鶴凍つる杜
(5.神楽の契り)
パシャン、と水が撥ねた。
神社の裏手にある小さな滝から離れ、禊を終えた身体を手拭いで拭う。
空を見上げれば茜は消え去ろうとしているところで、鶴丸は自身の内から神気の湧き上がる熱を感じていた。
今宵は望月、陰陽どちらも力が増す日。
飛び石の手前には竹籠があり、稲荷の眷属たちの手により念入りに清められた装束が入っている。
今日1日袴姿であったのは、このためだ。
清めた身体に清められた装束を纏うことで自身の神格を最大まで押し上げ、満ちた月の力でさらに神性を高める。
そうして祓ゑの神楽を舞うことで、この神社一帯の邪気を一気に祓い清めるのだ。
具足を着け、金鎖を着け、羽織を羽織る。
最後に納められていた隈取りの鮮やかな白狐の面を被れば、後は役目を果たすのみ。
面は口元の無い半面で、窮屈感はあまりない。
鶴丸がすべての準備を終えると同時に、石畳の脇に2名ずつ巫女が現れた。
彼女らの顔全体を覆う狐面は、鶴丸のものと隈取りが異なる。
無言で即されるまま彼女らを前後の供に渡殿を渡ると、向こう側から別の一群がやって来た。
小狐丸と、彼の供である4名の巫女だ。
互いに言葉を発することなく頷きのみを交わし、鶴丸を先に神殿の脇から境内へ出る。
この祓ゑは鶴丸が主体であり、小狐丸は合いの手だ。
境内の舞台脇には楽の者たちが座しており、その中には今剣と岩融の姿もある。
観覧に与えられた場で、若者たちはどぎまぎしながら座っていた。
来るときに被っていた狐面をもう一度被っているので、視界が狭いことが残念だ。
だが面を被ったことで、つい先刻まで視えていなかったものが視えるようになった。
…観覧席の、もっとも上座に当たる場所。
朧に霞んではいるが、そこに白く、複数の尾を持つ狐が座している。
(もしかして、おつる様の言ってた『白狐の方』…?)
身体の奥底から畏怖が沸き、その白狐を長くは見つめていられない。
不躾に見つめてはいけないと思ってしまう。
(おきつね様の上役だというから、もっと位の高い神様ってことか…)
そりゃあ、畏れ多くて見つめらるわけがない。
いや、神々の顔を多くの人間は視ることが出来ないというから、視れば目が焼かれるのかもしれない。
どん、と大鼓が鳴った。
鶴丸と小狐丸を舞台の中央へ連れた狐面の巫女たちが舞台手前の庭へ降り、神楽鈴を鳴らす。
シャンッと鳴り響いた鈴の音は幾重にも重なり、2度、3度と鳴ると止まった。
神楽鈴の音は舞台の穢れを塵ひとつ残さず祓い去り、狐面の巫女たちの姿は霞へ変じ消えた。
笛と笙の音が始まる。
するりと伸びた指先が天を指し、地を指し、ふわりと衣を翻す。
足踏みの鋭い音色が場を瞬時に入れ替えては、楽の音と共に新たな彩りを生み出してゆく。
(まるで…)
真っ白な紙に、絵が描かれるような。
落とされる音は、色のひと雫。
開かれた藍染めの扇から色彩が広がり、混ざり、繊細でありながら荘厳な絵図となる。
呼吸すら忘れるほどに厳かで、目を逸らすことを赦さぬ舞。
在るものを、描かれる彩りの行く末を、舞の生み出すものの先を見届けよと、脳の奥まで命じてくる。
ひと折りずつ広げられたのと同じく、扇がゆっくりと閉じられた。
それを合いの手へ渡し空いた白い指先は、腰に佩かれた太刀を抜く。
リィン、と。
刃が鳴る。
あたかも、寒空に冬を告げる鶴の声ように。
白く、鋭く、優美な刃が月光に煌めく。
ーーー鶴丸は、うつくしいでしょう?
そうだ。
そのとおりだった。
人を斬る道具でありながら、美しき鶴の名を冠されし刀。
(すごい、)
見ている側だというのに、掌が汗で滑る。
面で遮られた息が苦しい。
右へ、左へ、ゆぅるりと薙がれた刀身が、垂直に立つ。
楽の音が消え失せる、刹那。
雷光の如き一閃が、『場』を切り裂いた。
「…っ!!」
まるで大波に呑まれたようだった。
押し寄せた巨大な圧に呑まれ、流され、息が吸えない。
それでも目だけは、決して閉じるまいと開けていた。
虚空に描かれた絵図が刃に凝縮され、すべてを押し流し弾けたかのような。
楽はすでに止まっている。
しかし若者の目には海の大波が見え、崩れる組み木の音が、祓う刃鳴りが聴こえていた。
唐突に呑まれた"海"、それこそが舞の喚んだもの。
ーーー今まで『そこ』に在ったものが残らず失せて、波が去った後には何も残らず。
ただただ、本来在るべき清静たる宮の神域だけが、そこに。
(祓ったんだ、おつる様が…)
色を載せる舞が宮を覆い、すべての穢れを内包したそれを太刀が絶った。
息遣いすら響いてしまいそうな静寂に、若者たちはばくばくと鳴る心臓を必死で抑える。
【 見事なり 鶴丸国永 】
静寂に雫を落とす、朗とした声が響いた。
【合わせて、礼を申す。そなたの神域にて生き永らえた、小さき神々の総意として】
上座の白狐が立ち上がり、幾つもの尾がふわと揺れる。
ひと飛び、狐の姿は舞台の上にあった。
立って見下ろすわけにもいかず、一瞬だけ迷った鶴丸は狐面を外すとその正面へ居住まいを正し座す。
小狐丸はその隣に。
【宮の穢れは祓われた。これより本宮は稲荷の分社と相成り、主神定まりしまで我が維持を為す】
小狐丸と同じ、血と焔を映し込む朱の眼(まなこ)が鶴丸をじっと見つめた。
【(刀匠、五条国永が逸物。数多の人の子が今尚欲する、黄泉返りを果たした稀有なる刀)】
音信を絶たれたがゆえに一処に在ったとは、なんという皮肉か。
【(たかが付喪神と言ってしまうのは容易い。が…)】
『鶴丸国永』を欲した人の子の幾つかは、それを欲するあまりに心すら狂わせたと聞く。
国津神へ上がる前の祟り神とはいえついには神をも狂わせ、その結果は価値となり神格と為りて付喪神へ還る。
【(箔は視えずとも、人の子はそれを察する。なれば…)】
『鶴丸国永』は、再び何処かへ渡るだろう。
ついと視線だけを横へ流せば、己が弟子たる小狐丸が何とも言えぬ風情でこちらを見返した。
懸想する相手が居ることだけは早い内から察していたが、よもや"これ"とは。
【(流れるに任せた刻(とき)なれど、此れもまた一興)】
最前は、想像以上に見事な祓ゑであった。
千年(ちとせ)を永らえた付喪神と云えど、多少は"漏れ"が出るかと考えていたのだが。
あちらは気づいておらぬだろうが、それは稲荷の壱ノ眷属として無礼な…邪とも窺える浅はかさであった。
思案した白狐の瞳が鶴丸を再び捉える。
【太刀・鶴丸国永よ】
「はい」
号の由来が失せても尚、鶴であり続ける白き付喪神。
狂わせるだけではなく、吉兆を齎すことも多々有ったであろう。
【今更このようなことを云うは、遅きに失するにも余りあるのだが…】
鶴丸は微動だにせず、ただ心中で首を傾げるのみだ。
(祓ゑは成功した。他に何が…?)
ふっと、白狐が微笑った。
【我が弟子、小狐丸のこと。宜しく頼む】
言葉が、鶴丸の喉の途中で掻き消えた。
「え…?」
小狐丸が目を見開く。
「我が師、それは…」
次にはニヤリ、と白狐の笑みが変わった。
【さあ、此れより先は我が身内の言祝ぎと参ろう】
ーーー千歳(ちとせ)を過ぎし付喪の先、次なる千歳に幸有らん!
わっ、と一斉に座が沸き、若者たちはその場で盛大に戸惑うしかない。
「えっ? えっ?!」
「何が始まったんだ?!」
トン、と脇に何かが降りる音がして、そちらを見れば狭い視界に今剣の姿。
面を取っても大丈夫だというので、ようやく息苦しい中から開放される。
「あ、えっと今剣さん、これは一体…」
気づけば、傍に居てくれた女性の付喪神や遠巻きに舞台を見守っていた者たちが、手に手に扇や榊を振っていた。
ーーー目出度い、目出度い!
ーーー生まれ変わりしこの宮の、初めの神事はかように目出度い!
問われた今剣もまた、頬を上気させていた。
「小狐丸のおししょうさまは、とってもえらいかたなんです!
そのかたが、鶴丸のことを小狐丸のつがいだとおみとめになったんです!」
眷属ではなくとも、御先稲荷(おさきいなり)が身内の者と認めた。
それはつまり、稲荷大明神の力が少なからず鶴丸を加護するということだ。
「…えっ、つがい…番? 番ってなんだっけ?」
「鳥とか狐とかの夫婦のことじゃなかったか? …えっ」
若者たちは混乱しかしなかった。
ただ…そう、幼少の頃の大恩人である鶴丸に、とても目出度いことが起きている事実だけはおそらく。
「よ、よく分かんねえけど! おつる様のお祝いってことで合ってますか?!」
間違っていない。
「あってますよ、わらしたち!」
予想に違わず頷いてみせて、今剣はトントンと身軽に観覧席から舞台へ渡った。
楽の者たちへ音を合わせよと命じてから、彼は呆然とする鶴丸の元へ走り寄る。
「鶴、鶴丸! まうのですよ、いまここで!」
「今兄様(いまのあにさま)…?」
言葉が中々届いてくれないことに焦れ、今剣は鶴丸の白い手を取った。
「まうのです! あのひ、ぼくたちのまえでまってくれたこいのまいを。小狐丸とまったふたりれんぶを!」
「え…」
言祝ぐ、と云ったのだ。
付喪神など足元に及ぶのがやっとの、御先稲荷という神使(みつかい)が。
(そのおんけいに、むくいるためにも)
ようやく事を理解し始めたらしい黄金(こがね)の瞳に、今剣は穏やかに語りかける。
「しゅくふく、されましょう。鶴丸」
やんわりと細められた赤の眼は、温かい。
未だ心此処に在らずといった鶴丸の反対側の手を、別の温もりが包んだ。
「小狐…」
すでに立ち上がっていた小狐丸が、鶴丸の手を引き立ち上がらせる。
「新たに生まれた稲荷が分祀で、初めの祭事とは…。分不相応な気がしないでもありませぬが」
師たる白狐の思し召し、有り難く頂戴いたしましょう、と。
差し出された扇を受け取れば、美しい茜色をしている。
「これは…」
ゆっくりと開いたそこには、松を後ろに朝陽の中を飛翔せし白鶴。
まだ繋がれたままの手が、僅かだけ強く握られた。
「寿がれる中で紅白揃えば、これ以上の幸はありませぬ」
そう告げた小狐丸が、あまりに幸せそうに微笑むもので。
不覚にも込み上げてきたものを無理に押し留め、鶴丸は差し伸べた手で彼の頬を撫でた。
「…きみは、馬鹿だなあ」
もう、番って千年だというのに。
小狐丸の紅色を宿す目許をそろりとなぞった鶴丸こそ、まるで泣き笑いのようで。
「俺の"赤"なら、ここに在る」
幸せだと、破顔した。
* * *
浮世離れした…実際、ここは浮世とは云えない…宮で繰り広げられた言祝ぎの宴は、ひたすらに愉快で穏やかで、美しかった。
どこからか出てきた料理と酒を勧められたときは驚いたが、人に害はないと鶴丸に言われてしまえば断れるわけもなく。
言い含められていたか無理に酒を勧めて来る者もなくて、始終ほろ酔いの良い気分であった。
もっとも、酔ってしまうことを情景の壮麗さが許さない。
「おつる様、おめでとうございます!」
彼が宴席の合間を縫ってやって来たときに揃って告げれば、鶴丸は照れながらも優しく微笑み返してくれた。
鳥のようにすぐに舞台へ舞い戻ってしまったが、それすらどうでも良いくらいに。
「何か…おつる様があんな幸せそうに笑うの見てたら、訳分からんのがどうでも良くなったわ…」
「同感だ」
時折、今剣や岩融が構いに来て、一度だけ小狐丸もやって来て。
気づいたときには夜が明けていたなんて、そんな。
「これは驚いたな…」
うっかり鶴丸の口癖を真似てしまったことに、恥ずかしがる余裕もなかった。
付喪神たちがあちこち境内や本殿を駆け回る中…片付けだろうか…、思い出深い鳥居の前で鶴丸と小狐丸に向かい合う。
彼らの向こう側に建つ神社は、大人になった若者たちから見ても、幼少の時分と変わらぬ大きさに見えた。
「朝まで引き留めてしまって悪かったな」
帰ろうという気さえ起こさなかった若者たちのせいなのだが、鶴丸はそんなことを言う。
「まあ、きみたちの身内には知らせをやっているから、怒られることはないだろうが」
しかもフォロー付きだ。
「ずっとお世話になりっぱなしですみません…」
過去に一番神社へ出入りしていた若者が項垂れる横で、他の2人も同意の顔をしている。
「ははっ! 見届け人を頼んだのはこちらだしな」
言いながら、鶴丸は和装の袂から何かを取り出す。
「ほれ、餞別だ」
それぞれ手渡されたのは、白い絹糸で作られた御守り。
生地の白とは違う滑らかな色違いの白の糸で、鶴丸紋が描かれている。
「護り袋は綴じてしまったが、中身は俺の折り鶴と稲荷の護符だ」
きみたちが今まで持っていてくれた折り鶴の強化版さ、と鶴丸が笑う。
(いやいや…)
何かもう、本当に畏れ多いことである。
こんなにも助けてもらって、気に掛けてもらって、千年なんて途方もない年月を生きているこの刀(ひと)たちに。
三者三様に戸惑う若者の頭を、優しく笑む鶴丸が順に撫でた。
「一期一会の出会いの折、きみたちとは二度見(まみ)えることが出来た。俺なりの礼だと思ってくれ」
礼を云われる理由などないのに、彼はそう言うのだ。
結局、受け取るしかない。
「ありがとうございます…」
もう大人であるというのに情けなく、声のトーンが下がってしまう。
目敏く(いや、耳か?)気づいた小狐丸が紅の眼を弓形に細めた。
「なんじゃ、そなたら。嬉しくないのか」
嫌味だ。
絶対にわざとだ。
「そんなわけないじゃないですか…」
「貰ってばっかりで申し訳ないんですよ…」
くすくす、と笑っているのは鶴丸だった。
「ははっ! 遠慮せずに貰ってくれ。そうだな…俺たちからの引き出物だと思って」
そうだった。
初めの儀式が終わった後は、彼らの婚姻の儀と披露宴のようなもので。
思い出したら頬が熱くなってきた。
「す、末永くお幸せに!」
「ああ、もちろんだ」
鶴丸はやっぱり可笑しそうに笑う。
「きみたちにも、良い廻り合わせが来るさ」
俺は吉兆を呼ぶ鶴だからな! と、笑って手を振った鶴丸と、その隣で達者でな、と見送ってくれた小狐丸。
鳥居を越えて山道を戻った若者たちが、彼らと見(まみ)えたのはそれが最後だった。
若者たちの姿が、神社の神域から消える。
ほぅと息を吐いた鶴丸に、その頬を撫ぜて小狐丸が尋ねた。
「鶴、大丈夫ですか?」
触れる大きな手に自らの手を重ね、鶴丸はゆるりと目許を緩める。
「…ああ。強いて言うなら、腹の中で何かが渦巻いて違和感があるというか」
なるほど、と小狐丸が腑に落ちた。
「鶴の霊力と稲荷の霊力が、混じり合っている最中なのでしょう」
「…そうか」
そう零した鶴丸は、酷く嬉しそうで。
「嬉しそうですね」
「そりゃあ嬉しいさ」
俺の中に、きみと同じものが流れているということだろう? と。
穏やかに笑む鶴丸は美しく、堪らなくなった小狐丸はその痩身を抱き締める。
「…そうじゃな。私も、鶴の気配をより近くに感じられます」
しばらくの間身を寄せて、不意に鶴丸があっと声を上げた。
「どうしました?」
小狐丸が尋ねると、彼は舞を披露したばかりの舞台の方を目線で示す。
「あの子らのくれた桃、せっかく実が生ったのに還すのを忘れた…」
舞台の周囲を囲うように茂る桃の樹は、鶴丸が囚われていた頃に若者たちが持ってきてくれた桃の、種が育った姿だ。
鶴丸が眠りに着いた後、宮に居着く付喪神たちが世話を続けてくれていた。
今では立派な実を付けてくれる。
「縁は何処かで繋がっているもの。次に回せば良いだけのことです」
人の子の生涯は短く、本人に会うことはおそらくなかろうが。
それに、と小狐丸は鶴丸の頭を撫でた。
「この境内で種から育ちしあれは仙桃。うかつに与えては、人の子の害となりましょう」
「うぅん…それもそうか…」
我らには良き供物ですが、と小狐丸は鶴丸の手を引き本殿へ戻る。
話が聞こえていたのだろう、鋏の付喪神が桃を採ろうかと尋ねてきた。
「では、1つ頼もう」
気が抜けたかぼんやりとしている鶴丸に代わり小狐丸が答えれば、彼女は優雅に頭を下げて庭へ出ていく。
「鶴、鶴丸」
「ん…」
「眠るのはもう少し後にしましょう。件の桃が来ますから」
本殿に入り、用意されていた座布団の上に座らせる。
鶴丸の目の閉じかけた顔は随分とあどけなく、つい笑みが零れた。
「…こぎつね?」
不思議そうにした彼にただ笑みだけを返し、その唇へ口づけを贈る。
すると雛鳥のようにもっととねだってくるので、それもまた愛らしいものだ。
「…ふふ、」
そして鶴丸は、とても幸せそうに微笑う。
「眠るのは、屋敷に戻ってからにしよう」
また三日月の兄様(あにさま)が拗ねてしまうからな、と言うもので、小狐丸には唐突に現実感が戻った。
「…思い出してしもうた」
「ははっ」
三条宗近作の刀の中で、三日月と小狐丸は同時期に打たれた太刀だ。
近しい中に弟分はおらず、双方我が強いので兄も弟もない。
そんな2人が出会った、鍛冶師三条宗近の弟子筋であった五条の手になる美しい刀。
百年を経たずして自我を持つ『物』が同じ太刀にまだ在ったと、2人して大層喜んだものだ。
三日月のそれは親たる三条の気質を映したか、まるで孫を可愛がるような愛情を。
小狐丸のそれはいつしか形を変え、庇護を通り過ぎて情愛も愛欲をも込められた心を、それぞれに注いできた。
石切丸たちには時に呆れられもするが。
さり、と衣擦れの音がして、見れば鋏の付喪神が桃を持ってきた。
綺麗に剥かれた桃は食べやすい大きさに切られ、竹串が刺してある。
「…甘くて良い匂いだ」
微睡みかけていた鶴丸が顔を上げた。
その口許に竹串に刺した桃を差し出してやれば、鶴丸は少し身を乗り出してぱくりと食べる。
(美味い…)
甘い芳香は口の中で噛んだ瞬間にもふわと広がり、瑞々しい果肉を飲み込んでも尚残った。
無言でこちらを見上げ次を催促する鶴丸の姿は、まさしく雛鳥。
(まるで餌付けじゃな)
自分も食べてみてから、これは次が欲しくなるかと附に落ちて。
小狐丸は望みどおり、鶴丸に次の桃を差し出してやった。
もぐもぐと桃を頬張る彼の顔色は、若者たちが訪れた頃に比べるとずっと良い。
…此処が稲荷の霊域に組み込まれたこと。
そして御先稲荷が鶴丸を小狐丸の番として認めたことが、彼という付喪神を構成する要因を照らしているのだろう。
「なあ、小狐」
桃を食べきり零れた蜜を掬い、鶴丸は甘やかな時間の限りを、そう遠くはない未来を見る。
「俺がまた何処かへ持ち出されてしまっても、追い掛けてくれるかい?」
武家から為政者へ、商人、ときには妓楼の太夫まで。
『鶴』という縁起物の号と、護身や退魔を願われる刀という道具であること。
黄泉の國さえ、生者に欲される鶴丸を引き留めることは出来なかった。
すでに死した者が出来ぬなら、他の誰が出来ようか。
「当然でしょう」
小狐丸も察していた。
鶴丸が、遠からぬ内に余所へ移るであろうことを。
「今までもそうして来たのです。鶴丸がどこに居たとしても、稲荷の分祀を飛んで捜し当てますから」
繋いだ手に、きゅっと力が籠る。
「…うん」
元来が戦刀であるが、鶴丸は飾られ愛でられるのも嫌いではない。
それはそれで、刀として求められる姿のひとつであるからだ。
それでも、一つ処に留まれたら、と思うことはある。
小狐丸たち三条の格高き付喪神は、京に身を置く間に兄弟の契りを交わして互いの神域へ繋がる『道』を創った。
彼らが集う『屋敷』は、その『道』の交点に在る。
父たる刀鍛冶が縁ある者というだけの鶴丸は、己だけではそこへ行くことが出来ない。
彼が屋敷を訪れるのは、往々にして小狐丸と共に在るときだ。
沈黙してしまった鶴丸を抱き寄せて、小狐丸は随分昔に今剣より問われた言葉をふと思い出す。
『鶴丸をかみかくししないのですか?』
ぼくたちはむりでも、あなたならばできるでしょう? と。
彼は身を移され続ける鶴丸を案じ、またそれを追い続ける小狐丸を案じた。
無論、小狐丸とて考えなくもなかった方法だ。
(…いつか、その羽を休められるときが来るのか)
『神隠し』は、相手の存在を自分自身の領域に隔離する。
隠された側は何をどうしようと、隠した側の都合に左右されることになる。
(だが…)
それでは『鶴丸国永』を所有してきた者たちと同じだと、小狐丸は考えていた。
新たな土地へ連れていかれることは刀の都合などお構い無しだが、その新たな土地で付喪神としての身をどうするかは、その刀の自由だ。
(折れる、燃えるとなれば、問答無用で隠すのじゃが)
いつも。
小狐丸が稲荷の分祀を飛んで鶴丸を探しに行くと、彼は酷く嬉しそうな顔をして語る。
こんなものを見た、あんな人の子がいた、と。
時には気が重くなることを見聞きしながら、彼は小狐丸に彼が見てきたものを教えるのだ。
それが追い掛けた小狐丸への、鶴丸なりの歓迎であり詫びであると気づいたのも…いつであったか。
あふ、と鶴丸が欠伸をした。
気の抜けたそれに思わず笑い、小狐丸は鶴丸を横抱きに抱き上げる。
「…っ?」
驚き目を丸くした鶴丸の丸い頭を、宥めるように撫でた。
「眠いのならそのまま眠って良いですよ。私が屋敷へ連れて行きますゆえ」
眠気が強いのは明白で、彼は悔しげに眉を寄せてから諦めたように目を閉じた。
(三日月の兄様には悪いが、眠ってしまおう…)
寝入る直前、血色の良くなった唇が小さく紡ぐ。
「…起きたら、ちゃんとそこに居ろ」
眠りから醒めてみれば違う土地、違う家、違う持ち主。
それは鶴丸にとって当たり前のことで、同じだけ厭うことでもあった。
(せめて、)
傍に居ると確信出来るなら、目が覚めたときに在って欲しい。
小狐丸は目を細め、柔和に笑んだ。
「分かりました。鶴が目を覚ますまで、お傍に居りましょう」
鶴丸が寂しさに一等弱いことくらい、小狐丸は承知している。
小狐丸の言葉に安心して綻ぶような笑みを浮かべた彼に、心の臓が強く跳ねた。
「おやすみ、こぎつね」
「…お休みなさい。私の愛しき鶴」
それでも強がる鶴丸が意図せず零してしまう甘えは、小狐丸には抱き締めても足りないほどに愛しかった。
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2016.3.13
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