ、とエレンの背で羽ばたかれる翼に、エルヴィンは目を細めた。
「…あの翼は、美しいね」
大して彼と話したわけでもないのに、思ってしまう。

黒と白の両方を背負う彼なら、世界がこの上なく残酷であることを知っているのではないかと。

「おい、エレンよ。せっかく立派な翼持ってんだから、有効に使いやがれ」
「うー、いきなり言われても…」
翼人が人間と同じように戦うには、翼の重さと大きさが不利になる。
となると翼を有効に扱う必要が出てくるのだが、エレンはそれが随分と苦手だった。
大抵の翼人は、ヒット&アウェイだ。
エレンはこの森から出ない、ゆえにあまり飛ぶ必要がないことも理解は出来る。
「てめぇは一生ここから出ない気か? そんなわけねぇだろうが」
リヴァイの言葉に、エレンは唇を噛み締めた。
(嫌だ。俺は…自由に行きたい)
けれど、努力で何とかなるものではないのだ。
何とかなるなら、とっくにやっている。
(あ…駄目だ、)
じわ、と目尻に浮かびそうになったものを抑えるために、強く目を閉じた。
するとそれを咎めるように、硬い指先がエレンの眦をなぞる。
「我慢するな、と言っただろう」
なんだって、この人の声音は優しいのだろうか。
ついに溢れた涙が、リヴァイの指先を伝って落ちていく。

「俺が…頑張って何とかなるなら、幾らだってやるのに…!
俺が頑張ったって、ミカサとアルミンが居たって、どうにもならないんだよ!!」

叫び本格的に泣き出してしまったエレンを抱き寄せて、リヴァイはその頭を撫でる。
謝らないのは、それが正しいとエレン自身が認識しているからだ。
…些細なことかもしれない。
けれどそれを敢えて言葉にし、エレンの内側から爆発させる。
アルミンはホッとしたように、ミカサは不服そうに、それでも安心したと言っていた。
(だが、これだけじゃ意味がねえ)
エレンには、空を翔ぶための美しい翼がある。
それなのに、エレンは自由に空を翔べない。



「私はねー、住んでた街に避難民が押し寄せた辺りからかなあ?」
食料とか住む場所とか一気に足りなくなっちゃって、何でこんな大変なことになったんだ! って。
「訓練士官だった頃かな。野営訓練していたところを襲われたんだよ」
上官が真っ先にやられてしまって、気づけば私が指揮を執っていてね。
「理由なんざねぇぞ。俺はただのゴロツキだったからな」
命の保証はねえが、軍に入れば衣食住の全部が手に入る。

『翼人を敵と定めたのは、なぜですか?』

明日の天気を聞くようにアルミンに問われ、三者三様に遠い記憶を掘り起こしたところだ。
ミカサが変わらぬ表情で呟く。
「…どれも、私たちには縁がない」
この場にエレンは居ない。
彼は小さな台所で、薬草を煎じて薬にしている最中だ。
ほんの一瞬で効能が失われてしまうので、このときのエレンは他への意識の一切を遮断してしまう。
「もうずっと昔の話だけど、村の人たちはみんな"人間は野蛮だ"と言っていた」
けれどミカサもアルミンもエレンも、本物の人間と会話をしたのはリヴァイが初めてだった。
「想像と思い込みは自由だからね」
あながち間違いでもないのだし、とエルヴィンは苦く笑う。
「私たちは、どちらにも興味はない」
ばっさりと切り捨てるかの如く、ミカサが続けた。
アルミンもまた、頷く。
「僕とミカサが考えているのは、いつだって1つだけです」

どうすれば、エレンは自由に翔べる?

ミカサがエレンを手伝いに行き、リヴァイはアルミンと狩りに出掛けて行った。
「ところでハンジ」
小屋の外で伸びをして、同じく身体を解すハンジへエルヴィンは尋ねる。
「リヴァイのアレは、どう思う?」
すると彼女は、にんまりと人の悪い笑みを浮かべた。
「実験してみる?」



今日は、星明かりが少し煩い。
隣にあるあどけない寝顔が星明かりに照らされぬよう、リヴァイは己の身体で影を作ってやる。
(あのクソメガネが…)

リヴァイがアルミンと戻ってくると、作業を終えたらしいエレンとミカサも小屋から出てきた。
すると何を思ったのか、ハンジはアルミンを手招きする。
「何ですか?」
警戒する理由もなく歩み寄れば、彼女はがばりとアルミンを抱き締めた。
「?!」
「おお、アルミンちっちゃいから抱っこしやすいね!」
うん、可愛い可愛い!
丸い頭をぐるぐると撫で回せば、照れて真っ赤になっていたアルミンが、擽ったそうな笑みに変わる。
「ふっ、あははっ、止めてくださいよハンジさん!」
「良いんだよ、子どもは可愛がられてなんぼだからね!」
すると、背後で殺気を飛ばしていたミカサから、鋭い空気が掻き消えた。
その隙を逃さず、アルミンを開放したハンジは彼女の頭を撫でる。
驚き見つめ返してくるミカサに、眦を和らげた。
「ミカサは強いけどやっぱり女の子だし、思いっきり着飾らせたいよねえ」
エレンとアルミンを守って、エライ、エライ!
頭を撫でながらやんわりと抱き締めてやると、彼女は巻いた赤いマフラーに顔を埋めた。
頬がやや上気していたので、喜んでいたのだと思う。
そしてハンジは、最後にエレンを抱き締めた。
「ちょっ、ハンジさん?!」
抗議なんて無視だ、無視。
「エレンの翼はね、私はとてもうつくしいと、そう思う」
ピタリ、とエレンの抵抗が止まった。
「そう思ってるのは私だけではないけど、でもそれを、エレンは誇って良いんだよ」
世界でただ1人違う意味は、まだ解らなくても。
わしわしと頭を撫でてやれば、泣きそうだけれど嬉しそうに、エレンは笑った。

3人を猫可愛がりしたかったのは本当であろうが、ハンジの真意はそこには無い。
『ねー、リヴァイ。何でエレンのときだけ、そんな不機嫌になったんだい?』
判ったような顔で、なのにどこか喜色を浮かべて。
(余計なお節介なんだよ、クソハンジ)
これは不味い、そう思ったときには遅かった。
ただの庇護欲だろうと思っていたものは、そんな簡単に終わるものではなかったのだ。
指先を伸ばし、エレンの頬をなぞる。
(…エレン)
頬を撫でた手をエレンの背へ回し、細い身体を抱き込むように目を閉じた。

手を、伸ばすには。
エレンの抱えるものが、重過ぎた。



(…また、一緒に寝てる)
朝一番に目覚めるミカサは、開きっぱなしのエレンの部屋の扉から中を覗いて沈黙した。
リヴァイに抱えられるようにして丸まっている、エレンの姿が見える。
…何もない、それは知っている。
本来ミカサたち3人が住むこの家は小さく、現状で寝床が足りないのも当然。
リヴァイは怪我人なので、エレンは床で寝ようとする。
彼は口で言っても訊かないので、リヴァイが無理やりベッドに引き上げる顛末を目撃した。

ミカサは、態度で表すほどリヴァイを嫌ってはいない。
(あいつなら、)
リヴァイになら、エレンを任せられるんじゃないかと思う。
どんなときでも、全力でエレンを守ってくれるんじゃないかと。

自由であれば何処までも翔んでいってしまうエレンを、時に強引に止められるのではないかと。

かさり、と衣擦れの音がした。
横を見上げると、エルヴィンがミカサと同じようにエレンとリヴァイを見つめ、微笑んでいた。
「…あのリヴァイが、ここまでとはね」
ハンジも同じことを言っていた気がする。
連れ立って外へ出れば、まだ冷たさの残る風が頬を撫でていった。
雲が低い。
冷たいせせらぎで顔を洗い、意識を覚醒させる。
「…エレンが望むのなら、私は止めない」
何を、とは言わずに。
「でも、エレンは普通には生きていけない。エレンばかりが苦しい思いをして」
代われるのなら、代わりたかった。
エルヴィンの胸に去来したのは、もう相手の顔も覚えていない子供の頃のこと。
翼人と人間の、混血として世に生を受けた者たちの集まる村があった。
「私のような生まれを持つ者も、少なくはないんだ」
時が止まったようなこの巨大樹の森で、忘れていたものが次々と思い出される。
「エレンは私が居ないと早死にする。でも、私ではエレンを止められない」
だから、エレンが自由に生きられるのなら、あの男にエレンを預けても良い。

ハンジが思うに、エレンとアルミンは好奇心の塊だ。
好奇心の向ける先は違えど、諺の猫の如く進めるくらいには。
「けど、やっぱりエレンの自由が必要になるか」
どのように思考を巡らせても、行き着くところは同じだった。
行動にはあまり出ないが、エレンを優先する姿勢はアルミンもミカサに負けていない。
「私はねえ、"翼人"っていう種族に興味があるんだ」
人間と同じに見えるのに、彼らの背には翼が生え空を飛べる。
他方、人間は飛べないがやたらと足腰が強い。
「ハンジさん、軍人じゃなくて研究者の方が向いてますよね」
アルミンの言に、にぱっと返した。
「そうだよ。私はフィールドワークがしたいんだ」
篭って研究するのも楽しそうだけどさ。
なぜだろう、翼人を憎む気持ちよりも先に、穏やかな心情が先に出てくるのは。
「研究すれば、エレンの翼が黒い理由も分かるんでしょうか…?」
「どうだろう。やってみなければ分からないよ。でも、」
エレンの羽のサンプルは欲しいかなぁ、今すぐにでも!
たぶん本気だろうな、とアルミンは困ったように笑った。



「なあ、エルヴィン」
あいつが自由に生きられるようにするには、どうすれば良い?

いつになく真剣に問うてきたリヴァイに、人はこうまで変わるのかと感慨深いものがあった。
「奇遇だな、私も似たようなことを考えていたよ」
このままでは駄目だ、それは分かる。
しかしやり方が分からない。
「エレンを"特別"にするか、"普通"にするかの二択しかない」
黒い羽が他の翼人にも見つかれば、エレンは"普通"になれる。
「気の遠い話だな」
ならば"特別"にするのか。
「今は"特別"って言っても、各所の勝手な負の感情ばかりだから。それを上書きしないとねえ」
横からハンジが口を挟む。
「極端な話、神格化ってのが一番」
「…極端過ぎんだろうが」
「間違ってはいないと思うけれどね」
ふる、とミカサが首を振った。
「ダメ。崇めるのも勝手なものの1つ」
うぅん、一理あるなあ。
ハンジが大袈裟に首を捻る。
「翼人じゃ駄目、人間も駄目。もうちょっと広く言うと、"同じ"ではないから混血も駄目?」
「そうなるね」
エルヴィンが肩を竦めた。

「おい、エレンよ」
「はい?」
外から水を汲んで戻ってきたエレンは、他の面々が車座になっていることに目を丸くしていた。
が、リヴァイが声を掛けると、こてんと首を傾げる。
エレンが可愛い、というミカサの呟きは黙殺だ。
「てめぇは、世界のどこも安全だと分かったらどうしたい?」
話がさっぱり見えないが、エレンははっきりと即答した。

「自由に翔びたいです。それでいろんな処へ行って、いろんな景色を見たい」

ささやかな、願いだった。



夜半になり、リヴァイはエレンが外から戻っていないことに片眉を上げる。
小屋の外の気温はだいぶ下がっており、刺すような静謐も少し痛い。
どこへ行ったのかと足を踏み出すと、小さな声が呼んだ。
「リヴァイさん?」
声は少し上から。
小屋を降り仰げば、白い翼とエレンの頭が覗いている。
リヴァイは足掛かりになるものを探し、大して高くもない屋根へ登った。
「何やってんだ、こんなとこで」
エレンは無言のまま、空を指差した。
その指先を追って今度は空を降り仰ぐと、壁のように聳える巨大樹の囲いの中、ぽっかりと真ん丸の月が浮かんでいる。
「ここは、満月だとよく見えるんです」
欠けた月では、樹の葉陰に隠れてしまう。
「…俺は、月も太陽も星も、ここから見えるものしかもう知らない」
エレンは折り曲げた膝の上に額を押し付け、視界を遮断した。
だから彼は、リヴァイがどんな顔をしていたのか知る由も無い。

『私たちが目指すべきは"自由"だよ。エレンが自由に翔べる世界だ!』

「泣いてるのか」
ふるふる、と微かに首が振られたが、顔は隠されたままだ。
リヴァイは足音を忍ばせて近付き、ぐっと握られている手に己の掌を被せる。
突然の感触に驚き、エレンが顔を上げた。

『"自由"という言葉の意味は、きっとエレンが一番よく知ってます』

僅かに潤んだ眦は、涙を流してはいない。
けれどそこにリヴァイが映ると、視線がまた下へと伏せられた。
「エレン」
続きを聞きたくないとばかりに、エレンは耳を塞ごうとする。
その両手を掴んで、言い聞かせるように。
「エレン、聞け。俺は何も、"逃げるな"なんて言わねえし、言えねえ」

『彼の翼を"特別"にする。黒と白、昼と夜。人間でも翼人でも、どちらも併せ持っているのが"普通"なのだからね』

腕から力が抜けたことを確認し、手を離した。
そろりとリヴァイを見上げたまろい頬を、両の手で包み込む。
「だがエレン。せめて、てめぇの馴染みと俺たちからは、逃げてくれるな」
エレンは唇を噛み締めた。
「俺が、逃げなくても。リヴァイさんたちは、俺から離れていく」
そうだ、リヴァイたちはもう、ここを発たなければならない。
リヴァイは眉を寄せ、エレンの頬をつねってやった。
「った?!」
「馬鹿か、てめぇ」
向けられた抗議を、笑い飛ばす。
「てめぇはこれを今生の別れにでもするつもりか? 冗談じゃねえぞ」
「…じゃあ、何なんですか」
エレンの目は感情を語る。
そんな金色は、本気で分からないと書いていた。
ガキか、と呆れて、まだ子どもだったのだと思い直した。

「何度だって、逢いたいに決まってんじゃねえか」

まるで今日の月のように、金色が大きく見開かれる。
「…え?」
「俺は、今生の別れになんぞしてやらねえからな」
てめぇはどうなんだ、と問うてやれば、ふっと金色から他の色が消えた。
微かな震える声は、風が吹けば浚われてしまっていただろう。

「いや、です…」

いやだ、いかないで。
ようやく吐き出された小さな本音は、輝石の粒となって零れ落ちた。
それを指の腹で拭ってやりながら、リヴァイは名を呼ぶ。
「エレン」
「……」
ゆっくりと閉じられた瞼の裏の金色を想い、そっと唇を重ねた。

(なあ、エレンよ。俺は…)
リヴァイは1人ひっそりと、この少年に己の心を明け渡した。



*     *     *



初め2頭しか居なかった馬は、今では3頭になっていた。
どの馬も戦場で主を失った、人間側の軍馬だ。
「いよいよだな…。お前らの仲間も、無事だと良いな」
それぞれの身体にブラシを掛けてやりながら、エレンは手綱や鐙(あぶみ)の具合を確かめた。
特にエルヴィンの乗る馬は、片腕の彼に考慮して装備が改良されている。
アルミンがハンジと一緒になって楽しそうに試行錯誤していたのは、もういつのことだったか。

今日、リヴァイたちはここを出て行く。

「さぁて、戻ったらどんな反応来るだろうねえ?」
お化けでも出たみたいな顔するかな!
これから悪戯に出掛ける子どものように、ハンジは愉快げに笑う。
「でもハンジさん。これ、本当に僕が預かっていて良いんですか?」
アルミンが手にしているのは、彼女の銃の消音器(サイレンサー)だ。
ハンジは自身の馬へ跨がり、ひらひらと右手を振った。
「良いの良いの。私が自分で実用化する気はないし、翼人は興味を示さないだろうし」
その右手で愛銃の1丁を抜き、明後日の方向へ構えた。
「ふふっ、良いね」
これから向かうのは、誰も進んだことのない道だ。
考えるだけでゾクゾクする。
「戻るのは私の予定が済んでからだよ、ハンジ」
装備の改造された馬へ危なげなく乗ったエルヴィンが、彼女の様子に苦笑する。
「ああ、エルヴィンが昔住んでたとこだっけ?」
どうやら彼には何らかのツテがあるらしく、一旦そこへ腰を落ち着ける予定らしい。

ミカサが森の外側から戻ってきた。
「罠を解除して道を1本だけ作った。一度しか言わないからちゃんと覚えて」
この方角に、3本目の樹を左に回って4本目で左に曲がる、8本目で右に曲がって13本目に左に回る。
そこから5本目を左に折れて、11本目を右に回れば外に出る。
(…ミカサすげえ)
エレンは4つ目辺りで覚えきれなくなってしまった。
「おい、ミカサ。もう一度ここへ来る場合はどうするんだ?」
馬の手綱を引いたリヴァイを振り返り、ミカサは抑揚無く答える。
「待てば良い。私かアルミンが、森の外へ出てくるまで」
「…おい」
アルミンが取りなすように口を挟んだ。
「僕たちは、ほとんど毎日森の外へ行っています。出掛ける方角はいつも違いますけど」
でもだからこそ、リヴァイさんはミカサに会えたんです。
リヴァイは舌打ちを零したが、一応は納得したようだった。
(ああ、居なくなっちゃうんだ…)
エレンはふと思い返し、そして自覚した。

(寂しい)

判っていた、覚悟していた。
それでも感情は、追いついてなどくれない。
「エレン」
無意識に俯いていた彼に、リヴァイは手を伸ばす。
そろりと顔を上げたエレンの唇へ、掠めるような口づけをひとつ与えて。

「待ってろ、エレン。必ず迎えに来る」

エレンは瞠目した。
そんな彼に構う様子もなく、リヴァイは金色の目を正面から見つめる。
「必ずだ。てめぇと共に在れる場所を創って、てめぇと共に在る為に」
ようやく言われている意味を理解しだしたか、エレンの両目がゆるりと潤んだ。
…5年、いや、3年。
リヴァイは己の右拳で心臓の上をトンと叩き、次いでその右拳でエレンの心臓の上へ触れた。

「だからエレン。俺の心臓をてめぇに預けとく」

物理的には不可能な、その意味は。
「…っ、」
もう、嗚咽は堪え切れなかった。
エレンは震える両手で、リヴァイの拳をぎゅっと強く握る。
「わ、かりました。お預かり、します…!」
そうして、流れる涙を拭うこともせず、両手に握ったリヴァイの右拳へ口づけた。
「…?!」
動揺したのはリヴァイだ。
けれど見上げたエレンが今度こそ微笑んだことを見て取り、自身もまた微かな笑みを返す。
「ちゃんと守れよ? エレン」
「はい! リヴァイさんこそ、絶対です。約束ですよ!」

苦笑しっぱなしのエルヴィンと笑いを堪えるハンジに続き、リヴァイも騎乗の人となる。
馬たちが嘶きを上げた。
「それじゃあ、ミカサ、アルミン、エレン。長いこと世話になったね」
「まったねー3人共! 今度はもっと広いところでさあ、皆で雑魚寝しよーよ!」
「…エレンを頼んだ」
ミカサはそっぽを向き、アルミンはやっぱり苦笑した。
「お前に言われるまでもない。エレンは私が守る」
「ミカサ…。それじゃあ皆さん、どうぞお気をつけて」
エレンは涙を乱暴に拭い、手を振る。

「エルヴィンさん、ハンジさん、リヴァイさん。いってらっしゃい!」

その言葉に、リヴァイは思わず口角を上げ呟いた。
「…悪くない」
<<  >>


2014.4.20
ー 閉じる ー