望の乞う声、朔の言承け

(朔の言承け 1)




「ーーおはよう、鶴丸」

まだ黎明の刻、ふっと目を覚ました鶴丸を竜胆丸が覗き込んでいた。
「何か思い出すことはあるかい?」
唐突な問いに面食らうが、相手が竜胆丸であるがゆえに鶴丸は特に疑問を持たない。
「思い出す…こと…」
随分と頭がぼんやりとしているが、ずっと臥せっていたような気がする。
身体が、まるで墓から掘り出されたときのように重くて。
「…ああ。他には?」
「他…?」
やや首を捻ってから、鶴丸は逆に竜胆丸へ問う。
「俺はそんなに長く臥せっていたのかい?」
「そうだなあ…」
竜胆丸は笑みを深め、鶴丸を胸元へ抱き寄せた。
「俺が喚ばれてしまう程度には、長かったらしいぞ」
「…そうか」
喚べるのか、ここなら。
永く分かたれていた半身を、手の届くここへと。
白い襟足を梳き、竜胆丸は目を伏せた。
「俺は根ノ國の者だからな、居られて次の朔の日までだ。例え道筋が在ったとしても、在り続けることはできない」
彼を掴む手に、無意識に力が篭もる。
「…そう、か」
ずっと共には、居られないのか。
宥めるように、竜胆丸は鶴丸の額に唇を落とした。
「俺だってきみと同じことを考えている。俺はきみだからな」
だからそんな顔をしてくれるな、と困ったように囁く彼に、鶴丸は頷く他にしようがない。
手探りで彼の掌を探し、ぎゅっと握った。
「…離れたく、ない」
「…ああ。せめて、ここに居る間はきみの傍に在ろう」

カタリ、と外の廊下で音が上がった。
不意のことすぎて肩を揺らした鶴丸の背を撫で、竜胆丸は大丈夫だとまた囁く。
「誰だ?」
「平野藤四郎です。お呼びに従い、参上いたしました」
誰何の声に答えたのは平野で、鶴丸は覚えのある名と声にぱちりと目を瞬いた。
「平野…?」
「入ってくれ」
竜胆丸が鶴丸から身体を離すと、無意識だろう、鶴丸の指先が袖を掴む。
苦笑を隠すことはしない。
その手を繋いでやれば安心したように目許を緩めるのだから、離せるわけもない。
す、と障子が開く。

竜胆丸の隣で、不思議そうにこちらを窺う鶴丸。
彼を見るや、平野は多くの感情が胸から沸いて言葉に詰まった。
「鶴丸、様」
ぽろぽろと涙を零し始めた平野に、ギョッとしたのは鶴丸の方で。
「っ?! え、おい、平野、どうした?!」
怪我でもしてるのか?! と明後日なことを聞いてくる彼に、平野は泣きたいのか笑いたいのか分からなくなってしまった。
「も、申し訳、ありません…怪我とか、では、なく。ただ」
「ただ?」
鸚鵡返しにしてくる鶴丸に、もはや穢れは一片もない。

「鶴丸様が、お元気になって…良かったと」

泣いて立ち竦んでしまった平野を、竜胆丸が腕を伸ばして引き寄せ座らせた。
平野がようやく間近で見た鶴丸は、黄金の眼に光を宿している。
(御所でご一緒している、鶴丸様だ…)
穢れはない。
何かを諦めたような瞳でも、いつも気だるげに閉じた瞼も、力のない指先でもない。
おろおろとしつつ自身の頭を撫でてくれる彼の手に、涙は溢れるばかりだった。
「良かった…良かったです、ほんと、に…」
人に打たれ、人に生み出された刀の身なれど、あのような所業を赦せるわけがない。
審神者の霊力で縛られた身で、祟ることが出来るというなら。
(竜胆丸様を喚んだのは、僕たちなのかもしれません)
「俺が来るまで、きみを献身的に世話してくれてたのが平野さ。あともう1人いるんだが、そろそろ来るだろう」
噂をすれば影、軽い足音が部屋へ近づいてきた。
足音は障子の脇でピタリと止まる。
「竜胆丸さん、物吉貞宗です」
(貞宗…?)
伊達に、その名を持つ短刀が居たなと鶴丸は思い出す。
「入ってくれ」
「…失礼します」
見覚えの無い刀…おそらくは脇差…は、本来の鶴丸に似て真っ白な洋装であった。
「鶴丸、さん」
同じく白い肌の上を、ぽろりと雫が流れ落ちる。
鶴丸はおろおろとするばかりだ。
「ずっと、ずっと…鶴丸さんに、言いたかったことが、あったんです」
平野が座ったまま場所を開ければ、物吉は軽い会釈でそこへ正座する。
溢れる涙を拭い、彼は鶴丸を真っ直ぐに見つめた。

「鶴丸、さん。僕を、僕たちを、守ってくれて……ありがとうございます」

面食らったのは鶴丸で、臥せっていたという事実しか知らないのだから当然だ。
臥せっていたのに守ったとは、これ如何に。
思わず竜胆丸を見れば、彼は子を見守るような笑みで鶴丸を見た。
おまけにそっと口元に人差し指を立てられれば、黙っているしかないではないか。
「そう、か。…すまん、ほとんど覚えていなくてな」
申し訳なく告げれば、物吉はふるりと首を横へ振った。
「良いんです。覚えていなくても、僕たちが覚えていますから」
そもそも、礼の言葉は鶴丸だけに向けたものではないのだ。
(竜胆丸さんが居なければ、鶴丸さんは)
考えたくもない。
「きみは貞宗と云うんだな」
その鶴丸から話を振られ、物吉は動揺した。
「は、はい」
「いや、伊達に居た頃にな。号を太鼓鐘という貞宗の短刀が居たのさ」
きみは脇差かい? と問われて、そのとおりだと頷く。
「伊達に関わりのある刀なら、大倶利伽羅さんと燭台切光忠さんが居ますよ」
「そうかい! 燭台切とやらに面識はないが、後で会いに行ってみよう」
何でもないように言ってくるので、物吉と平野は過剰に反応してしまった。
「鶴丸さんはまだ動いちゃダメですよ!」
「そうです! ずっと臥せっておられたのですから!」
その剣幕には些か呆気に取られて、竜胆丸の忍び笑いにようやく我に返る。
「…竜胆」
意味も分からぬまま笑われては、どうにも居心地が悪い。
ムッと眉を寄せた鶴丸を、竜胆丸は頬を撫でて宥める。
「良いから心配されておけ。ついでに世話も焼かれておくと良い」
結局答えは貰えなかった。
「鶴丸様、お食事は出来そうですか?」
「ん? …ああ、この身は人のように飲み食い出来るのだったか」
そういえば喉が渇いたと言うので、竜胆丸はすでに冷めていた白湯を渡してやる。
「食事の内容は任せる。俺には分からんからな。ここへ膳だけ運んでくれたら良い」
竜胆丸に告げられ、首肯した。
「承知しました」
物言いたげに竜胆丸を見返した2対の眼(まなこ)は、どうにもならないことなので何も言わない。
肩を竦めることで答えを返して、竜胆丸は水差しと湯呑みの乗る盆を示す。
「水を替えてくれるか?」
「分かりました。膳と合わせてお持ちします」
ではまずはこれにて、と2人が退室した。

パタンと閉じた障子をしばらくの間見つめて、鶴丸はぽつりと零す。
「…いったい、何があったんだい?」
繋いでいた手を引かれ抱き締められたので、大人しく抱き返した。
竜胆丸はその背を撫でて、静かに口を開く。
「そうだなあ…。きみが皆を守るために無茶をしたので、周りが心配性になってしまった。…というところか」
「…? 折れる寸前だったとか、そういうことかい?」
「ははっ、まあ似たようなものさ」
納得し兼ねる、と片眉を上げたであろう鶴丸に笑い、竜胆丸はその両頬に手を添え顔を上げさせた。

「ここに顕現してる刀剣はな、大なり小なりきみに恩義がある。ゆえに誰もが、きみと俺を気に掛ける。
欲されることに飽いた俺たちには、些か面倒な状況かもしれん」

ほんの2歩先にある障子の内側から届いた声。
大倶利伽羅は、声を掛けようと開いた口を閉じた。
三日月は袖口を口許に、閉じた障子をじっと見つめる。
おそらくは竜胆丸であろう声は続いた。

「皆も悪気があるわけじゃあないからな。あしらうことにちょいと罪悪感が沸くかもしれん」
特に短刀は見目が幼いからな、と続けば、鶴丸にも何となく彼の言わんとすることが分かった。
「…しかし、それでどうしろと云うんだい?」
竜胆丸が言っているのは、朔の日を過ぎ彼が居なくなった後のことだ。
それを今、鶴丸へ伝える意味は?
「なに、『鶴丸国永』の気性をそれなりに知る者に盾になってもらうのさ」
例えば。
「中々に人の機微に敏い大倶利伽羅や、天下五剣として相手を抑えるのに長けた三日月宗近にな」

なあ、おふたりさん?
逃げ道を塞がれた状態で話題を振られ、大倶利伽羅は溜め息をつき三日月は苦笑した。
「はっはっは、これは1本取られたなあ」
「……」
遠慮無く障子を開ければ、目を丸くしている鶴丸と人の悪い笑みを浮かべる竜胆丸。
三日月を見た鶴丸の目が驚きを映し込んだ。
「久しぶりだな、三日月」
「うむ。博物館での展示以来か」
三日月の言葉に首を傾げた大倶利伽羅へ、竜胆丸が説明してやる。
「平成の時代に『鶴丸国永』が特別展示されたのさ。三日月が所蔵されてる博物館でな」
なるほど。
「こうしてそなたと目を合わせて話すことが出来て、俺は嬉しいぞ」
三日月に大人しく頭を撫でられている鶴丸が、大倶利伽羅には意外に思えた。
伊達での鶴丸は屋敷のどの付喪神よりも歳上で、格が高かった。
ゆえに大倶利伽羅など特にそうだが、弟か息子、下手をすれば孫のように接されていたのだ。
それが歳下の扱いを受けているなど。
「大人しい俺が意外かい?」
疑問が顔に出ていたか、竜胆丸がくつくつと笑った。
「刀匠の五条と三条は何らかの縁があるそうでな。年月の意味なら、三日月と鶯丸は俺より年寄りだぞ」
「そう言うほど変わらぬだろう?」
「まぁなあ。ただ、獅子王もそう変わらんのにと時々思うぞ」
あれは老兵へ贈られた太刀だからなあ、と三日月も笑う。
「それで、竜胆丸が言うたことだが」
俺は構わんぞ、と三日月が言うのに、俺も構わないと大倶利伽羅が告げた。
驚いたのは鶴丸の方だ。
「…驚いた。大倶利伽羅がそんなことを言うようになったとは」
この男の中で、自分はどれだけ子どもなのか。
気に食わなかったが、反論よりも先に大倶利伽羅の口を突いた言葉は。

「ここで。俺の中で最優先なのはあんただ、鶴丸国永。あんたは大人しく誰かに頼るなんてしないだろう」

正面から真面目な顔でそんなことを言われて、鶴丸は平静さを保てなかった。
ほんのりと頬が朱く染まる。
「き、きみ……伊達男が過ぎるだろう!」
自分が伊達男だというなら、それは鶴丸のことだろうと大倶利伽羅は思っただけで口にはしない。
何せ燭台切が伊達を離れた後、守り刀としてのあれこれや行儀に至るまでを大倶利伽羅に叩き込んだのは鶴丸だ。
太鼓鐘貞宗は正しく友人と言えたが、彼にとって鶴丸はその枠に入らなかった。
「ふむ。龍の仔がよく気がつくのは、鶴の躾の賜物であったか」
納得した、とばかりに三日月が笑む。
相変わらずの美しさだなあ、と鶴丸は思うばかりだ。
「俺よりも竜の仔の方がそなたのことを知っていよう。俺が鶴について知るのは、隠すのが上手いことくらいだな」
鶴丸がこの本丸で顕現し、竜胆丸が来るまでの間。
どれだけのものを抱え、そして耐えていたのか、三日月には想像すら出来なかった。
(いや、違うな)
鶴丸は想像すら『させなかった』のだ。
「平成の世で会うたそなたは、とても楽しそうであったな。
そなたは鳥の名を冠するがゆえに、常に羽ばたける場所を探しておるのだろう」
彼がじっとしているとは思わない。
三日月は宝剣に近い形で生み出されたが、鶴丸は違う。

「俺もそなたと変わらぬ爺だが、そなたの止まり木程度にはなれるつもりだぞ?」

望月よりは暗かろうが、無いよりはマシだろう。
鷹揚に笑いながら宣言されて、鶴丸は先の大倶利伽羅に続いて追い打ちを受けた格好になった。
「きみはきみで、俺を甘やかそうとするのか…」
照れ隠しに竜胆丸の手をぎゅっと握って、朱くなった顔を俯ける。
「うむ。鶴の考えている5倍くらいはな」
三日月は追い打ちに追い打ちを掛けた。
「ご…」
「しかしそなたも矜持が高いゆえ、抑えておるのだ」
吐こうとした文句は霧散してしまった。


*     *     *


大広間で、様々な者に宥められながら平野と物吉は笑っていた。
彼らのこのような笑みを見るのは、誰もが初めてのことだ。
平野は厨へ入る。
「燭台切さん」
それなりに広い厨で、本日の当番まとめ役である燭台切へ声を掛ける。
「平野くん! 鶴丸さんの様子は…?」
他に本日の当番である今剣、蜂須賀、陸奥守、鯰尾、宗三が手を止め、同じく平野を注視した。
油断すればすぐに緩む涙腺をぎゅっと堪えて、平野は笑みを向ける。
「お元気、です。今は三日月様と大倶利伽羅さんがお会いされています」
誰もがホッと胸を撫で下ろした。
「燭台切、こちらは僕たちでやりますから。あなたは鶴丸の膳を用意してください」
「うん。ありがとう、宗三君」
「陸奥、もうごはんはよそっていいですよね?」
「そうじゃな。漬物と一緒に運んでええき」
「宗三君、こっちは僕がやるよ」
「あっ、じゃあ蜂須賀さん! ついでにこれお願いします!」
一気に厨が慌ただしくなった。

「石切丸さん。少し、よろしいでしょうか?」
まだ膳が並ぶ前の大広間、江雪に声を掛けられ石切丸はそちらを見上げた。
「おはよう、江雪くん。何かな?」
石切丸の隣ですでに席に付いていた鶯丸も興味を向ける。
「いえ、少々思いついたことなのですが」
竜胆丸さんについて、と言われて、気にしないわけがない。
「彼がどうかしたのか?」
口を挟んだ鶯丸へちらりと目を向け、江雪は続けた。
「彼は、我々と膳を共にしません。それは彼が、黄泉に棲まうモノであるからだと聞きました」
そのとおりなので、頷く。
「墓へ主と共に葬られた刀。それがこうして我々と同じく、人の肉体を持っている。
ならば、人の慣習に沿うのではないかと」
どういう意味だろうか。
「初七日、四十九日、一周忌。人は誰かが亡くなると、日を区切って法要を行います。
そのとき供えた餅や果物は、法要を終えた後に参列者へ配られます」
あっ、と石切丸と鶯丸は同時に声を上げた。
「故人を参り、故人と供物を分ける。と、なると…」
「一度『竜胆丸へ供えた食事』であれば、彼も食せるかもしれない?」
無言のまま頷き合い、江雪が厨へ向かう。
鶯丸が、どこか苦笑交じりに言葉を漏らす。
「俺も随分と永く在るが、この国はあらゆる風習が織り交ざっている。…それに感謝したくなる日が来ようとはな」
あいつの処には俺が江雪と行こう、と彼が言うのに、石切丸は是を返した。
「君とは顔見知りのようだしね。私は菊花代わりの榊を用意しよう」
立ち上がり、彼も一旦大広間を後にする。

「鶴丸さん、膳をお持ちしました」
物吉が膳を、平野が水差しと茶を載せた盆を手に戻ってきた。
「すまんな、2人とも」
鶴丸が礼を言えば、2人の目線が後ろへ向く。
何だろうかと竜胆丸と共に目線を上げると、見覚えのある顔が覗いた。
「やあ、鶴丸。邪魔するぞ」
「鶯じゃないか!」
御所で共に在る古備前の太刀だが、このように人の身で会うとまた違う気がする。
「そっちは誰だい?」
そより、と揺れたのは袈裟のように見えた。
「…失礼いたします」
江雪とは竜胆丸も顔を合わせた程度で、ほとんど会話もしていない。
「お初にお目に掛かります、鶴丸さん。私は江雪左文字と申します」
宗三左文字、小夜左文字の兄刀にあたりますと繋げば、宗三は覚えがあるなあと返った。
「詳しい話は後にして、竜胆丸さん。貴方に試して頂きたいことがあるのです」
「ん? 俺か?」
竜胆丸は矛先が自分であったことに驚き、ひとまず居住まいを正した。
そういえば江雪は、小さな膳と榊の枝を持っている。
「貴方が我々と膳を共にしないのは、すでに黄泉戸契(ヨモツヘグイ)であるからとお聞きしました」
「ああ」
「なれど…貴方に供えられた供物であれば、貴方も食せるのではないかと」
菊はこの本丸にありませんでしたので榊ですがと言い置いて、彼は竜胆丸を仏像に見立ててその前に膳を配し榊を飾る。
鶴丸と竜胆丸の目が揃って丸くなった。
「…きみ、経が読めるのかい?」
「人を斬る刀が何を…とお思いかもしれませんが、かつての我が主は和睦を重んじる僧でもありました」
こりゃ驚いた、と鶴丸も一緒に呟くもので、鶯丸が小さく吹き出す。
「戦刀として生まれた鶴丸からすれば、不思議なものだろうな。まあ、今は同じ人の器を依代にした身だ。
食事というものを味わえるなら、その方が良いのではと考えたんだ」
鶯丸の目配せで、物吉が鶴丸の膳から粥を茶碗へ取り分けた。
よくよく見れば茶碗もレンゲも2組揃っている。
平野が首を傾げた。
「あの…余計なことかもしれませんが。経を上げ供えたところで、見目が変わるわけではありませんよね…?」
そのとおりだ、と竜胆丸が答えてやる。
「…そうだな、きみたちは山鳥兜と二輪草の見分けはつくかい?」
鶴丸と江雪以外がきょとんとした。
「…小夜なら分かるかもしれません」
「そうかい。まあともかく、食えるかどうかは分かるからやってみてくれ」
「分かりました」
江雪が数珠を巻いた右手を胸の前に立てると、竜胆丸は両手を胸の前で合わせ目を閉じた。
読経が始まる。

遥か昔に主のために唱えられた経が、まさか己のために唱えられる日が来るとは。
(刃生、永く生きてみるもんだ)
もっとも、今回のような理由で現世へ戻るのは二度と御免だが。

誰もが固唾を呑んで読経が終わるのを見守った。
最後の一声が途切れ、竜胆丸が瞼を上げる。
「なあ、竜胆」
「ん?」
「もし現世の物を食べたらどうなる?」
鶴丸に問われ、彼は笑みつつ目を伏せた。
「そうだなあ…。全身が痺れて血のようなものを吐いて、数日は動けなくなるな」
サッと鶴丸の顔が青くなり、竜胆丸の手を勢い良く掴んだ。
「待て…それは、本当にあったことか」
「時期を知っていれば墓場には出られるからな。好奇心で、供えられる前のものを一欠」
まあでも、と目の前の膳を見下ろす。
「万が一があったとして、ここには鶴丸が居る」
そもそもこれは肉の器だから同じことが起きるかも分からん、と慰めになっていないようなことを言う。
やんわりと鶴丸の指を外して見下ろした膳は、竜胆丸にとって問題ないように見えた。
(まあ、食えばすぐに分かるな)
レンゲを手に取り、粥を掬う。
湯気を上げる粥は刻み葱に卵が混ぜ込まれ、美味そうだ。
一口目を咀嚼し飲み込んで、ふむ、と首を傾ける。
もう少し塩気が欲しいところだが、調味料を追加する場合はどうなるのだろう。
「大丈夫そうだ」
飲み込んで数秒経ったが、体内で何かが起きた感じはない。
誰もがホッと肩の力を抜き、平野と物吉がわっと歓声を上げた。
「これで竜胆丸様とお食事が出来ますね!」
「皆さんにも伝えてきます!」
「慌てると転ぶぞ」
鶯丸の注意を後ろに、2人は部屋を飛び出していった。
江雪が珍しくも笑みを浮かべ、鶴丸と竜胆丸を見つめ返す。
「食事を共にするということは、和睦への第1歩でもあります。私が毎食前、読経に参りましょう」
「さて、俺も朝飯を食ってくるか。後で茶を入れに来よう」

江雪と鶯丸が部屋を出て行けば、ここには鶴丸と竜胆丸しかいない。
「こんな肝が冷えるのは懲り懲りだぜ…」
ようやく自分の分の粥を手にして、鶴丸が眉を顰めた。
「これっきりだろうさ。まあ、後から調味を足す場合にどうなるかは分からんがなあ」
しかしこの粥は美味いな! と竜胆丸が目を輝かせるので、やはり彼は己と同じ存在であるのだと鶴丸は思い直す。
退屈も過ぎれば毒、どうしようもなく刺激が欲しくなるのだ。
「…うん。美味い」
粥は美味だった。
さらりと頬を撫でられ、その手の主を見遣る。
「俺が来る前のきみは、そうして満足に食うことすら出来てなかったそうだ」
美味いものを食えるというのは、良い驚きだ。
染み染みと漏らした竜胆丸の意見はまったくそのとおりで、鶴丸は黙々と粥の鍋を空にした。


*     *     *


茶を入れる道具を手に、鶯丸が平野と一期一振を連れてやって来た。
「一期か! きみの弟には世話になりっぱなしですまんなあ」
「いえ。我々は自分に出来ることをしているだけです。鶴丸殿と、こうしてお目に掛かれて…本当に良かった」
一期一振がどこか涙ぐんでいるように見えたことは、指摘しない方が良いのだろう。
鶯丸の入れた茶を飲みつつ、御所で気心の知れている者たちと話す鶴丸を、竜胆丸は静かに見つめていた。

大倶利伽羅が、燭台切光忠を連れて訪れた。
「初めまして、鶴丸さん。僕は燭台切光忠。
伊達政宗公の元で燭台切の号を頂いたんだけど、その前は織田に居たんだ」
「きみが噂の光忠かい? 聞きしに勝る伊達男だなあ、いつかに見た政宗公の絵姿にそっくりだぞ!」
「えっと、どんな噂かは分からないけど、政宗公に似てるって言われると嬉しいな」
忌憚なく褒められ照れる燭台切は、そこそこレアである。
…ということを知っている大倶利伽羅は、やはり鶴丸も伊達男だと再認識を為した。



竜胆丸が寝入りそうなので昼餉は1人分で良い、と物吉が言付かってきた。
昼餉を食べ終わったら鶴丸も寝ると言うので、後藤と厚が廊下での見張りに立つことに決まる。
「それじゃ、僕らは僕らで仕事をしよう。演練を先伸ばすにしても、出陣はしておかなければね」
歌仙が出陣表を捲る。
「第1部隊、墨俣。第2部隊、阿津賀志山。第3部隊は夜戦、池田屋2階。第4部隊、遠征・天下泰平。以上だ」
「内番でも非番でも無い者は、本丸各所の見回りを行うように」
長谷部により付け足された『見回り』とは、竜胆丸が顕現してから作られた役目だ。
審神者が黄泉の植物に喰われて以降、この本丸と刀剣たちは変わりないように思えるが、本当にそうとは限らない。
特に黄泉の植物と化した審神者が"生えている"北の不浄処は、妖の類が紛れ込んでも面倒なことになる。

出陣メンバーにも内番にも入っていない長谷部は、鯰尾と共に広間の隣にある小部屋で作業に入った。
「長谷部さん。昨日まで明るかったこれ、何も反応しなくなっちゃいましたよ」
鯰尾は手のひらより大きめの長方形のものを振る。
「差し込み口はないか?」
「何か差せそうな穴ってことですよね? んー、あ、ありました!」
長谷部は捲っていた冊子を閉じ、何本かの黒いコードを机にばら撒いた。
「これのどれかと合わないか?」
「何です? これ」
「電源コード、というものだ。アレがまともだった頃、その四角いものを充電させて使うと言っていた」
「『でんき』で動くってことですか?」
「そうだ」
現代には面白い道具がいっぱいありますねえ、と鯰尾はコードを1本ずつ試していく。
「こういうのって、こんのすけが知ってたりしませんかね?」
「さあな。そもそも、まだこんのすけをあの箱から出すわけにはいかん」
長谷部は淡々と、積み上がっている冊子や書類、本に目を通していく。

これらはすべて、審神者の部屋にあったものだ。
呪具の類は石切丸と太郎太刀に調べてもらった上で燃やしたが、そうでないものは一旦この部屋に集めた。
そう進言したのは長曾根で、曰く、必要な情報というものは意外と残されるのだという。
「長谷部さーん。北側の2度目の見回り、終わったよ」
加州が物吉と共に見回りの報告に来た。
「様子はどうだ?」
「柘榴の実は朝と数変わらないね。樹自体は変化なしって感じ」
「鬼門ですが、こちらは暦通りの変化のようです」
報告を聞く限りでは、異常なしと言える。
「そうか。…報告書を書き終わったら、休憩に入ると良い。国広が集まって甘味を作っていたぞ」
加州と物吉のみならず、鯰尾の顔もパッと輝いた。
「やった! 今日は何でしょうね?」
先週は盛大に失敗してましたけど! と鯰尾は余計なことを言う。
「失敗あってこそ、って燭台切さん言ってたし、期待して良いんじゃない?」
2人の分も貰ってくるねと加州が言うのに、長谷部と鯰尾はありがたく甘えることにして作業を続ける。
その去り際、物吉がぽつりと洩らした。

「甘味、鶴丸さんも食べられたら良いな」

彼は顕現してからのほとんどを、鶴丸の世話役として過ごしている。
ゆえに、彼の思考の半分以上が鶴丸と結びつくのは仕方がないことと言えた。
加州は物吉の頭をわしゃりと撫でる。
「俺たちで味見して、竜胆丸さんの分は江雪さんに供えてもらってさ。そんで夕ご飯の後に持ってこーよ」
ていうか、俺も早く鶴丸さんに会いたいし喋りたい! と明るくぼやく加州に、物吉はくすりと笑った。
沈みがちな物吉を、彼なりに励ましてくれているのだとよく分かる。
「加州さんは、明後日にお会いする予定でしたっけ?」
「そーそ。大人数だし一気に会ったら鶴丸さんが逆に疲れちゃうって、それは分かるけどさ。
知り合いから順にったって、あの刀(ひと)知り合い多すぎじゃない?!」
現世でどんだけの人があの刀を欲しがってたんだろうね、と。
それが今回の件にも深く関わっていたのだと、2人はわざわざ口にはしない。



日が沈もうとする暮れ六つ。
江雪が、弟刀だと宗三左文字と小夜左文字を連れてやって来た。
「宗三左文字…そうか、思い出した。今川から織田へ来たと言っていたな」
「ええ。あの頃も、貴方には随分世話になりました」
「? 宗三兄さん、何かあったの?」
小夜に問われ、宗三は思い出すように目を細める。
「鶴丸さんが織田に居た頃、僕はまだ付喪神としては未熟だったんです」
他の付喪神を喰らう輩も多い場所でしたから、と言う彼に、鶴丸は肩を竦めてみせた。
「呼び捨てで構わんぜ。きみ、そんなしおらしい性格ではないだろう?」
おや、と江雪は鶴丸の慧眼ぶりに目を見張る。
言い当てられて渋い顔をした宗三の横で、小夜が心持ち身を乗り出した。
「あの、鶴丸…さんは、果物好き?」
「林檎が食べられたし、好きだと思うぞ」
「じゃ、じゃあ、次は…柿、持ってくる。すごく美味しいんだ」
「そうか! 楽しみにしてるぞ」
にかりと満面の笑みを向けられて、小夜は少し照れた。

左文字兄弟が部屋を辞した後、ようやく竜胆丸が目を覚ました。
ちょうど日が沈んだところだ。
「賑やか、だったな…?」
竜胆丸はまだ眠そうに瞼を擦って、そんな無防備な姿を鶴丸は愛おしく思う。
「ああ。江雪が宗三と小夜を連れて来てくれてな」
「…へえ。小夜は力が、強くて…闇討ちに強いぞ」
「それは頼りになりそうだ」
「ふぁ…。宗三は…うぅん…きみの世話を焼きたがるかも、なあ…」
「そんな性質(たち)じゃあなさそうだが?」
竜胆丸の眠そうな瞼へ口づけ、鶴丸は首を捻る。
彼の目覚めが異様なほどに悪いのは、彼が黄泉の存在であるからだ。
"目覚め"は『陽』、本来が『陰』である竜胆丸にはどうしても合わない。
「きみに、恩があるということさ」
お返しとばかりに鶴丸へ口づけると、竜胆丸はぼんやりとしつつも愉快げな笑みを浮かべた。



国広という刀派の者たちが作った甘味に驚きを齎され、鶴丸も竜胆丸も上機嫌だ。
そこへ訪れたのは一期一振で、彼は2振りの脇差を連れていた。
「初めまして鶴丸さん! 俺は鯰尾藤四郎って言います!」
「俺は骨喰藤四郎。よろしく頼む」
「ははっ、元気が良いなあ。きみの弟刀かい?」
「はい。大坂城で共に居りまして、元は薙刀でした」
彼らの記憶も欠けているのだろうことは、一期一振を知る鶴丸にも容易に察せられた。
鶴丸の傍で膝立ちになった鯰尾が、明るい笑みのまま誘う。
「鶴丸さん。湯浴み、行きましょう!」
「は?」
刀が湯を浴びるのか? と返した鶴丸に、そうだと表情を変えぬまま頷いたのは骨喰だ。
「俺たちも最初はそう思った。だが湯に入るのはこの人の器だけで、本体には何ら無関係だった」
「…ふむ。考えてみれば、こうして物を食っている時点でそうなるか」
「そうなんですよ! 面白いですよねー」
ほらほら、と手を引く鯰尾に頷いて、竜胆丸の手を借り立ち上がる。
足が僅かに痺れてふらついたが、大丈夫そうだ。
「ほら、竜胆丸さんも!」
どうやら、巻き込まれるしかないらしい。
鶴丸も手を離してくれる様子がないので、大人しく言うとおりにするかと竜胆丸はひょいと肩を竦めた。
「じゃ、有り難く世話をされるか」
「夜着は後ほど、脱衣所へお持ちいたしますので」
一期一振に見送られ、鶴丸と竜胆丸は藤四郎の脇差に連れられ風呂へ向かう。



竜胆丸の左の腰骨辺りに美しく、艶やかに咲く竜胆の花。
すっかり温まった指先で花をなぞり、鶴丸は湯当たりではない熱い吐息を零す。
「俺以外に、これを見られるのは……。あまり、良い気分ではないなあ」
「それが理由かい?」
風呂でこの刺青を目にしてから、様子が妙だと思ったら。
竜胆丸は可笑しいやら可愛いやらで笑みを漏らす。
「あの子らは口が固いだろう? それにこれは、きみに有ったものじゃないか」
「だから、だ。竜胆が『竜胆』である証そのもの」
これはきみと俺だけのものだ、と拗ねたような声音に、竜胆丸の中にある感情が歓喜する。
「きみは馬鹿だなあ。俺がきみ以外のものであるわけがない」
竜胆の刺青を飽きることなく眺め、舐めては口づける鶴丸を引き剥がして、竜胆丸は自身の膝上に乗り上げさせた。
見上げた黄金(こがね)の目はすっかりと本来の輝きを取り戻し、後は人の器を慣れさせるだけ。
「俺ときみが同じ『ひとつ』であることは、如何な力が作用しようとも覆らない」
何度でも、竜胆丸は黄泉より還るだろう。
鶴丸という現世の己を守るために、幾らでも穢れを喰らうだろう。
いつか『鶴丸国永』の生が終わるときまで、欠けの無い望月たる『鶴丸国永』へ戻るために。

ーー朔の日まで、あと7日。


*     *     *


本丸の至る所で、鶴丸と竜胆丸の姿を見掛けるようになった。
無論、竜胆丸が寝入ってしまう昼間と、鶴丸や大部分の刀が眠りにつく夜半を除くが。

「貴方と鶴丸さんは、同じ記憶を持っているのか?」
「いいや。黄泉路で分かたれて以降は、それぞれ別個の刃生だ」
畑仕事に混ざる鶴丸を一番近い縁側で見守りながら、竜胆丸は非番だという骨喰と語り合う。
燃えて記憶が無いという彼は、死者の刀である竜胆丸に思うところがあったらしい。
「2人は互いを"自分"だと言うが、違う記憶を持っていてもそれは"自分"なのか?」
「俺にとって大事なのは、あいつが『俺と分かれた鶴丸国永である』という事実だけさ。
号の由来を人の子すら記録に遺していないが、それでも俺の半身であることは変わらん」
例えば、いつかの未来に『これは鶴丸国永ではない』と言われたとして。
彼と分かれた証が竜胆丸自身であり、竜胆丸と同一の存在であることが『鶴丸国永』の証明となる。
「千年、経っちまったからなあ。もはや人の子の評価では俺たちを消せない」
骨喰は、かつての朋輩だという三日月を思い出す。
(彼もまた、人の子の評価では消えないのだろう)
「きみの証明は、現世に在るきみの本霊(ほんたい)だ。
未来に否定されるとて、今のきみは『骨喰藤四郎』以外の何者でもないのさ」



背にある重みは、三百余年前と変わらない。
自室で書物を捲る大倶利伽羅の背を背もたれに、静かな呼吸で鶴丸が眠っている。
竜胆丸は今、三日月や長曾根と手合わせの真っ最中。
太刀筋は同じなのかと誰かに問われて、興味を持った竜胆丸が乗ったのだ。
手合わせを見ると動きたくなるから、と部屋に篭もろうとした鶴丸を、大倶利伽羅に任せたのも当人だ。
「……」
伊達で共に在った頃も、このようなことが幾度となくあった。
どこかで誰かと賑やかにしているかと思えば、時折誰も寄せ付けなくなる。
そのようなときに、うっかり近づいてしまった大倶利伽羅を許したのも鶴丸だ。
(あいつが、)
自身が美術品の扱いを受けていることをどう思っているのか、鶴丸に聞いたことはない。
ないが、政府の陰陽師に協力を請われた際、喜々として受けたのではないかと思っている。
なぜなら『鶴丸国永』は、戦刀だ。
ゆえに此処へ鶴丸が顕現した後、大倶利伽羅は何も出来なかった上に助けられもしない自分自身を呪った。
その呪いは大倶利伽羅ではなく審神者へ向かい、そして。

「…おっと、よく寝ているな」

竜胆丸が廊下から顔を出した。
「起きたら連れて行く」
そう進言した大倶利伽羅に、少し考えた竜胆丸はいや、と否定を返す。
「寝るなら鶴丸の傍が良い。せっかく共に居るんだからな」
独りで寝るなんて墓と一緒だと、そのときだけは違う場所を見るような目であった竜胆丸を、拒否する理由もない。
判ったと一言、大倶利伽羅は後ろ手に鶴丸の肩を叩く。
「おい、国永。起きろ」
然程待たずに、鶴丸は目を覚ました。
「ん……なんだ? おわったのか?」
「ああ、終わったぜ。小夜が燭台切と一緒に、柿のしゃーべっととやらを用意してくれたんだ」
きみの分もあったから行って来いと言われ、大倶利伽羅は鶴丸を立ち上がらせるついでに立ち上がる。
江雪が出陣で不在だが、どうやら山伏国広が経を読んでくれるらしい。



夜も更けて、虫の声に混じり冷たい風が吹く。
「…あ」
湯殿から足早に自室へ歩いていた加州は、張り出した廊下の先を見てピタリと足を止める。
「わっ?! ちょっと清光、いきなり止まらないでよ」
夜戦帰りで遅いこの時間、元より潜めていた声量が功を奏した。
加州が無言で先を指差すので、大和守は怒るよりも先にそちらを見遣る。
(あっ…)
在ったのは、鶴丸と竜胆丸の姿だった。
起きていたのか目が覚めてしまったのか、眠そうにしながらも笑みを交えて話す鶴丸の横顔。
それに返す竜胆丸はこちらからは背しか見えないが、穏やかな気配だけは分かる。
「つがい…って、ああいうのを言うのかな」
溢れた疑問は無意識だった。
大和守は律儀にそれを拾う。
「夫婦(めおと)のこと? 僕にはええと…そう、"比翼の鳥"って感じするよ」
「片羽ずつの鳥?」
「うん。三日月さん言ってた。『比翼の鳥は1羽では翔べない』って」
彼の目線は鶴丸と竜胆丸へ戻っており、加州もまた再び彼らを見つめた。
「竜胆丸さんが顕現するのは、異常なんだ。僕はあの人を見てると…病床の沖田くんを思い出す」
思い入れの強い主の最期を知る刀たちは、大体似たようなことを言う。
「…二度目は無い、ってこと?」
同じ刀の分霊を幾度も喚べる中で、彼だけは二度とこの本丸に顕現されないと云うのか。
「僕はそう思う」
迷いなく言い切った大和守に、加州も数秒考えた。
「……うん、俺も思う」
何より加州や皆を守ってくれたのは、今竜胆丸が守っている鶴丸だ。
恩を返し切る前に折られるなど、ましてや同じことを繰り返させるなど。
(絶対、させるもんか)
部屋へ戻るのだろう、2人の姿が廊下の先から奥へ進んで見えなくなる。
「ねえ、一旦厨に戻らない? 僕、足が冷えてきた」
「俺も。さんせー」
加州と大和守は足音を忍ばせたまま、通り過ぎた厨へと引き返した。



歌仙が暇潰しにと貸してくれた、今までの出陣に関する報告書。
興味津々にそれを読み耽る鶴丸を、本日昼までの彼の相手を仰せつかった三日月が微笑ましく見つめている。
縁側は柔らかな日差しに包まれ、ぽかぽかと心地良い。
「竜胆丸。そなたに確認しておきたいのだが」
「うん…?」
そろそろ午の刻、うとうとと鶴丸へ寄り掛かる竜胆丸へ声を掛ける。
「そなた、以前俺たちへ言うたな。朔の日の後、そなたの記憶が俺たちに残るか判らんと」
鶴丸が報告書から顔を上げた。
先より幾分かはっきりと目を開けた竜胆丸が、三日月を見る。
「言った」
返答は端的に。
三日月が柳眉を寄せた。
「ふむ…。しかしそれでは、此処へ顕現したそなたのことを、鶴はたった独りで抱えることになるぞ」
ビクリ、と鶴丸の肩の震えが竜胆丸へ伝わる。
「…俺は周りに誰も居ないが、そうか。此処にはきみたちが居るものなあ」
己だけが知っていてそれを共有できない、それはどのような心地であろう。
竜胆丸は不意に口の端を吊り上げる。
「しかしきみ、言い出すということは。きみは俺の記憶を負う覚悟があると、そういうことだな?」
「うむ」
言い出したときと変わらぬ表情で、かの天下五剣は宣う。
その瞳に浮かぶ三日月が、僅かにキラリと反射した。
鶴丸は何も言わない。
ちょいちょい、と竜胆丸が指先で招くのに、三日月は上体を屈めて顔を寄せる。
ーーと。
ちゅっ、と可愛らしい音を立てて、額に口づけが降った。
さすがに驚いた三日月が顔を上げれば、悪戯に笑む竜胆丸が居る。
「これで、きみにも死者の手招きが見えることになるぜ。せいぜい頑張ってくれよ?」
言い置いて、竜胆丸は鶴丸を背中から抱き込む。
「何を拗ねているんだい、きみは」
「…拗ねてない」
あちらを向いている鶴丸だが、三日月にもその顔が幼く歪められているのが窺えた。
つい、そのまぁるい頭を撫でてやりたくなる。
「すまぬが、鶴にはもう一度拗ねて貰わねばなあ」
「…?」
意味が分からない、と片方の眉を上げた鶴丸の頭を、今度こそ三日月は撫でた。
「龍の仔にも、竜胆丸のことは覚えていて貰わねばならん」
鶴丸が否やを言う気は、なかった。


*     *     *


ついにその日が来た。
竜胆丸を以前から知る者たちは、来てしまったかと憂いを内に隠す。
朝から元気のない鶴丸に、平野と物吉はやきもきするばかりだ。

朝餉を済ませた竜胆丸は石切丸、太郎太刀と共に燃やした審神者の部屋を訪れた。
「…これか」
足元には、呪符の貼られた木箱。
「中身は確認しておりませんが、十中八九」
太郎太刀に頷きを返し、2人に二重の結界を張ってもらう。
「鶴丸は、御神刀として在った時期があると言っていたね」
「ははっ! 俺はずっと黄泉の刀だぜ。暇に飽かせて、呪詛の類に詳しくなっちまった」
竜胆丸は自身の刀の鞘を払うと、垂直に立てた刃で木箱の中央を貫いた。
瞬時にぶわりとぶち撒かれた瘴気が、一瞬後には切っ先へ収束する。
そしてパカン、と割れた箱の中では、黒い管狐が丸くなっていた。
「…黒?」
こんのすけは淡い黄と白をしていたように思うが。
石切丸と太郎太刀が悩む横で竜胆丸が刀を収めれば、パチリと黒いこんのすけが目を開ける。

【はっ?! わたくしめは今まで何を?!】

あわあわと忙しく周囲を見回す彼に、竜胆丸はしゃがんで視線を合わせた。
「きみは審神者に酷い扱いを受けてな。呪符で封じられた上に閉じ込められていたのさ」
【な、なんと…】
考えるように俯き、こんのすけはすぐに顔を上げて首を傾げた。
【貴方様は、鶴丸国永様でございましょうか?】
記憶したお姿と違いますね、と続ける管狐の、額の隈取に人差し指を触れる。
隈取が、淡く光った。

「きみの主君は鶴丸国永。人の子にぞんざいに扱われていたきみを憐れみ、情けをかけた付喪神だ」

竜胆丸が指を離すと、隈取の芯には小さな竜胆の紋が刻まれていた。
【たかが管狐1匹に、なんと慈悲深い…! まずは御礼を申し上げねば】
「まあ待て。きみは意識を取り戻したばかりだ。まずはそこの2人に、乱れた氣の流れを正してもらえ」
終わるまで政府への接触は禁止だと告げれば、承知仕りましたと素直に返ってくる。
「式神は物分りが良くて良いねえ」
くつくつ嗤った竜胆丸を、敵に回したくはないなと石切丸は嘆息した。
「それじゃあ、こんのすけのことは任せてくれ」
2振りの大太刀を見送り、竜胆丸は別の場所へ足を向ける。
(後は…)



三日月は、竜胆丸と共に鍛刀部屋にいた。
「鍛冶場の妖精は元気そうだなあ」
考えてみれば手入れ部屋も穢れは無く、そういうものかと適当に納得しておく。
「して、竜胆丸や。そなた、新たな刀を顕現させる気か?」
「そのまさかさ。付喪神が付喪神を顕現させるなんて、驚きだろう?」
遠征を滞り無く進めているため、手入れに資材を使用しても残りは潤沢だ。
資材を吟味していた竜胆丸の顔から、ふと表情が失せる。

「俺が消えても。俺が顕現に手を貸した刀剣なら、俺の氣を持っているはずだ」

三日月は何も言わなかった。
ただ、資材を選んで妖精たちに渡す竜胆丸を部屋の入口から見守る。
資材を投入された鍛刀部屋が、カチリと鍛刀時間を刻んだ。
ーー4:00。
あなや、と三日月は呻く。
「俺がもうひと振り来るかもしれんというのか…」
「それは面白いなあ!」
ぜひとも結果を拝みたかったぜ、と笑う竜胆丸は、相変わらず肚の内を見せない。



朝からずっと、鶴丸は竜胆丸の手を離そうとしなかった。
審神者の部屋へ行こうとしたときも、鍛刀部屋に行こうとしたときも。
ひとときも離れたくないと、黄金色が懇願する。

日が沈んだら、もう駄目だった。
「嫌だ。行かないでくれ、竜胆丸…!」
それはかつて、黄泉路で分かれたときに似ていた。
自分自身を分けるという痛みと、分けた己と別れる痛みが身の内を灼くのだ。
ぎゅうぎゅうとしがみついてくる鶴丸を、離し難いのは竜胆丸とて同じ。
「ずっと、こうしていられたら良いのになあ…」
喰らった鶴丸の記憶は、竜胆丸の中に在る。
いずれ本霊へ戻った折にどうなるかは、分からない。
だが、黄泉の『竜胆丸』が抱える分には構わないが、『鶴丸国永』へ流すわけにはいかないだろう。
「鶴丸」
流れる涙を吸い取って、額をこつりと合わせる。
「竜胆…」
「なあ、鶴丸。朔の間だけなら、おそらく此処へ戻れる。だから」
だからどうか、俺を呼び続けてくれと。
懇願する竜胆丸の瞳から、同じ雫がほろりと溢れる。

黄泉で分かたれ、幾星霜。
逢ってしまえば歓びと哀しみは堰を切り、留まるところを知らない。
白み始めた外の気配に、黒が透ける。

「きみが折れるときは、俺を伴にしてくれよ」
「ああ。…必ず、きみと共に還ろう」

誓いを交わし触れた唇を最後に、竜胆丸の姿は朝陽に溶けて消えた。
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2016.1.3
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