鶴凍つる杜

(3.あやかし退治)




さわり、と得体のしれない『何か』に背を撫ぜられる感覚がして、鶴丸はその場を飛び退いた。
「……」
何も見えない。
が、本当に『何も居ない』と証明出来るわけではない。
慣れ親しんだ気配に脇を見れば、香炉の付喪神と茶道具の付喪神が、座敷の隅で心配そうに鶴丸を見上げていた。
彼らが先ほどの『何か』に気付かれなくて、良かったと思う。
他にも多くの付喪神や動物神が、生にしがみつくためにこの神社へ集まっている。
正確に云えば、鶴丸が維持する神域の中へ。
鶴丸が斃れるか等しく神域を維持出来なくなれば、道連れに彼らも命を落とすだろう。
千の齢を越えた上位の付喪神とはいえ、本来は国津神やそれに連なる神の霊力に護られる身。
それが祭神の座していた領域を維持するなど、不相応極まりない。
(最近は、消耗が薄くなった)
あの子どもたちのおかげか。
社務所を出ればすでに日は昇り、朝日が山の端を照らしていた。

太陽がその形を地平線からしっかりと見せていれば、異形の化け物たちは出てこない。
先の『何か』も同じだ。
陰の者は闇と相場が決まっており、これもまた真理ゆえに覆せる者は限られる。

鶴丸は本殿へ上がると己の太刀を取り上げた。
握る手が、自然と強まる。

(もしも)

今日やって来た子どもは、いつもの1人だった。
もう1人は昼に来て、残りの1人は今日は来られないという。
いつもは一番鴉が鳴くまで持たない太刀を持つ鶴丸に、子どもは首を傾げた。
「おつる様…?」
「なあ、君。いや、君たちに頼みたいことがあるんだ」
散々鶴丸に遊んでもらい助けてもらった恩が大きいのか、子どもは一二もなく頷く。
「うん! おつる様のたのみって、なに?」
鶴丸は改めて子どもへ向き直った。
「まず、これはもしもの話だ。起きるかもしれないし、起きないかもしれない」
「うん」
子どもの意識が完全にこちらへ向いてから、鶴丸は手に在る己自身を差し出した。
唐突に刀を差し出され、子どもはきょとんとしている。
「もしも」
落とされた声で、子どもが鶴丸の目を見た。

「もしも朝から一番鴉が鳴くまで呼んでも俺が出てこなければ、この太刀を持ってすぐに麓まで降りてくれ」

子どもの目が真ん丸になる。
「えっ…? でも、これ、おつる様の刀…」
「ああ、そうだ。だから頼むんだ」
「でも…」
「鋼だから重い。童子では2人以上じゃないと運べないかもしれないが、引き摺ったって良い」
託すしかないのだ。
子どもらに、己が付喪神であることは話していない。
けれど、この太刀が鶴丸にとって命と等しく大切なものであることは話した。
「頼む」
神様のお願いを、どうやって断ることが出来よう。
おずおずと首肯した子どもに、鶴丸は酷くホッとしたことを覚えている。
それを掻き消すようににぱっと笑って、いつものように問い掛けた。
「さて、今日はどんな驚きを見せてくれるんだ?」



思えば千年生きていた中で、何かしら自身に囁くものがあったのかもしれない。
気づいたときにはもう、鶴丸は己の意思で動くことは出来なかった。
異変とは、常に虫の囁きを連れてくるわけではないらしい。

本殿の床板には昼間に自分が折った折り鶴と、子どもが新しく覚えてきて一緒に折った狐の折り紙が転がっていた。
(こ、ぎつね)
彼が迎えに来てくれないのは、『来れない』からだろう。
アレは自分では『狐は気まぐれ』だなどと嘯くが、約束を破るような男ではない。
(声も出せない、か)
本殿に横たわる鶴丸の姿を、他の小さき付喪神の同居人たちですら認識出来ていない。
彼を心配して、うろうろと捜し歩くいろんな姿が視界を行ったり来たりしている。
鶴丸はずっと、本殿で身動き出来ずにいるのだが。

鶴丸の周りを取り巻き身体を締め上げる、薄らと見える蛇身。
人の身体よりも太いそれはぬらりと光って、水場に生きるモノではないかと思わせた。
はて、鶴丸を締め上げるこれは上が頭に繋がるのか、それとも逆か。
何とか動く目線を後ろへやれば、何の興味も無いとばかりに鎮座したままの己自身。
鶴丸が刀の付喪神であることを、知らぬわけではないだろうに。
(連れていくなら、はやく)
あの子たちが来る前に、夜が明けるより先に。
ぐぐ、と蛇身の締め上げる力が強まり、息が詰まった。
ぎゅっと目を閉じると浮遊感を覚え、持ち上げられたのだと判る。
(目を、開けるな)
自分に対して暗示を掛けた。
『何か』の焼きつくような視線が、鶴丸の全身を舐めていく。
(…ああ)
ようやく、理解した。

(神が面食いであるのは、いつの世でも変わらんのか)

この蛇身の神は、『人の形を取った鶴丸国永』が欲しいのだ。
だから本体の刀には見向きもしないし、刃が鳥居の向こうに出ようとも何もしない。
けれど人の身を一方的に傷付け、そして人の身を暴れさせその変化を愉しんでもいた。

人の身が傷付けば、刀は振るえない。
人の身がここを離れられなければ、刀だって動かない。

(そういう、ことか)
ずず、と長いものが動く音がする。
どこかへ運ばれていることだけが、閉ざした視界で判る限界だった。
(沈、む)
身体が、意識が、ゆっくりと、下へ。


*     *     *


「おつる様…?」
その日、境内は不気味なほどに静まり返っていた。
子どもたちはきょろきょろと境内を見回す。
遠くで蝉の声が響いて、日射しはじりじりとして。
なのにどこか、静かすぎて。
「おつる様!」
「おつるさまー! どこー?」
皆で広くはない神社の中を捜し歩く。
前庭、社務所、本殿。
本殿の床に転がっていた折り紙だけが、白い青年の居た証だった。
「おつる様、ここにいたのかな」
子どもたちの目は、自然と神殿へ向く。
あの、彼が大事にしている太刀が鎮座したそこに。
「からすが鳴くまで、待ってみようよ」
1人の提案に他の2人も頷き、いつもここへ来ている1人が怯えを含ませ声を上げた。
「おれ、この間おつる様にたのまれた…」
一番鴉が鳴くまでに現れなければ。
「あの刀を持って、ふもとまで降りろって」
ミーン、ミーン、と蝉の声が空虚に響く。

いつものように鬼ごっこをして、し尽くした探検をまたやって、折り紙を折って。
それでもまだ、白い青年は現れない。
「なあ、裏の井戸のとこは?」
1人が、まだ捜していない場所を思い出す。
本殿の裏側には小さな池のある庭があり、さらに奥にある竹の生け垣を越えれば裏庭といえる竹林があった。
青い芝生に敷石が転々と連なって、竹林へ繋がっている。
竹林の井戸の向こうは見通しが効かないので、何があるかは分からない。
いつも来ている1人は本殿の裏を覗くと、ぶるりと身体を震わせた。
「やめた、方が…いいと思う」
『近づきたくないと思うものには、近づいちゃあいけないぜ』
他の2人も白い青年の話を思い出したのだろう、同じように裏を覗いてから僅かに顔を青くして首を縦に振った。
「う、ん。やめよう」



持ってきた折り紙が無くなってしまった。
そういえば白い青年は、あんなにたくさんの折り鶴を何で折っていたのだろう?
「持ってきた折り紙の数より、いつもいっぱい折ってた」
何かの紙でも切って使っていたのだろうか。
考えていると、カタン、と社務所の方から音がした。
「おつる様?」
皆で駆け寄り覗いても、そこには誰も居ない。
「何か落ちたのかな?」
落胆しながら社務所を出ようとすると、またカタンと音が。
ビクリとして振り返れば、さっきは立て掛けてあったはずの緑の枝が倒れていた。
確か、白い青年が榊と言っていたか。
「あれ?」
榊に縛り付けてある白い飾り…青年に紙垂(しで)と教えられた…が、左右で長さが異なっている。
次はカシャンと何かが落ちて、振り返れば鋏が落ちていた。
「だ、誰かいるの?」
リィン、と。
返事のように風鈴が鳴る。
顔を見合わせた子どもたちは、鋏と榊を見比べた。
「ハサミでこのかざりを切って折り紙にしてた、とか?」
「ばちあたり! っていわれそう」
「おつる様、ここの神様じゃん」
「「「……」」」
紙垂で折り紙を折ることにした。
正方形になりそうな処で紙垂に鋏を入れいざ折ると、いつもより小さな鶴になる。
「やっぱり、おこられないかなぁ…」
「しらねーよ!」
「だ、だって、おつる様が出てこないのがわるい!」
大丈夫、と励ますように、またリィンと風鈴が鳴った。

気づけば紙垂はひどく短くなって、子どもたちの足元には小さな白い折り鶴が幾つも散らばっていた。
ぽつりと1人が呟く。
「…おつる様、来てるかな」
白い青年が、本殿で待っているかもしれない。
子どもたちは小さな折り鶴を慌ててポケットに詰め込むと社務所を出た。
境内は相変わらずしんとして、ミンミン蝉の声にカナカナとヒグラシの声が混ざっている。
朝と同様に神社の中をひと通り捜し回ったが、やはり白い青年はいない。
代わりにまた、白い太刀に目が行く。

ーーーカア! カア!
一番鴉が、啼いた。

「おつる様、来なかったね」
本殿へ上がり、子どもたちは太刀の前に並ぶ。
「…約束、したんだ」
いつもの子どもは、キッと目に力を入れると太刀を掴んだ。
「お、おも…っ?!」
少しだけ持ち上げられたが、1人では刀掛けから下ろすことすら出来そうにない。
顔を見合わせるのは何度目だろう。
相談して1人が皆の荷物を持ち、2人が刀を持つことにした。
「あ、そこだけ持つのはダメだ。抜けちゃう」
柄だけ持とうとした1人にいつもの1人が言って、せぇのと声を合わせる。
ガタ、と刀掛けから太刀が離れた。
走るのは無理だが、2人なら持ち運べそうだ。
「行こう」
荷物持ちの1人が先導するように先を歩き始めた。

歩く度にシャラシャラと太刀の飾り…まだ子どもらは拵えという言葉を知らない…が音を立てる。
重いなあとか話しながら鳥居へ歩いていくと、ふと地面に黒い染みが出来た。
脇を通り過ぎてから、何となく違和感を覚えて視線をぐるりと巡らせる。
「っ!」
以前に他愛ない我儘で"化け物"に襲われた子どもが、『ソレ』を思い出してザッと青褪めた。
(そんな…まだ、)
まだ一番鴉が鳴いたばかりだ。
前に襲われたときは、太陽が真っ赤に染まりきった頃であったのに。
「はやく、はやく行こう!」
「わっ?! 引っ張るなよ、落としちゃうだろ!」
「はやく逃げなきゃ、バケモノにおそわれる!」
荒唐無稽と言えなくもなく。
けれどその子の必死の剣幕に、ただならぬものを感じた他の子も早足に変わる。
刀を胸に抱き抱えるように2人で持っているのでは、そうそう早くは歩けない。
荷物を持った子どもに続いてようやく鳥居を潜り抜けたそのとき、子どもたちの頭上に歪な影が生まれた。
キィキィ、という金切り声を共に。

「うわあああっ!!」

人じゃない、動物でもない。
百足のような、骨だけの穴子のような、そんな化け物。
普通なら重たい荷物など放り出し、一目散に逃げただろう。
だが子どもたちは荷物も刀も手放さず、火事場の馬鹿力もかくやといった体で駆け出した。
ぽろり、と1人の服のポケットから、紙垂で折った折り鶴が落ちる。

バチン!
枝鋏の閉じるような音がしたかと思うと、すぐ背後に迫っていた影が消えた。
荷物持ちの子どもが後ろへ向けた視界では、骨の化け物が身を地面に折ってもがいている。

地面に落ちた白い折り鶴が、ボゥッと燃えて消えた。

もがく化け物を追い越し、同じだが別の化け物が襲ってくる。
恐怖が一周回ってしまい、もう涙も叫びも出ない。
「はあ、はあ」
汗で抱える刀が滑る。
「落とすなよ…っ」
「わか、わかってる!!」
シャアッと大口を開けた化け物が迫る。
荷物を持つ子どもが折り鶴を投げる。
バチン! と弾かれた化け物が後ろに吹っ飛び、ドシャリと崩れた。
けれどその向こうから、また別の化け物が纏まって襲いかかってくる。
「ヒッ…!」
足がもつれる。
息が吸えない。
躓き、転けた。
ガシャン、と白い太刀が転がる。
幾つもの影が、上から。
「ーーーっ!!」
喰われる! と思った。

「そこな童(わっぱ)ども。その太刀はどうした?」

何か、そう、『おつる様』が化け物を退治するときと同じ音がして。
顔を上げると、長い髪をした和装の男が立っていた。
手には抜き身の刀。
切っ先は地面に向いているが、見返り見下ろしてくる紅の眼は穏やかなどではない。
白練色の長い髪から覗くのは、猫…いや、狐の…耳?
(おきつね、さま?)
ここまでの恐怖と先ほどからの驚愕で固まってしまった子どもたちへ、男は苛立ち紛れに再度問い掛けた。
「その太刀はどうした? 価値があると見て宮から盗んだか」
「ち、ちがう!」
「おつる様にたのまれたんだ!」
カッとなり言い返してから、息を呑む。
「は、はやく逃げなきゃ!」
「もう折り鶴がないよ!」
自身の怪我も構わずまた太刀を抱えようとする子どもたちを、男は再び横目で見た。
「…なるほど。しばしそこで待っておれ」
男は己の太刀を正眼へ合わせる。
キチキチキチ、と神社側の道から、あの骨の化け物が次から次へと涌き出てきた。
「…これはまた、醜くなったものじゃ」
ひとつ呟く。
一斉に襲い掛かってくるそれらを、男は打ち漏らしなく斬り伏せた。
切っ先は骨を真っ二つに断ち、返す刃は次に襲い来る化け物を一刀の元に切り伏せる。
それは白い青年のものとは違い、疾く喰らいつく獣の容赦の無さだった。
キン、と太刀が鞘へ納まる。
骨の化け物は一匹残らず地面へ還り、ミーン、ミーンと蝉の声が戻りくる。
白練の長い髪が翻った。

「さて、そこな童。『おつる様』とは、白い髪に白い装束の、黄金(こがね)の眼をした男のことか?」



何とも奇っ怪な出で立ちだ。
腰には太刀を2本帯刀し、右肩に子どもを1人、左の脇に子どもを1人抱えている。
「荷物みたい」
「荷物じゃない!」
「歩けぬなら同じじゃ。喚くでない」
白い太刀を抱えていた2人は転けた際に足を擦り剥き、彼らの手拭いで応急措置は取ったものの痛みで痺れると言った。
ために男が子どもを抱えることとなった次第だ。
肩に俵担ぎされていた子どもは、自分の横でぴこぴこ動く獣耳をじっと見つめて口を開く。
「おきつね様?」
半信半疑で呼び掛ければ、当然のように応(いら)えがあった。
「なんじゃ?」
腰に持ち上げられている子どもと、隣を歩く荷物持ちの子どもも驚いた。
「えっ、狐なの?」
「他の何に見える?」
「じゃあ油あげ好き?」
「ええ」
「おいなりは?」
「いなり寿司のことなら、好物じゃな」
なんと、この男は『おいなり様』であるらしい。
「狐で良い。稲荷は私の主ゆえ」
と言われたので、子どもたちは『おきつね様』と呼ぶことにした。

一番近い家は、いつも神社を訪れていた子ども…今は肩に担がれている…の家だった。
家の前に広がる田んぼで、狐の男は抱えていた子どもを地へ下ろす。
「一度私から離れるが良い。触れていると見えぬぞ」
「?」
「他の者の目に触れなくなる、ということじゃ」
「えっ」
「じゃ、じゃあ、こうしておきつね様の服掴んでたら、オレ見えなくなる?」
「そうなるな」
ぎょっとした子どもたちは、慌てて男から離れた。
男はそれを面白そうに見ている。

「じじさまー! ばばさまー!」
子どもが玄関から祖父母を呼ぶ。
両親は、ここからさらに麓の町まで買い物に出掛けているそうだ。
開きっぱなしの玄関の奥から、おっとりとした足音が近づいてくる。
「おかえり。あれあれ、怪我をしているじゃないか!」
玄関へ現れたのは祖母の方だった。
彼女は子どもたちを順繰りに見た後、ひぇっと悲鳴を上げると腰を抜かす。
「ばばさま?!」
「おやおや…お婆様は私の姿が見えるようじゃな」
にやりと笑みを浮かべる男は、まさしく人を化かす狐のようだった。

子どもの祖母の部屋へ邪魔をして、縁側で狐の男は2本の太刀を脇へ据え置く。
真白の太刀を掲げ鞘を払うと、キィンと涼やかに刃が鳴った。
それはいかな無知な者でも、感嘆の言葉を溢さずにはいられぬ優美な太刀。
「童が『おつる様』と呼ぶ者は、この太刀の付喪神じゃ」
付喪神という言葉に覚えはあるのだろう、子どもたちは煎餅をかじりながら固まった。
「あの神社の神様じゃないの?」
「消えた祭神の代わりに、あの神域を維持しておるだけじゃ」
「?」
さすがに難しいか。
子どもの祖母が、難しい顔をして男へ尋ねる。
「もし、お狐様。この婆は、孫に聞かされるまで、あの山に神社があることなど聞いたことがございませんでした」
「そうじゃろうな。あの祭神は、今より30年余り前には位を許されておった。元を辿れば祟り神であったようだが」
国津神の末席に加わることを許され、別の宮か、あるいは位の高い国津神の分祀に納まるはずだった。
「それがまあ、また祟り神に逆戻りとは…。嘆かわしい話よ」
真白の鞘に納められていた太刀は、刃こぼれや罅ひとつない。
("これ"に賭けたか、鶴)
白狐より、稲荷大明神の援助も約してもらっている。
(なれば後は、私が往くのみ)
キン、と刃鳴りよりも重い音を立て、太刀が鞘へと仕舞われる。
狐の男は次に己が差していた太刀を僅かだけ抜き、刃の曇りを確かめた。
「おきつね様は、元の姿は狐なの?」
縁側へ寄ってきた子どもが興味津々に男を見上げてくるのに、男は唇を吊り上げて答えてやる。
「私も鶴と同じ、太刀の付喪神じゃ」


*     *     *


うっすらと見える視界に、朱が漂う。
ごぽり、と昇っていく気泡を眼差しで追いかけて、ここは水の中かとぼんやりと思った。
遠くに光るのは太陽だろうか。
(水の中から見上げる日がくるとは)
ごぽごぽと沈む身体は指1本すら動かせず、僅かな水の流れでピリリと傷が痛んだ。

太刀の切っ先が鳥居から出るだけで、肉の器は傷つく。
すでに太刀本体が神社を出たが為、鶴丸の身体は無惨な程に八つ裂きにされていた。
もはや鶴などと嘯けない。
しかし、それで良かった。
(還るだけ、だ)
例え器を維持することが出来なくなっても、神気が回復するのを待てば良いだけの話。
真っ赤な血を吐きながら、鶴丸は嗤う。
(俺に、魅入っちまうとは……。畏れ多いが、哀れなもの、だ、な)
鶴丸の視界を遮るように、蛇身がぐぅるりと周囲を取り巻く。
麻痺しかけた痛みを吸い上げるように全身を締め上げられ、鶴丸はついに意識を手放した。


*     *     *


夜半。
訪っていた子どもの家の庭先には、風とも知らぬ音が飛び交っていた。
鋭い一閃に崩れるものを、雲間の月明かりが照らす。
「小狐丸、そちらはおわりましたか?」
「今しがた」
主の八艘跳びを彷彿とさせながら短刀を振るっている兄弟へ答え、小狐丸は己の太刀に血振りをくれた。
血振りというが、相手は堕ちた神の眷属。
祓われるのは血ではなく穢れだ。
骨の化け物たちは、一匹残らず地へ叩き伏せた。
「これではたいくつをいとう鶴丸でも、さすがにひきこもってしまいそうですね」
樹上より再度の警戒を張っていた今剣が、軽やかに降りてくる。
小狐丸が差したままのもうひと振りに視線をくべて、彼は頭上を振り仰いだ。
「こよいはもちづき、ひとならざるもののちからがますひです」
それは闇の者に限らず。
「われらはへいあんのうまれですから、ふうりゅうがそろえばそろうほどよい」
「左様ですね」
小狐丸が庭に生える松を見遣り、今剣はふふっと笑んだ。
「かちょうふうげつ、まつにつる。ぶたいはじょうじょう」
小狐丸が白き太刀を腰帯から外す。
薄雲の除けた深い藍の空、浮かぶは煌々と照る満月。

ふわり、と。
松の根本に真っ白な人影が降りた。

「鶴!」
「鶴丸!」
思わず名を呼べば、淡い光を纏う彼は望月と同じ眼をゆるりと細めた。

『すまんが、しばし世話を掛ける』

告げた姿はさらさらと蛍の集まりのような光へ変じ、すぅっと太刀『鶴丸国永』に吸い込まれて行った。
(ようやく、この手に)
白き太刀を今一度握り直した小狐丸は、神社のある山の影を見据える。
「丑三つ時も終わりましたゆえ、黎明に討ち入りと参りましょう」
「たのしみですね! 小狐丸のじゅつがひさしぶりにみられます」



山の端に、一筋の山吹色が射す。
小狐丸と今剣が山へ向かえば、登り口に大男が立っていた。
「岩融!」
今剣が飛びつけば、岩融(いわとおし)と呼ばれた大男はその身体をひょいと己の肩の上へ持ち上げる。
「がっはっは、間に合って良かったぞ!」
小狐丸は肩を竦めた。
「三日月でないだけ、マシですね」
「さすがにあやつが出てしまうと、せっかくの屋敷が崩れるからなあ」
「そうですよ! やっと鶴丸をとりかえしたんですから、みんなでかえるんです!」
違いねえ、と岩融の眼差しが小狐丸の腰にある白い太刀を見た。
ほんの一瞬だけ優しい笑みを作った彼は、山の入口を指差し声高に宣う。
「いざ行かん、大蛇退治へ!」
「おー!」
たかが付喪神といえど、千の齢を経たならば神。
白く麗しき太刀に魅入られた、憐れな祟り神を征伐に。



『ソレ』は長大な身体を境内にうねらせ、ところ構わず締め上げては建物を圧し潰していた。
「あたまはどこでしょう?」
「分かんねぇなあ」
鳥居の手前で山道に折れ、杉の枝葉から窺えばこの有り様。
骨の化け物の姿もちらほらと見受けられる。
「おぬしら、妖退治の経験はあるのか?」
「ううん…義経公はむいしきにはらっちゃうひとでしたから」
「うちはそもそも寄って来んかったぞ!」
がっはっは、という豪快な笑い声に被さって、オロロロロ、とあぶくを噴き出す蝦蟇のような音が響いた。
本殿の奥から黒い靄が涌き出てくる。

小狐丸はカチリと己の太刀の鯉口を切った。
「蛇でも蝦蟇でも、瘴気を吐くのは口からじゃ」
吊り上がった唇の端から、尖った犬歯が覗く。
「ほんでんのおくにたけやぶがみえますよ」
「童が井戸があると言っていましたが…」
ならばそこですね、と今剣も短刀を抜いた。
岩融は己の顎を撫でる。
「井戸は地の底、地の底は黄泉。堕ちた者は黄泉と現世の狭間に棲まう」
ならば、棲み家に戻る前に斬らねばならんな。
薙刀を構え、岩融は杉林を飛び出した。
「俺を楽しませろっ!」
途端に沸き出してきた骨の化け物を一刀に薙で斬りにして、彼の薙刀を足場に今剣が高く飛び上がる。
「ははっ! うえですよ!」
ぬめぬめとした蛇体に、落下速度を乗せた渾身の突き。
そこそこダメージがあると見え、建物を圧していた身体がほどけていく。
「たいしょうくびはまかせましたよ!」
今剣の声を後ろに、小狐丸は骨の化け物を斬り伏せながら境内を駆けた。

「ほんに図体のでかい…!」
本殿から裏手へ回る道は巨大な身体に塞がれて、今はミシミシと社殿の屋根が嫌な音を立てている。
蛇体を踏まぬように瓦礫と壁を蹴り本殿の屋根へ着地した小狐丸は、己の髪を一筋、ぷつりと引き抜いた。
白練の髪にふっと息を吹き掛ければ、同色の焔を纏ったそれが獣の姿をもって飛び掛かる。
山犬のような唸り声を上げながらそれは蛇体へ噛みつき、噛みつかれ流れた体液が発火した。
ぼんっと火薬の燃える音を聞きつけ、うねる蛇体を躱していた今剣が歓声を上げる。
「きましたよ、岩融!」
「おうさ!」
うねる黒の中から現れた先端…おそらくは尾…とやり合っていた岩融は、相手を思い切り弾くと薙刀に足を乗せた今剣を振るう遠心力で放り投げた。
今剣は炎の燃えるヶ所へ着地、焔の獣が今剣へ突進してくる。

するん、と焔の獣が今剣の身体をすり抜けた。

「そぉれ!」
長い身体を短刀で斬りつければ、斬りつけたヶ所から焔が上がる。
傷口から焼かれる痛みゆえか、また本殿のあちら側からオロロロロ、と吐き出すような音が轟いた。
「いたいですか? いたいですよね!」
でもまだまだ、可愛い末弟をあんなになるまで痛みつけたのだから。
「もっといたくしてあげます、よ!」
柄まで深く突き立てた短刀に力を込め、ぐぐっと切り口を広げていく。
その今剣を背後から襲った骨の化け物を、焔の獣が喰い千切る。
焔の獣は蛇体を爪で切り裂きながらさらに境内へ駆け、境内の端でやり合っていた岩融の身体をするん、と通り抜けた。
「そらよぉっ!」
豪快に振るわれる焔を纏った薙刀と、まるで鋼の如き硬さの尾が鈍い音を響かせる。
鮮やかな橙の火花が飛び散り、まるで花火が上がったよう。

本殿の裏は黒い靄で一面覆われ、鼻を突くのは饐えたような臭い。
(やはり、祟り神は祟り神か…!)
靄の中から盛り上がり、吐き出される泥のようなもの。
それをすんでのところで躱して、小狐丸は髪を二筋引き抜く。

靄へ向けてふっと吹きかけた息ひとつ。
ごおっ、と火炎が噴き出し目の前を灼いた。

熱風に散った靄の中には、黒い蛇体と踏み潰された竹藪。
焔の中から現れ出たは、先の獣よりふた回り大きな焔の狐。
それはくわりと牙を剥き、また盛り上がってきた黒へごおっと火炎を噴きつけた。
吐き出された何かと火炎がぶつかり、ねばついたものがべちゃりと地面へ落ちていく。
活路が開いた。
「さあ、踊りましょうか!」
裏庭を塞ぐ巨体へ太刀を振り下ろす。
狐火を纏う太刀筋は、真っ二つとはいかないまでもぬめる身体を巻き藁のように割った。

小狐丸の行く道を創るように、狐の焔が眼前を走る。
オロロロロ、としゃがれた音が轟くと同時に、巨体がうねった。
「チッ…」
避けた先の竹に突っ込んでしまい、髪に笹の葉が絡んだ。
尾は境内にあるはずだが、うねる蛇体は小狐丸を潰そうと迫ってくる。
(頭はどこじゃ…!)
この手の化け物は、脳天を潰さねば幾らでも再生し得るのだ。
ぐおん、と頭上が暗くなる。
「ぐっ…!」
ガキィン、と鈍い音が鳴った。
頭上から圧してくる身体を太刀で受け止めるも、重さに耐えきれずガチガチと刃が揺れる。
鱗でも纏っているのか単に瘴気が強いのか、斬れない。
ズ、と重さに足元が沈む。
ゆらり、と。
頭上の影の向こうに、青空を切り取ったかの如く違う影が立った。
「…!」
蛇のように伸び、蝦蟇のように口が広く。
(あれを…!)
あれを潰せば!
小狐丸の闘志に同調した焔の狐が、小狐丸へ向けて火炎を吐く。
稲荷の霊力が造り出した炎だ、当人が焼けることはない。
炎で切れ味を増した太刀が、ぐっと蛇体に食い込んだ。
「邪魔じゃ…っ!」
吠え、気迫と共に柄の両手を押し入れる。
ずぱんっ! と丸太より太い黒が真っ二つに、跳ねた。
ドロドロと体液を溢れさせる斬り口の片方がごぽりと泡状に膨らむ。
頭を狙いに駆けた小狐丸の後ろで、泡状に膨れたものがぱぁんと破裂した。
「わっ! とっ、とっ」
ぼたぼたと空から降り注ぐ黒いものに、今剣が素早く身を躱す。
岩融はちゃっかりと、残っていた社殿の屋根の下に避難していた。
「あっ、岩融ずるいです!」
「俺は今剣ほど素早く動けんからなあ」

見た目だけなら燃える水、その実態は凝り固まった瘴気に他ならない。
浴びよと言わんが如し、大きく開けた口が小狐丸へ襲い掛かる。
(それこそ好機!)
喉奥から吐出されようとする黒い塊が、活動写真のように写った。
驚くべき跳躍力で小狐丸の肩へ着地した焔の狐が、再び火炎を放つ。
ごおっ、という熱風と同時に、炎を喉奥へ吐き出された大きな口の頭が、不快な声を上げて仰け反る。
燃える蛇体を足場に踏み込んだ小狐丸は、太刀を下段より振り上げた。
背や横腹よりも腹側は表面が柔らかく、切っ先は思った以上に深く入り込む。
どぱっ、と喉下から黒い液体が噴き出し、不快な声は溺れた魚のような泡に変じた。
深く入った刃としなった身体の反動で、頭が前へ勢い良く垂れる。
横飛びに側面へ回り込み、小狐丸は上段から力の限り太刀を振り下ろした。

ごとん!
撥ね飛ばされた頭が落ちる。
頭だけでこちらの背丈はありそうな、見事な大きさであった。
(他の祟り神を幾つか喰らってきたか)
落ちた頭部へ歩み飛び乗り、小狐丸は太刀を逆手に切っ先を脳天へと定める。

「名の知れた神となっていたであろうが、これもお上の意向ゆえ」

とん!
落ちた脳天を、霊刀『小狐丸』が貫いた。
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2015.10.25
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