鶴凍つる杜

(4.歳月の先へ)




その手にあるのは、朱塗りの化粧を施された白狐の面。
かつての夏、ほんの子どもであった身は、とうに大人のそれへと成長した。
小紋の着流しに身を包み、かつて足繁く通った道を小田原提灯を片手に歩いてゆく。
「おぉい!」
山の入口で手を振る2人も、かつての夏の仲間であった。
「悪い、遅れたか」
「まだ間に合うさ」
「しかし久しぶりだな!」
ここに来るまでの道は、随分と整備された。
けれど山はまったくの手付かずで、どこかの大きな神社の宮司が「次なる祭神の沙汰が下るまではこのまま」と進言したらしい。

あの頃はあんなに歩きづらかった山道も、大人の足ではそうでもない。
「懐かしいなあ。お前ら何年ぶりに来たんだ?」
「20年くらいか」
「そりゃ懐かしくもなるよなあ」
真白き太刀を持ち出し、山道で派手に転んだことをも引かれるように思い出す。
「ちょうどこの辺りか」
「おきつね様に助けてもらったなあ」
今でもよく覚えていた。
だからこそ、揃ってまたあの神社へ向かおうとしている。
青年…男ばかりが並び、むさ苦しいだけではあるが。

鳥居が見えてきた。
「あの頃はこの鳥居、物凄くでかく見えてたんだけど」
「確かに」
鳥居を潜る前に足を止める。

以前は見えた神社が、見当たらない。
初めから何もなかったように、鳥居の先にはただ木々が生い茂っている。

さすがに黙り込んでしまった。
「…このお面を被って、一言も話さず本殿に…だったよな」
「ああ。それで招き入れられたら、面は取っていいらしい」
夢に顕れた焔の狐。
告げられた白い青年の名前。
そして【神送り】の儀式。
「よし、行くぞ」
揃って狐の姿に扮し、鳥居を潜り抜けた。



鳥居の向こう側は、まさしく『向こう側』であった。

日が落ちる寸前の夕闇の中、ぽわぽわと方々に浮かぶのは蛍火。
幼い記憶にはない、入り口から続く灯籠の行列。
面の狭い視界でこの差異、声を出さないことが如何に難しいかを唇を噛みながら痛感する。

戸惑いながら歩みを進めれば、ぼわっ、と眼前に手のひらサイズの火の玉が現れた。
驚き足を止めれば、火の玉は若者たちを検分するようにその身を左右に揺らす。
そうしてくるんと円を描いた火の玉は、宙を先に進んでいった。
着いてこいという意だと解釈し、大人しく着いていく。

子どもの時分には遠かった本殿が、今ではこんなにも近い。
賽銭箱の手前で火の玉はしゅるんと消えてしまい、どうしたものかと顔を見合わせる。
と、キシリと板張りの軋む音がした。
顔を上げれば、記憶にある白練色の長い髪。
その顔にも狐の面があり、本当に狐としか思えない。
「こっちじゃ」
一言の元に背を向けられ、履き物を脱ぐとおっかなびっくりと後を追った。
(そういえば、何か造りが違うような)
子どもの頃の記憶では、廊下はすぐに途切れて飛び石で隣の建物に繋がっていたように思う。
(それに、本殿と神殿に仕切りなんてなかった)
本殿の奥へ繋がる廊下には、本殿の柱と同じ色をした扉があった。
「中に入って扉が閉じたら、面を取って良いぞ。話すのも構わぬ」
白練の髪の男はそう告げて扉を開いた。

ギィイーー

本殿、ご神体の坐す厨子を背に、丸い御座が敷いてある。
その正面、下座にあたる位置に白一色の青年が正座で対面していた。
少し位置が遠くて、何を話しているかまでは分からない。
(誰と話してるんだ…?)
上座の御座には、誰も座っていないのに。
ギイィと軋む音を上げて、扉が閉まる。

バタン!
上座に対して白い青年が一礼し、数拍置いてくるりとこちらを向く。
「鶴、話は終わりましたか?」
「ああ。白狐の方に驚くほどの期待を浴びせられたぞ」
今夜の神楽舞が恐ろしいな。
そうは思ってなさそうに肩を揺らして笑い、白い青年が立ち上がった。
黄金色(こがねいろ)の眼差しが、恐る恐る狐面を外したかつての子どもたちを捉える。
あゝ、と溜め息のような声が漏れた。

「あのときの童子たちか」

人の世の時は流れが早い。
「お、おつる様…?」
間違えない、間違えるわけがない。
けれどまったく同じ姿に、自分たち人間とは時を異なる存在なのだと突きつけられた。
今ではもう、彼と目線はほとんど変わらない。
ひとりは見下ろしてさえいる。
かつての子どもらの正面までやって来た白い青年は、あの頃と変わらぬ笑顔で彼らの頭を撫でた。
そういえば、あの頃とは違う真っ白な袴姿だ。
「大きくなったなあ、きみたち。いつぞやはきみたちのおかげで助かった」
ありがとう、と礼を言われて、思い切り首を横に振る。
「お、おつる様に助けられてたの俺たちだし!」
「むしろお役に立てたことの方が奇跡的というか…」
分別の着いた年嵩になったからこそ、よく分かる。
この白い青年と狐の男に助けられたことは、すべての偶然が良い方へ向いただけなのだと。
告げれば、白い青年は苦笑した。
「きみたちはほんと、律儀だなあ」
鶴丸が座っていた御座の下手(しもて)には、いつの間にか別の御座が若者たちの人数分敷かれている。
鶴丸はそちらを指し示した。
「簡単に終わる話でもないからな。茶でも飲みながら聞いてくれ」

『おつる様』の名は鶴丸国永、『おきつね様』の名は小狐丸。
双方、太刀の付喪神であり、この世に刀として打ち出されてから千の齢を経ているという話はかつて聞いた。
話はその続きから。
鶴丸はこの神社が"神社"として機能している頃に、さる貴族の手により奉納されたという。
「とはいっても、俺は覚えていないんだ。いろいろあって、ずっと眠っていたからな」
茶を出してくれたのは茶道具の付喪神で、鶴丸いわく当時も居たらしい。
子どもであったとはいえ、遊び回っていたのを見られていたかと思うと恥ずかしいものだ。
「ここの祭神は、蛇身の祟り神だった。祟り神が何かは解るか?」
頷けば、鶴丸は話を続けた。
「その祟り神は、君たちが神社に来るより以前に国津神の末席へ加わることを許されていた。
つまり、祟り神ではなく真の祭神となる予定だったってわけだ。
…だがなあ、皮肉というかなんというか、そいつは俺に惚れてしまったらしくてな」
へ、と口が開いた。
まじまじとこちらを見つめてくるかつての子どもたちに、鶴丸は苦笑する。
「俺にとっちゃあ、珍しいことではないんだ。『鶴丸国永』という太刀を欲するあまりに墓を暴いたり、さる武家が一族郎党流血沙汰になったりもした。
まさか、人間のみならず神までも狂わせちまうとは思わなかったが」
それが彼という太刀であり、宿った付喪の在り方であり、経た年月の積み重ねでもある。
ゆえに鶴丸自身がどうこう出来るものではない。
「しかもあの祟り神、人とは違って俺の本体である太刀じゃあなく、この付喪神の姿に惚れ込んだ」
子どもの頃には分からなかったことが、20年を経て明らかになってゆく。
「じゃあ、おつる様が神社から出られなかったのは…」
「その祟り神が、俺が他所へ移れないよう閉じ込めていたのさ」
初めに出会ったのは鳥居の外であったが、あれは彼自身ではなく彼の姿を映した鏡の付喪神であったらしい。
「そ、それなら『あの日』、おつる様が居なかったのは…?」
「痺れを切らした祟り神に取り憑かれて、井戸の底に引き摺り込まれたからさ」
井戸の底は黄泉の國と繋がっていると教えてやったら、若者たちは一様に青褪めた。
…鶴丸の本体は太刀だ。
ゆえに子どもらへ太刀を持ち出すよう頼んだわけだが、それによって付喪神の器がどうなったかは伝えずにおく。
「千年在るとはいえ、所詮は付喪神だ。国津神に連なる者にはそうそう太刀打ち出来ん」
付喪神の身体を維持するための力を失い、こうして維持出来るまでに戻るまで20年の時を要した。
鶴丸は改めて若者たちを順繰りに見、感慨深げな笑みを浮かべる。
「きみたちが、俺の折り鶴を大切に持っていてくれて良かった」
言われて、それぞれがポケットに仕舞っていた折り鶴を取り出した。
歪に折れ曲がったり皺が寄ったり紙はぼろぼろで、色もすっかり黄ばんでしまっているが。
狐の折り紙も一緒に出てきたのには笑ってしまった。
「ふふっ、嬉しいなあ」
ただの折り紙といえど、鶴と狐が共にあったとは。
鶴丸の言葉の意味は彼らには分からず、徒(いたずら)に首を傾げさせてしまう。
1人がおずおずと問い掛けた。
「おつる様、それなら…」
あのときの経緯は解ったが、では今ここに呼ばれた経緯はなんだろう?
皆まで聞かずとも、彼はうんとひとつ頷いた。

「きみたちを呼んだのはな、人間の見届人が必要だからだ」

この神社の領域を、上位の国津神へ返還するのだという。
「穢を祓ってはいどうぞ、って訳にもいかなくてな。手順が必要なんだ」
まずは神域の穢をすべて祓う。
これは小狐丸と、その師匠たる白狐の方が行ってくれた。
そうして神域の穢を祓った後は、神事を行うための場を整える。
聞けば本殿のみならず庭までも全壊し、どうしようもないので常世を繋げて場を設けた。
白狐の方が稲荷大明神に掛け合って行ってくれたというので、畏れ多いことだ。
「さて、これで場は整った。残りが何か分かるかい?」
1本立てられた白い指先を見つめ、顔を見合わせてから1人が答えた。
「ここを返還するための儀式をする…?」
「正解じゃ」
背後から声が聴こえ振り返れば、どこかへ行っていた狐の男…小狐丸が戻ってきていた。
「この地に在る魂を慰め、騒がしき氣を収め、清浄なる形にして大神へ返す儀式を行うのじゃ」
その大役を任されたのが、そこな鶴丸国永よ。
一様に目を丸くした若者たちに、鶴丸は袂から取り出した扇子を開いてみせた。

バッ、と一瞬で開かれた藍染めの扇の表には、月夜に松と鶴。

「神楽舞さ。きみたちも身近な神社で見たことがあるだろう?」
もっとも、人の子が舞うものとは少々違う。
白一色の鶴丸の姿に、藍の扇はとてもよく映えた。
「相方が小狐なのが少々不安ではあるが…」
「鶴よ。私を馬鹿にしているのですか」
「してないさ。ただ…神楽にしろ剣舞にしろ、上手く舞えるのは俺と三日月だろう?」
「……三日月を宥めるのは酷く難儀しましたね」
「ははっ」
「笑いごとではないわ」
自分たちの頭上で交わされる会話に、若者たちは何度目か判らぬ首を傾げる。

小狐丸たちの屋敷でようやく付喪神としての形を取るに至った鶴丸に、誰よりも喜んだのは三日月であった。
鶴丸の太刀本体が小狐丸の部屋に安置されており、中々会えなかったということもあろうが。
俺も行くぞ、舞ならば小狐より巧い! と募る三日月を、兄弟全員で押し留めるのは疲れる仕事だった。
涙目の情けない顔でも美しいとは、三条の逸物は侮れない。
「あれが芸事に秀でているのは認めるが、三日月に屋敷を離れられては敵わん」
同じ台詞を鶴丸を救い出しに行ったときもした等と、思い出したくはないものだ。
くすくすと笑って、鶴丸は小狐丸から若者たちへ視線を戻した。
「きみたちの役目は、儀式を見届けることだ。そう構えずに過ごしてくれれば良いさ」
儀式は日が暮れてから、境内に据えられた舞台にて行うという。
(舞台なんてあったっけ?)
若者の記憶にはない。
する、と衣擦れの音がして、若者たちの前に2人の女姓が座した。
「時が来るまで、この2人に君たちの世話を頼む。先の茶道具の付喪神と、鋏の付喪神だ」
目元を隠す狐面で顔ははっきりとしないが、2人の女性は美しく頭を下げた。
慌ててこちらも頭を下げる。
「もしかして…社務所にいた?」
ふと思い付いた事柄を彼女らへ問えば、うっふっふ、と意味ありげに微笑まれるばかりだった。



若者たちを他の付喪神へ任せ、鶴丸は小狐丸と共に渡殿へ出る。
バタンと扉が閉じた途端にふらりと傾いだ身体を掴まえ、小狐丸は唇を寄せた。
「んっ…」
合わせた唇から己の神気を注ぎ込む。
鶴丸の身体は万全ではなく、維持できているのは偏に番である小狐丸と彼の属する稲荷の神域の力。
時折小狐丸が神気を注ぎ込んでやらねば、鶴丸は付喪神としての実体を失ってしまう。
「こぎつね」
名を呼ぶ声に、小狐丸は鶴丸の舌を絡め取り吸い上げた。
「んん…っ」
もっと、と言葉なく差し出される舌先を拒まず鶴丸の背を壁に寄らせ、本格的にその唇へと喰らいつく。
「ふ、ぁ…っ」
こぎつね、と吐息の合間に呼ばれる名が、これ程までに愛おしさを募らせるなど。
「鶴…っ」
堪らず痩躯を抱き締めれば、背に回った腕が同じだけの力で小狐丸の背を抱いた。

姿を見ることはおろか声を聴くことすら出来なかったこの50年余りを、小狐丸は初めて永いと感じた。
日本中に分祀の散らばる稲荷は、多くの人間の元を転々とする鶴丸を探すに都合が良い。
そうして千年、番ってきた。
時の帝崩御の際、正式に稲荷の眷属へと引き上げられた小狐丸は、行く先を選べない鶴丸を追い続け。
欲されることで流転の定めを負った鶴丸は、稲荷の分祀を跳ぶ小狐丸を待ち続け。
だからこそ互いの寂しさは深き溝を穿つことなく、互いに気丈であれた。
「こ、ぎつ、ね」
縋るように、小狐丸の背を抱く指先が強く衣服を引き、掴む。
(なんで…)
ようやく実体を顕現するまでに力を戻して、枯れるほどに泣いたはずだった。
それでも涙はまた流れる。
「こぎつね」
ここまで音沙汰の無い互いは、初めてだった。
再び泣きだした鶴丸を、小狐丸はただ黙して抱き締める。



小狐丸が鶴丸と出会ったのは遥か過去、京の都だ。
同じ師から打たれた三日月と小狐丸に今剣、同じ三条の流派に連なる刀鍛冶に打たれた岩融、石切丸。
市内にそれぞれ本体を置いていた彼らは、いつからか三条宗近の屋敷に集まるようになっていた。
そこへ刀鍛冶、五条国永に連れられてきたのが鶴丸だった。

その日屋敷に存在していたのは、つい先日初めの持ち主の元へ渡った三日月宗近と、帝への献上を控えた小狐丸のみ。
鶴丸を打った五条は三条の弟子筋で、研ぎ師より受け取った自らの刀を師の師たる三条へお披露目にやって来ていた。
完成したばかりの彼の刀にまだ正式な鞘と拵えはなく、ゆえに『それ』の由来たる号もなく。
ただ驚嘆するしかない玲瓏たる白刃が、そこに在った。

(うつくしい)

美しいものは、見慣れていると思っていた。
帝の座す宮中を覗くことが出来る付喪神の身は、京の誇る美を様々に見てきている。
おまけに同じ刀の中でも、上位の神々が美を絶賛する『三日月宗近』が身近に在ったのだ。
それ以上の美など、天上の日輪や月天だけではないのかと幼いながらに小狐丸は考えていた。
それが。

「おれがみえるのか?」

乱雑な言葉遣いでありつつも、そこな梅の精より可憐な真白が望月の目を向け問うてきて。
よく斬れるであろう刃に反して、付喪の姿は雛鳥を思わせる愛らしさ。
白き衣はまるで綿毛のようで、日向にとてもよく似合った。
「見えるも何も、そなたと俺たちは同じ存在だ」
三日月の言葉に真白は首を傾げる。
「おなじ?」
「そうじゃ。おぬしは五条殿に連れられてきた、あの白き太刀であろう?」
小狐丸の言葉にはこくりと頷くので、自身が刀である自覚はあるようだった。
ちらりと三条と五条を見てみれば、会話の花はまだまだ散りそうにない。
「せっかく会うたのだ。少し我らと話さぬか?」
「五条の屋敷にないものが多くあるぞ」
2人して誘ってみれば、白銀の頭はまたこくりと上下した。

この太刀は、程なく号を賜るであろう。
降り積もる雪か、川辺に佇む白鷺か、その美しき白刃を示す号を。
銘を国永と名乗った真白の子どもを、2人は『雛』と呼ぶことにした。
ちなみに三条の屋敷からそう遠くない五条の鍛冶場へ、今剣と岩融、石切丸が押し掛けるのは翌日の話である。

「こぎつねのかみはきれいだなあ」
飽きもせず小狐丸の髪を撫でる雛に、彼がほだされるのは早かった。
邪気のない目で、思ったままのことを口にされては堪らない。
時々、頭上の耳まで撫でてくるので、狐の性に近い小狐丸には益々堪らない。
自身の背に張り付いたままの雛を正面へひょいと抱き寄せ、その頭を撫で返してやる。
「雛の髪も、とても綺麗で触り心地が良いですよ」
人一倍毛並みに気を使っている小狐丸の褒め言葉に、雛は嬉しそうに笑う。

生まれて間もない付喪神は、妖に狙われやすい。
己が百鬼に引き込むにも、己の力とするため喰らうのにも都合が良いからだ。
今剣と岩融は、主がそういった存在を寄せ付けぬ者であったために何もなかった。
石切丸は奉納を待つ大太刀という枠組みであるがゆえに、妖を寄せ付け難かった。
小狐丸に至っては稲荷大明神の眷族が相槌の刀、名も知れぬ妖が手を出せようはずもない。
三日月は妖が狙うに絶好の存在であったが、兄弟刀たちが守る力を持っていたために先に妖を寄せぬ術を覚えた。
(なれば、雛は?)
望月の日の逢魔が時。
いても立ってもいられず、小狐丸は三条の屋敷を飛び出した。
慌てる三日月たちの声が追ってきたが、構わず京の町を駆ける。
そして五条の屋敷のある角を曲がった小狐丸の背筋が、ぞわりと泡立った。

『ウマソウ』
『ウマソウダ』
『白キ付喪』
『アレヲ喰エバ、妖力ガタント上ガリソウダ』

黒い霧…否、霧のように密集した有象無象の妖どもに、今度は怒りで毛が逆立つ。
上位の妖が喰らうには小さすぎる付喪神は、下位の妖にとっては上質な食事。
(そんなものに、雛が狙われていると?)
五条の屋敷へ至るを待たず、小狐丸は抜刀した。
そも、小狐丸の本体はこの刀だ。
抜き身となったことで鞘の抑え込む神気が解放され、己らを蝕む気配に振り向いた妖どもが戦慄く。
稲荷の眷属が相槌を打ち鍛え上げられた小狐丸は、三条の刀の誰よりも神気が強かった。

「雛を狙うたこと、輪廻の先まで後悔するが良い」

相手が下位の妖であったとはいえ、そのときの小狐丸はまるで鬼神の如きでした、とは後の今剣の談だ。
彼らが追い付いたときには、五条の屋敷の奥座敷で震える雛を小狐丸が宥める最中であった。
「いやだいやだいやだきもちわるいきもちわるいあいつらきもちわるい…!!」
「大丈夫です、雛。この小狐と今剣の兄様(あにさま)たちが、すべて祓いましたゆえ」
おそらく、一番初めはこのときだ。
今は鶴丸の号を賜ったかつての雛が、『欲される』存在としての命運を課されたのは。



そろそろ日も翳ろうかという刻限、茶道具と鋏の付喪神に神社の中を案内してもらっていた若者たちは、どこからか涼やかな音色を聴いた。
「笛の音…?」
心得たように、付喪神が行く先を境内へ向ける。
本殿を抜け、神社の正面で履き物を履き建物を出た。

夕暮れの茜に蛍のような灯火がふわふわと漂い、連なる灯籠が明かりをゆるりと明滅させる神社の境内。
行きには気づかずにいた表の池に据えられているのは、楽(がく)のための舞台。
ぼんやりと浮かび上がったそこで、ふわり、と茜に染まった衣が風に揺れる。
高下駄がカツンと拍子を取り、どぉんと鼓の音が重なった。
まるで重さを感じさせぬ動作で、高下駄を履いた少年がふわと舞台の手摺へ飛び乗る様は、かの九郎義経のような。
笛を奏でながら、少年は手摺の上で涼やかに笛を奏でる。

若者たちが呆気に取られていると、靡く衣に合わせて少年の目線がこちらへ向いた。
途端、笛の音が止まる。
(おきつね様と同じ目の色だ…)
赤い眼がこちらを捉えて、少年の表情が綻んだ。
「きみたちが、あのときのわらしたちですね」
茶道具の付喪神が即すように歩き出すので、若者たちは否応なく少年へ近づくこととなった。
少年は若者たちよりずっと幼く、童子という言葉は彼にこそ使われるべきではないだろうか。
彼は手摺からすたんと降りて、若者たちの傍へやって来た。
「ぼくは今剣。かの義経公のふところがたなであったたんとうのつくもがみです」
驚くなという方が、無理だ。
「付喪神?!」
「あの源義経の刀?!」
「滅茶苦茶歳上だった!!」
三者三様に驚愕した若者たちに、今剣はクスクスと笑う。
「このようななりですが、ぼくは小狐丸よりはやくにうたれていますよ?」
「えっ?!」
驚きが追いつかない。
「おぬしら、元気な童(わっぱ)だなあ!」
声に振り向けば鼓を片手にした大男が舞台の端からやって来て、ぽかんと見上げた。
「でっけえ…」
「がっはっは、俺は薙刀だからなあ!」
「え、薙刀? の、付喪神?」
「おうよ。武蔵坊弁慶の薙刀、岩融だ」
「弁慶!!」
驚きすぎて気絶出来るかもしれない。

舞台に近い縁側に腰掛け、茶道具の付喪神が出してくれた茶菓子を今剣たちと頂く。
「お二人は、おつる様の兄弟みたいなものってことですか?」
「そうですね。ぼくや小狐丸をうった三条宗近のでしすじに、鶴丸をうった五条国永がいました。いとこみたいなものでしょうか」
「へえ…」
「そろそろあやつも、1ヶ所に留まれたら良いのだがなあ」
難しいもんだ、と岩融が頭を掻いた。
今剣がくすりと笑い、真っ赤な眼が若者たちを映す。

「鶴丸は、うつくしいでしょう?」

射竦められたように、若者たちの心臓が縮まった。
真っ赤な眼はにまりと弓形を描く。
「よくきれ、おれず、よくまがり、そのうえうつくしい。いくさがたなとしての『鶴丸国永』は、ひとびとがけっさくとよぶすべてをそなえています」
ゆえに欲され、奪われ、一つ処に留まれない。
「よみじのともをのぞまれ、はかよりあばかれ、みやにかえされずぬすまれ。ほかにもたくさん。
だからこそ、鶴丸のうつくしさはとどまるところをしりません」
どうですか? と問われても、若者たちは何も言えない。
「…っていうか、墓?」
「おうよ。何人目かの主のときにな、主の副葬品として埋葬されたんだと」
岩融の言葉通りなら墓荒らしに遭ったということで、さすがに絶句した。
故人の墓を荒らすなんて罰当たりな、と思う一方。
ーーー俺にとっちゃあ、珍しいことではないんだ。
そう言った鶴丸が淋しげに見えたのは、気のせいなどではなかったのか。
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2016.3.13
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